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「今ね、修羅場中なの」「え?」
不二も東京の自宅に戻って数日後。
夏休みも数日で終わろうとしていた頃に、不二は思い切って彼女に電話を掛けてみた。
この前会った時に話していた写真家の写真集を渡したいと思って。
そんな無理やりな理由を考えて。
携帯はすぐに繋がった。
彼女の声は軽井沢で聞いたのと同じように明るくて、思わず不二はほっとした。
けれど、後ろの方からいろいろな話し声や音楽が聞こえて来て、少しだけ不二はがっかりした。
そして次の瞬間には、一喜一憂する自分が可笑しくて苦笑いする。
電話を掛ける前に考えておいた写真集の話をすると、即座に「ほんと?見たい!」と彼女から返って来たが、その後すぐに「ああ……」と唸るような声。
そして冒頭の台詞だった。
修羅場?
修羅場と聞くと、どうしても女の子の場合、男女がらみの物を想像してしまったが、それにしては普通に電話に出て、声は明るい。
「もう、酷いの。明後日には後期が始まるって言うのに、英語の課題が半分以上残ってるんだから」
「……課題?」
訝しげに聞き返す不二の声と、背後からの「酷いとか言ってんじゃねー!」と言う抗議の声が重なる。
ちょっと高めの声。
けれど、男の声。
不二は自分の心がざわつくのが分かった。
しかしそんな彼の心など知る由もなく、は暢気に「いや、酷いでしょー」と笑う。
「あのね、今、皆で夏休みの課題を片付けてるの。あ、私はもちろん終わってるのよ?でも終わってない人がいてね」
「お友達?」
「友達って言うか、不二くんも知ってる面子よ。テニス部のレギュラー」
「え?不二くん?今、不二くんって言った?」
彼女の背後からまた別の男の声が聞こえる。
それは不二でも聞き覚えがある、芥川のものだった。
では「なに、お前、まだ不二と連絡取ってんの?」と聞いている声は――向日だろうか?
あの男もいるんだろうか?
思わず唾を飲み込み、不二は黙り込んでしまう。
「でも私はそろそろ退散しようと思ってるんだ」
「ひでーっ俺たちを見捨てんのかよ!」
「とか言ってる間に、一問でも解きなよ」
耳を澄ませたけれど、彼の声は聞こえて来なかった。
その場にいないのか。それとも、ただ単に聞こえるくらいの声で話していないのか。
「――どこにいるの?」
「うん?」
「写真集、持って行くよ」
気が付くと、口から言葉が出てしまっていた、と言う感じだった。
しかし一度口に出すと、行きたくて、会いたくて仕方なくなってしまった。
ちらと壁に掛けられた時計を見る。
氷帝の生徒が集まる場所なら、不二の家からもさほど遠くはないだろう。
「えっ?あ、じゃあ、S駅まで私出るから――」
「S駅まで出る時間も宿題手伝った方が、そこにいる彼らは助かるんじゃない?」
「いいのよ、この人たちは自業自得なんだから」
彼女の言葉に、速攻で「鬼!悪魔!」と言う声が返って来る。
仕方ないなと言った感じで、は申し訳なさそうに今いる場所を伝えた。
S駅から地下鉄で数駅行ったところのマック。
予想通り、不二の家からなら30分も掛からない。
「じゃあ、これから向かうから」
「近くまで来たら連絡してね?出て行くから」
彼女はそう言ったけれど、不二は初めから連絡するつもりはなかった。
部屋に戻り、写真集を引っ掴んですぐに家を出た。
その駅は、不二は通過するばかりであまり降りたことはなかった。
一年か二年の頃、氷帝との練習試合があった時に使ったくらいだろうか。
駅前のマックを通り過ぎ、氷帝に近い、小さめの店に向かう。
きっと普段なら生徒のたまり場になっているだろう場所だったが、今は夏休みの真っ只中と言うこともあってか、それほど混んでもおらず彼女たちもすぐに見つけられた。
まあ、彼らならたとえどれだけ混んでいてもすぐに見つけられそうではあるが。
不二が店内に入って来ても、暫くは誰も気付かないようだった。
いや――入り口の方に向かって座っていた忍足は一瞬視線を上げたような気がしたので、もしかしたらわざと気付かないふりをしたのか。
芥川はその忍足の隣りで気持ち良さそうに寝ており、彼女は不二の立つ方に背を向ける形で、向日に何かを教えていた。
しかし教えられている本人はあまりやる気なさそうで、今にも机に突っ伏しそうにして唸っている。
彼女の肩が、そんな彼に呆れているのを表している。
が、根気強く教えていると、それにつられるように向日も彼女の方に身を乗り出す。
腕や肘が触れそうな位置。
既に少し触れているかもしれない。
たったそれだけのことで、不二は自分の予想していた以上に、心の中に薄黒いものが沸き上がった。
特に今まで注意深く観察していた訳ではないが、試合の時は彼女とそんなに近い位置にいる人間はいなかった。
他のマネージャーらしき女子生徒が隣りに座ることはあったし、他の部員が隣りに立つことも、もちろん記憶になかった訳じゃない。
だが、それでも、一定の距離を置いているような感じがしたのは気のせいだろうか。
あの跡部などは、隣りに立つことさえなかった。
時折の方に視線を向けることはあっても、傍に立つことはなかったように思えた。
けれど、コートから離れると一変して距離が近くなるものなのか。
珍しく帽子を被っていない宍戸が髪をばさばさと掻きながら――どうやら彼も宿題をやっていない方らしい――こちらにふいと顔を向けて、不二に気が付いた。
眠っていた芥川以外が、一斉に不二の方を見る。
にやりと笑う忍足を見て、やはり彼は最初から気付いていたのだと再確認。
「不二くん!連絡くれればよかったのに!」
彼女が慌てて立ち上がって不二の方へと走って来ようとする。
それを制するように、不二の方が彼らの方へと近づいて行った。
彼女の声にようやく目を覚ました芥川が、眠そうな声で「あ〜不二くんだ〜」と目をこする。
しかし不二の目には芥川の姿は入っておらず、まっすぐに彼女の方へと向かい、向日との間に割り入るように、椅子の背凭れに手を置いた。
「駅からすぐ近くだったから」
にっこりと大げさなくらいの笑みを作ってそれを彼女に向け、それから威嚇の意味を込めつつ向日の方にも向ける。
が、向日の方ははそんな不二の意図など理解することなく、単なる「邪魔者」として彼を見上げた。
くく、と小さく笑う忍足を睨んだが、ほんの一瞬のことだったので本人以外は気付かなかっただろう。
「これ、さっき話してた本」
「ありがとう!」
彼女に本を差し出すと、隣りの向日は「何だよ、それ?」と言って更に彼女の方に身を乗り出して来る。
忍足のことを楽しませる結果になるのは面白くなかったが、不二は不機嫌な顔になるのを抑えきれなかった。
「写真集ぅ?そんなもん渡すためにわざわざ来たのかよ?」
遠慮のない向日の台詞に、宍戸までもが苦笑い。
そう、わざわざそのためだけに、こんな所に来たのだ。
決して勘がいいとは言いがたい宍戸でも、それがどう言うことか、何となく分かる。
そして、それを周囲の人間に知られてもいいと覚悟して来たのだろう。
寧ろ知らせることが目的だったのか。
しかし当の本人である彼女は「ほんと、ありがと」と嬉しそうに笑うだけだ。
「不二くん、ここー。ここ座ってー」
もう一人、不二の意図が分かっていないらしい芥川が隣りの空いている席をぽんぽんと叩く。
そこは彼女と一番離れた席だ。
「岳人、自分がそっちに移動し」
「えぇ?何でだよ?」
「気ぃ利かせえっちゅうことや」
「は?何だよ、気って。その席に行ったら、俺誰に宿題教えて貰うわけ?隣りがジローで斜めが宍戸って、ダメ組じゃん!」
「てっめぇ、ダメ組とか言ってんじゃねーよ!てめーが一番出来てねぇくせして!」
「僕はその席で構わないよ。って言うか、僕、ここにいていいのかな」
「うん、いいよ〜」
「いや、よくないでしょ。不二くんをこんなものに付き合わせる訳にはいかないよ!」
「てめー、!こんなものとか言ってんじゃねー!」
「向日、私にそんな口利いていいの?」
「……すいません」
収拾がつかなくなって来た時、「まあ、ええやん」と忍足が肩をすぼめた。
「せっかく『こんな所』まで来たんやから、ちょっと休んでったらええやん」
わざとらしく『こんな所』と言う箇所を強調しつつ、「なあ?」と微笑う。
そんな忍足に不二もにっこりと笑いながら「そうさせて貰うよ」と言い、芥川の隣りに腰掛けた。
すかさず「ポテト食べる〜?」と赤い箱を差し出して来る芥川に短く礼を言いながらも、意識は彼女の方へ向いてしまう。
大事そうに写真集を鞄にしまう彼女。
その様子が微笑ましかったけれど、隣りでテキストをばんばん叩きながら「次、これ」と口を尖らせながら言う向日につい眉を顰める。
「ちょっと向日。自分で少しは考えようって気にならないの?」
「そんな時間ないの分かってんだろ!つーか、お前のノート貸してくれたら帰っていいよ」
「やだよ、向日、丸写しするでしょ」
暫しにらみ合う二人。
その様子を不二が頬杖をついて見ていると、脇から「いつもこんな調子や」と関西弁が聞こえて来た。
氷が溶けて薄まってしまったアイスコーヒーをすすり、顔を顰める忍足。
「夏休みとか冬休みの終わりとかな。あと試験前なんかもこんな感じやねん。懲りんやっちゃ」
「だいたいいつも……この面子なの?」
「せやな。いつもこの三人や」
ひょいひょいと向日、芥川、そして宍戸を指差し、三人に抗議の目を向けられたが素知らぬ振りをしてポテトを一本口に放り込んだ。
「手伝うのも、だいたい君と――さんなの?」
「せやな。あとこれに滝が入ったり入らなかったり、や」
不二の聞きたかったことを察したのか、忍足は一呼吸置いた後、ぼやくように続ける。
「他のマネージャーも最初は声掛けたんやけど」
「でもあいつら使えねーし!」
「……向日、偉そうに言える立場じゃないでしょ」
「だってホントのことじゃんか」
「まあ、言葉は悪いけどなぁ。実際全然使えんかったから、しゃあないわ」
要は、そこそこ勉強の出来るマネージャーは彼女以外にもいるけれど、いざ一緒に勉強するとなると勝手が違うらしい。
いくら優秀なマネージャーでてきぱき仕事をこなしていても、部活を離れれば一ファンに成り下がってしまうと言うことなのか。
今度は忍足の方が察してくれとばかりに苦笑いして見せる。
そこに芥川が割り込むような形で、不二に数学のテキストを差し出して見せた。
「ねーねー、不二くん、数学出来るー?」
「え?うん、どうかな……」
「ここ、ここ。ここ教えてー」
「ジロー、そこはさっき俺が教えてやったやろ」
「いいのー、よく分かんないし。俺、不二くんに教えて欲しいの!」
にこにこと不二に向かって笑う芥川。
――使えるか使えないか試してる?
一瞬そんなふうに疑ったが、あまりに彼が無邪気に笑うので、深読みするのも馬鹿馬鹿しくなった。
不二が覗き込んだテキストのその問題は、幸い青学でも既に習った箇所で、ほっとしつつ説明を始める。
すぐに眠そうに目を細める芥川に呆れつつ、ふいと斜め前を見ると、が参考書片手に英語の構文を向日に教えていた。
明らかに理解していなくて眉間に皺を寄せ不貞腐れる向日に、簡単な例文を書きながら丁寧に説明をしている。
さらさらとノートの上を滑る彼女のシャープペンシル。
気が付くと、そんな他愛ないものに目を奪われる。
きっと、今、彼女の意識にあるのは、勉強を教えている向日だけなのだろう。
彼女の普段の様子を見たいと思って不二はここに来たつもりだった。
こうして呆気なくその目的は達せられたけれど、それと同時に、本当に自分の望んでいたものがそうではないことに気付く。
困っている友人を放り出して自分だけを選ぶ彼女を、不二は望んでいない。
けれど、心の何処かでそれを期待していたのかもしれない。
ふう、と思わずため息を吐き出した時、彼女の脇に置いてあった携帯が鳴った。
「あ――」と一瞬顰められる彼女の顔。
着信音で誰から掛かって来たのか分かったのだろう。
つまり、その人物からの着信音は変えていると言うことだ。
ぴくりと動いてしまった不二の指に、誰か気付いただろうか。
「跡部やな?」
彼女の携帯が鳴ったことに特別関心を払わなかった向日たちが、忍足の口から出て来た名前に「げっ」と顔を顰める。
にや、と笑う忍足に、やれやれと肩を竦める彼女。
「きっと進捗の確認だよ。どうするの?全然進んでないじゃない」
「進んでるだろ!ほら!2ページ!」
「適当に言っとけばいいだろ」
「跡部も来ればいいのに〜」
冷たい視線を三人に投げかけ、最後に不二のところで少し申し訳なさそうな顔をする。
それから携帯を耳に当てた。
「あー……はいはい、ごめんなさい」
すぐに出ろとでも怒られているのか、彼女は投げやりな感じでそう答えた。
すると今度は返事は一度でいいとでも言われたのだろう、「はぁい」とあからさまに不満げな声。
携帯の向こうからは、殆ど声は漏れ聞こえない。
それでも、つい、不二は耳をすましてしまう。
他の四人は気にせず宿題の片付けを再開したが、不二はどうしても気にせずにはいられなかった。
たぶん忍足辺りは向日に教えるふりをして自分の反応を楽しんでいるに違いない。
分かっていても、芝居しきれない。
ほどなく、彼女は携帯を手にしたまま「ちょっとごめん」とカタンと席を立った。
その背中を目で追うのだけは辛うじて我慢出来たが、やはりどうしても気になって、芥川と話をする合間に、その姿をひっそりと探す。
けれど、さっと視線を移しただけでは彼女のことは見つけられず、一度諦めて芥川のテキストに視線を戻そうとした。
と、その時、忍足と目が合う。
すると、彼の視線がまるで不二を誘導するかのように、奥の階段の方へと移動した。
そこには予想通り、壁に寄りかかって携帯で話をしている彼女。
特に楽しそうに笑っていると言う訳ではなかった。
寧ろ、彼女の表情はどこか面倒くさそうだ。
壁に体重を預けて、顔をやや上に向けて、鬱陶しそうに目を細める。
笑顔は一度も見せない。
しかし、その仕草や表情は――今まで見たことがないくらいに、「女」に見えた。
何故そう見えたのか、後から説明しようとしても、恐らく無理だ。
が、その時は疑いなくそう見えたのだ。
反射的に立ち上がろうと腰を浮かしかける不二。
しかし「どうしたの〜?トイレ?」と言う芥川の暢気な声に我に返り、何とか座り直した。
その後すぐに「ごめんごめん」と言いながらテーブルに戻って来た彼女は、さっきまでと変わらない笑顔だった。
「じゃ、そろそろ退散するね。跡部から甘やかすなって指令も出たことだし」
「えーっ!何だよ、それ!普段は跡部の言うことなんか聞かないくせに、こんな時ばっかり聞くなよな!」
「ちょっと、失礼ね!私が言うこと聞かないことなんてあった?」
「いや、いつもだろ」
向日にデコピンしつつ、彼女は鞄に荷物を仕舞い始める。
「甘やかすな言うんやったら、俺も退散――」と言いかけた忍足は、「忍足は最後まで付き合ってやれって」と言う彼女の伝言に撃沈。
「差別や、差別」と言う文句をさらりと無視して、彼女は鞄を肩にかけた。
「じゃあ、行こうか、不二くん」
「――うん、そうだね」
今度はゆっくりと落ち着いて席を立ち上がる不二。
行っちゃうの〜?と寂しそうに言う芥川に笑いかける余裕もある。
けれど、彼女の笑顔を見ると、言いようもない焦燥感に襲われた。
「ほな、気を付けてな」
最後に手を振る忍足の口元には、どことなく意味ありげな笑み。
まるで不二を見透かすかのような表情。
その時ふと、もしかしたら彼は今までも同じような人間を見て来たのかもしれない、と思った。
そんな彼らと同じ道を辿るであろう自分を哀れんでいるのかもしれない。
そう思った瞬間、何故だか苛立ちや腹立たしさよりも先に、闘争心のようなものが沸き上がって来た。
「ごめんね、不二くん。変なことに付き合わせちゃって。夏休みの終わりって、いっつもあんな感じなの」
「僕は楽しかったよ。仲良くていいね」
「仲がいいって言うのかなぁ。うちのレベルを晒すようでちょっと恥ずかしい」
ぱたぱたと手で顔を扇ぐ。
そんな彼女の横顔を見ながら、不二は聞きたいと思ったことをどうしても口に出来ないでいた。
跡部とどんな話をしていたのか?
たぶん、聞いても仕方のないことだと、不二も分かっている。
恐らく聞いても彼女はさっき話していた通り、「課題の進捗状況」と答えるだろうし、事実、そうなのだろう。
他愛のないことしか話していない。
軽井沢でも、きっとそうだったのだろう。
そして――あんな表情をしたのだろうか。
「不二くん?」
「――ん?」
「どうかした?」
「どうもしないよ。……なんで?」
「ううん。何でもないならいいの」
戸惑ったような彼女の顔が、また笑顔に変わる。
そしてまた、不二を襲う焦燥感。
それを抑え込むかのように、ぐっと手に力を込めた。
「――じゃあ、僕はこっちだから」
「あ、うん。もう帰っちゃうの?」
僅かでも残念そうな彼女の顔が救いかもしれない。
不二も、もう少し一緒にいたい。
けれど一緒にいてはいけないような気がした。
このまま二人でいれば、何かを壊してしまうような予感がある。
「また、連絡してもいいかな」
「うん、もちろん!写真集、ありがとう。家でゆっくり見るね」
「うん」
手を振ろうとする。
不二は衝動的にその手を取った。
自分で自分の不意の行動に驚いたけれど、のびっくりした顔を前に、何とかポーカーフェイスを保つ。
ひんやりとした彼女の手。
今度はその手を自分の方に引き寄せたくなったけれど、辛うじて押し込めた。
「じゃあ――またね」
「うん。またね、不二くん」
まだ少し驚いたままの表情の彼女を前にして、改めて不二は自覚した。
自分は彼女の笑顔よりも寧ろ、あの表情をさせたいのだと。