discord 2




越前と跡部がコートに倒れ込み、先に起き上がったのは跡部の方だった。その時、氷帝の人間は――コートの周りをぐるりと氷帝の生徒が囲んでいたのだから、その場にいた殆どの人間が、と言い換えても大げさではないかもしれない――歓喜に沸き、安堵した。
すぐ傍にいたレギュラーの一部はその跡部の様子に気付いていたかもしれない。
けれど、少なくともフェンスの外にいた生徒の殆どは、部長の「復活」を喜んだ。
それも無理はない。
青学の方はその反対で、殆どの人間が落胆したのだから。
もう駄目かもしれないと。
だから、誰もが悲痛な声で越前の名を叫んだ。

そんな中、彼女だけが、ただ黙って無表情のまま跡部を見つめていた。
その様子は、彼が倒れ込んだ時よりも痛々しかった。
不二は何故そんなことを憶えているのだろう。
何故、その時ふいに彼女の方を見てしまったのだろう。
その理由は思い出せないし、探すことも出来ないけれど、ただ、その彼女の目と、フェンスの網に食い込ませた白い指だけが目に焼き付いている。

越前が起き上がり、サーブを打ち。
氷帝側の人間が一転、皆コートから視線を反らす中、彼女はやはりさっきまでと同じく跡部を見つめていた。
審判のゲームセットの声。
その声など全く聞こえないかのように、微動だにせず、ただ、ただじっと、コートの中を見つめていた。



別荘に戻って来た不二は、部屋のベッドに寝転がり、携帯を開く。
ライブラリの先頭に、さっき彼女と撮った写真。
あの全国大会の時に見た彼女の表情からは想像もつかないような、明るい笑顔。
不二もその写真につられて、笑みを浮かべる。
自分との写メなど誰にも自慢にならないと言った彼女。確かに、青学の生徒に送ってもこれは誰かと問われるだけだろう。
もしかしたら手塚辺りは氷帝のマネージャーだと気付くかもしれない。
しかし――それはそれで面白くないことに気付く。

じゃあ、これを跡部に送ったらどうだろう?

そんな突拍子もないことを思う。
跡部の携帯のアドレスなど、不二が知るはずもない。
だがもし知っていて送ったら――彼はどんな反応を見せるだろうか。

あの全国大会の準々決勝の後、髪を刈った跡部がフェンスの外に出て、彼女に向かって何か言っていた。
別に彼女はコート出口の傍に立っていた訳ではない。
わざわざ跡部は彼女の方へ出向き、一言だけ何か言い、去って行った。

何を言ったのかは分からない。
それに対して彼女が何と返したのかも分からない。
いや、きっと何も返事していないだろう。
ただ黙って冷ややかな視線を送っていただけのようだった。
しかしその一見冷たい視線にも、どこか安堵のような、温かい体温のようなものを含んでいるように見えた。

「――何で、こんなこと憶えてるんだろうな」

不二が自嘲する。
何故、他校の部長とマネージャーのやり取りをこんなこと細かに憶えているんだろうか。
あの時は青学の生徒は皆準決勝進出に沸いていて、自分も例外ではなかったはずなのに。

携帯を閉じ、脇に放る。
自宅よりも高い木目の天井を見上げ、左手を伸ばす。
触れようと思えば、彼女に触れることの出来た手。
何故あの肩に手をかけなかったのだろう。
髪を掠めなかったのだろう。
昼間はそれが当然だと思っていたが、今になって悔やんでいた。
広げていた手のひらを、逃した何かを掴むようにグッと強く握る不二。
この数時間で、不二は嫌というほど自覚した。

彼女が欲しい。

ほんの一時間足らずの間、向かいの席で同じアールグレイを飲んだだけ。
それだけで、曖昧な記憶の中を漂っていた彼女が、自分の奥深い場所に入り込んでしまっていた。

彼女が、欲しい。

心の中で、もう一度呟いてみる。
さっきお店で襲って来た渇きが、再び不二の全身に広がった。
深いため息を吐き出してもその渇きは消えてくれず、不二は自分を抱きしめる。

「周助ー、お茶にしましょー」

眉間に皺を寄せる不二に、部屋の外から姉の暢気な声。
ふと気が付けば、彼の部屋にまで甘い匂いが漂って来ていた。
さっき夕飯を食べたばかりだと言うのに。不二は呆れながらも「今行くよ」とベッドから起き上がった。

「お母さんと一緒に作ったのよ、アップルパイ」

不二がリビングに行くと、既にお茶の用意は整っていて、姉がポットから紅茶を注いでいた。
さっき一緒に出かけたときに買って来たのだと言う。
一応ちゃんと買い物をしたのかと内心思いながら、不二はその紅茶の注がれたカップに顔を寄せた。

「いい香りだね」
「でしょう?だからね、はい、これ」

そう言って、テーブルに小さな紅茶の缶をコトリと置く姉。
不思議そうに首を傾げる弟に、彼女は「さっきの彼女に持って行って上げなさいよ」と、普通のことのように言った。
怪訝な顔の弟に、にんまりといやらしい笑いの彼女。

「この近くの別荘にいるって言ってたじゃない?ほら、アップルパイも少し持って行くといいわよ」
「何言ってるんだよ、姉さん」
「あの子じゃライバル多そうよね。でも周助なら大丈夫よ!」
「そんなんじゃ――」

そんなんじゃない、と言いかけて、咄嗟にやめてしまう不二。
そんな正直な自分に呆れてか、お節介な姉にか、やれやれと彼はため息をついてテーブルについた。

「アップルパイなら、裕太が来れば全部平らげちゃうよ」
「あら、大丈夫よ、裕太のためには明日ラズベリーパイを作る予定だから」
「……姉さん、暇なの?」
「私はただ弟の恋を応援してあげようってだけよ?」

他意はないわ、と他意だらけな笑顔の姉。
「あらあら、何だか楽しそうなお話ね?」と、そこに母親まで入ってくる。
結局退屈していたのは自分だけじゃないと言うことだろう。

「周助ったら、姉の私そっちのけで可愛い女の子とずっとお茶してたのよ?」
「他校のマネージャーだって言ったじゃないか」
「あら、それだけにしては随分と楽しそうに話してたわよ」
「姉さん、からかわないでよ」
「あんなに楽しそうな顔の周助、久しぶりに見たわ」

どこまでが冗談で、どこまでが本当なのか。
判断のつかないまま不二は小さく首を横に振る。
目の前に置かれた小さな紅茶の缶を手に取り、ぼんやりと眺めながらそれを弄んでいると、アップルパイを切り分けながら微笑んでいる母親の視線に気が付いた。
やれやれ、と再び苦笑い。

「せっかくの好意だから、ありがたく受け取っておくよ」

開き直って不二がそう言うと、姉もまた意味ありげにふふと笑った。




舗装されてない小径を入って暫く進むと、ぱっと視界が晴れて彼女の泊まっている別荘が見えて来た。
コテージから張り出したベランダの部分に立っていた彼女は、自転車に乗って現れた不二に気が付くと大きく手を振った。
不二の方も緩む自分の頬を自覚しつつ、片手を上げる。

「今日も天気が良くて風が気持ちいいから、外でお茶しようと思って」

柵に手を置いて話しかけて来る彼女の背後には、小さな木製のテーブルと椅子。
そしてテーブルの上には淡い色のクロスが掛けられて、既にカップなどが用意されていた。
ベランダのすぐ横に自転車を乗り付け、ひらりと降りた不二は、柵越しにアップルパイと紅茶の缶が入った籠を彼女に渡す。

「ありがとう!――わぁ!美味しそう」

籠から取り出したそのアップルパイの美味しそうな匂いに、思わず声を上げる彼女。

「昨日の夜不二くんから連絡貰ってから、私もクッキーくらいは頑張って作ろうと思ったんだけど」
「思ったんだけど?」
「おかしいよね、本の通りに作ってるはずなのに、何であんな全然違うものが出来ちゃうんだろ」

遠回しに失敗したことを告白しながら、アップルパイを大きな皿に移す。
その肩を竦める彼女の後ろ姿に、不二は小さな笑いを漏らした。

「もともとそう言うのってあまり得意じゃなくて。それを急に上手に作ろうなんて虫のいい話よね。今度練習しておく」

彼女の中にも「今度」が存在するんだろうか。
その台詞に内心どきりとしながら、不二が変わらず微笑って「いつでも練習台になるよ」と言うと、は「とんでもない!」と大げさに手をばたばたと振った。

「不二くんに変なもの食べさせてお腹壊しちゃったりしたら、青学の皆に恨まれちゃうよ!」
「大丈夫。これでも胃腸はかなり鍛えられてるから」
「どこで?」
「部活でね」

乾汁のことを思い出しながら不二はそう答えたが、まさか運動部で胃腸が鍛えられるなんて理解出来るはずもなく、彼女は怪訝な顔をするばかり。
不二はその彼女の表情を楽しみつつ、自分の持って来た紅茶の缶を手に取る。
と、ようやく彼女は思い出したように「あ、お湯用意して来るね」と言って、家の中へと消えて行った。

一気にシンとする空間。

木々に囲まれた、緑の香りのする静かなこの空気も好きだけど――
すぐに彼女が戻ってくることは分かりきっているのに、どうしようもない欠落感。
我ながら滑稽だなと、缶を弄んだまま空を仰いで笑う不二。
そんな彼に微笑みかけるように、柔らかい風が通り過ぎて行く。
その風の行く先を追うように不二は開け放たれたままの窓の方へと目を向けた。
いくら、別荘では家族皆何もせずにのんびり過ごしているとは言っても、静かすぎる空気。
その中から小さな足音をさせて、彼女がポットにお湯を入れて戻って来た。

「――今日は、ご両親は?」
「うん?ああ、お父さんとお母さんはテニスしに出かけちゃった」
「テニス?ご両親はテニスするの?」

意外な彼女の返答に、不二は目を丸くする。
そんな彼には可笑しそうに笑いながら続けた。

「そうなの。二人の出会いは氷帝大学のテニスサークルなんだって」

まあテニスサークルだから全然本格的にやってた訳じゃなくて、二人とも素人の私でも簡単に勝てちゃうくらいの腕前だけど。
そう話しながら、お茶の準備をする彼女。
これまた予想していなかった台詞に不二は驚いた。

さんもテニスをするんだ」
「するって言っても、その二人に付き合って休みの日に遊びでやる程度だけどね」
「でも、結婚してからもずっと一緒に続けてるなんて、素敵だね」
「そんなロマンチックなものじゃないけど――そうだ、週末にはテニスをやってる弟の……裕太くんだっけ?も、こっちに来るんでしょう?一緒にテニスしない?」
「え?」
「すぐ近くにテニスクラブがあるの知ってる?私、一応そこの会員になってるの」

にこにこと笑って、さらりと次の約束をしてしまう彼女。
ここに来る途中、どんな風に次の約束を取り付けようかと自転車のペダルを漕ぎながら考えていた自分が滑稽に思える。
不二は心の中で苦笑しながら「いいね」と答えた。
弟を彼女に会わせると言うことに僅かながら抵抗がないでもなかったが――そんな独占欲にも自嘲するが――こんな願ってもない提案を断る理由がない。

「そこのテニスクラブなら、僕も何度か行ったことがあるよ。もしかしたらさんに会ってたのかもしれないね」

会っていたら気付かない訳がない。
そう自分で分かっていながら白々しいと思いつつ、不二はそんな台詞を吐いた。



思わず「テニス」と言う言葉に不二も反応してしまったためにお茶を淹れてからも暫くテニスの話が続いたが、ふいと、会話が途切れたときに、今彼女とこの別荘に二人きりなのだと言うことを思い出す。
緑に囲まれたこの空間に、彼女と二人きり。
我ながらありきたりで単純だと分かりつつも、不二は緊張せずにはいられなかった。
短い静寂の間に、カップに口を寄せながら、ひっそりと唾を飲み込む。
彼女は、特に何も意識する様子なく両親の留守を伝えた。
けど、こうやって屋内でなく外でお茶をしようとしたのは――ただ単に天気が良かったからだけではないかもしれない。
もし少しでも彼女が自分を男として意識していてくれているのだったら。
そんな期待を隠すように、紅茶をもう一口。

アップルパイを一切れ食べ終えると、再びテニスの話を続ける彼女。
その様子は本当に楽しそうで、テニス自体がとても好きなのだと言うことがよく分かる。
しかし「テニス」の話はしても「テニス部」の話は殆どしなかった。
意識してしないのか、無意識なのか、今いち計りかねる。
意識して、だとするとその理由は何なのだろうか。
そんなことを考えだすと――あまり面白くない結論に達しそうになる。

昨日と同じように彼女の肩が触れそうな場所にある。
昨日自分の別荘に戻ってから、あんなに欲しいと、触れたいと思っていた彼女がすぐ隣りにいると言うのに、いざとなると風に乗って流れて来るその香りに触れることさえ罪悪感を覚えてしまう。
僕はこんなに消極的な男だったかな。
自分の手の数センチ先にある彼女の指に触れることを躊躇う自分に、呆れる不二。

「じゃあ、コートの予約入れたら連絡するね?」
「うん、待ってるよ」

ゆっくりと距離を縮めて行けばいいんだ。
そう慰める自分もいるが――そんなのんびりしていていいのかと問いかけて来る自分もいる。
そしてその直後に一瞬脳裏を掠めるあの男の姿。
無意識に、彼を気にし過ぎているのだろうか。
彼女の別荘を後にして自分の別荘へと戻る途中、道を横切る大きな黒塗りの車を見て、不二は即座に「彼」ではないかと疑ってしまった。