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部活も引退して、引き継ぎもほぼ完了して。跡部は生徒会の最後の仕事である文化祭のことに追われるようになって。
クラスも違うとは、殆ど顔を合わせることがなくなって来た。

この前、昼休みの学食でたまたま見かけた時は、友達と何やら旅行のガイドブックを見ていた。
通りがけに漏れ聞こえて来たのは「恋人同士に人気のスポットだって!」とか「ここで襲っちゃいなよ!」とか、おおよそ品がいいとは言えない会話。
「変なこと言わないで!」とガイドブックを丸めて友達を殴る真似をする彼女は楽しそうで、跡部も、くだらねえなと心の中で呟きながらも微笑った。
たぶん、あいつとどこか旅行に行くのだろう。
胸の辺りのどこかが微かに痛まないこともなかったけれど、楽しそうな彼女の様子には素直に笑えた。

三年間、部活を共にするだけで、考えていることが大体分かるようになるかと言われれば――否だろう。
例えば同じ部員ならばテニスのプレイでは大体予測はつくようになるし、普段の行動パターンも読めるようにはなって来る。
しかし、それとは少し、違う。
他のマネージャーどころかレギュラー部員のことも同じように分かっているとは、言いがたい。
もともと、彼女とはそう言う節があった。
そこそこの人数がいるマネージャーの中で、彼女が一番、跡部の考えていることを理解した行動をする。
跡部も、何となく彼女のやりたいこととかが分かる。
それは入部当初からのことだ。
要は、波長が合ったのだ。



交流試合の前日、珍しく跡部の教室に現れた彼女は、自分も明日行っていいかと躊躇いがちに聞いて来た。
当日は来なくていい、と敢えて言ったと言うことは、つまり「来るな」と言う意味だ。
彼女がそれを理解していないはずもない。
それでも「行きたい」と言うことは、あの男に「来い」と誘われたのだろう。
自分の中で納得の出来ないことは頑固なくらいに拒む彼女が、躊躇いながらも自分の意思を曲げる。
あの男のためなら。
どうしようもなく苛立って、跡部は「好きにしろ」とだけ言った。

不二が過剰なほどに自分を意識しているのは、忍足に指摘されるまでもなく跡部だって気付いていた。
あの軽井沢で会った時から。
「俺の気持ちとか、俺の行動とか、そんなことはお前には関係ない」
あの時はっきりとそう言ったはずだったが、あまり効果はなかったようだ。
そんな不二が、部活の延長のような場所で「部長」と「マネージャー」の二人を見たらどう思う?

好きにしろ。
――どうなっても知らねぇぞ。
心の中で舌打ちして。
しかし、ほんの僅かでも「どうにか」してやろうかと思わなかったかと言えば、嘘だった。

跡部が一番予想外だったのは、忍足のことだ。
普段、面倒ごとには徹底的に顔を突っ込まない主義である彼が、何故だか不二には突っかかる。
そんな忍足が、真面目な顔をして生徒会室にやって来たのは、交流試合の数日後だった。

「あかん……予想以上に効果あり過ぎたみたいや」
「一体何のことだ」

いつも仕事中であれば追い返す所だったが、やたらと神妙な顔つきで眉間の皺に手を当てる忍足を見て、とりあえず話だけは聞くかと奥の部屋に通す。
そして、彼から話を聞き始めると、今度は跡部の眉間に深く皺が寄り始めた。
珍しく始業ぎりぎりに登校して来たと廊下ですれ違って、「おはようさん」と挨拶したが、彼女はこそこそと顔を隠すようにして小さい声で挨拶をするだけだった。
おかしいと思った忍足が休み時間に教室に出向けば、両方の瞼を腫らしながら「何でもないよ」と友達に笑って話している彼女の姿。
強引に腕を引っ張って、部室へと連れて行って。
最初は「自分の問題だから」となかなか口を割らない。
けれど、持久戦は忍足の方が得意だ。
何とか彼女からその泣きはらした目の理由を聞き出した。

「最初俺がからかったんや。あいつが英会話スクール通い始めた理由知っとる?って」
「は?そんなの、部活を引退したからだろ?」
「まあ――そこは思わせぶりに、な」

自分は不二ではなくて跡部を好きなのだと言って、全く話を聞いてくれない。
信じてくれない。
こめかみを押さえて、ため息をついて。彼女はまた、涙を零した。

「思わせぶりに?どう思わせぶりにしたらそんな話になるんだ」
「そら、自分がイギリスに戻る言う話聞いたらピンと来るやん」
「――理解出来ねぇ」
「その理解出来ないところが、嫉妬に狂う男の怖いところやねん」

しれっとそう言い悪びれもせず肩をすぼめる。
さっき生徒会室の前で見せた表情は演技か。
非難を込めて跡部は目の前の男を睨んだ。

「どういうつもりだ」
「マクドで会うた時から、どうもいけ好かんかったんや」

いや、もっと前からかもしれへん。
ソファの背凭れに体重を預け、鬱陶しそうに前髪をかき上げる忍足。

「あいつが意識してるんは、自分のことばっかりや。のことは二の次」
「……そんなことはねえだろ」
「そんなことある。自分かて分かっとるやろ。あいつが欲しいと思ってるんは『跡部を好きな』や」
「そんなものは、いねえよ」
「さあ、どうやろ」

気が付くと、跡部は忍足の胸ぐらを掴んでいた。
しかし忍足の方は相も変わらずすました顔で、至近距離の跡部を見返す。

「――怒りの矛先間違うてるで、跡部」
「余計なことをするな」
「すまん、手遅れや」
「なら、自分で責任もって何とかするんだな」

実際のところ、跡部は自分がこの件に首を突っ込むつもりはなかった。
あの男が本気なのであれば。
彼女があの男といることを望むなら。
彼女なら自分の力で何とかするだろうし、今までも何とかしてきた。
忍足にはこう言ったけれど、もちろん彼が何とかする必要もない。
この部屋を出る時の跡部は忍足の言動に呆れつつも、そんなに心配はしていなかった。

そんな彼が眉を顰めたのは、その数日後に明らかに具合が悪そうな彼女の姿を廊下で見かけた時だった。
今までにが体調を崩したことなど、数えるくらいしかない。

「――ったく」

馬鹿が。
舌打ちしてそう呟きながら、そのまま声を掛けたりせずに通り過ぎたけれど、その白い顔がやたらと脳裏にこびりつく。

ふと、嫌な予感がしたのは日曜の朝、晴れ渡った空を見上げた時だ。
秋らしい澄みきった空。
普通なら深呼吸でもして爽快な気分になっても良さそうなものだったが、何故だか無性に跡部の胸をざわつかせた。
ジョギングをしてトレーニングを一通り終えてもそれは解消されない。
それどころが時間が経つにつれ言いようもない不安感は増すばかりだ。
学食でガイドブックを楽しそうに見ていた彼女の姿が目に浮かぶ。

あれだけ具合が悪そうなのであれば、旅行の予定などは延期されるだろう。
たとえ延期をせずに無理やり彼女が行こうとしても、待ち合わせ場所に現れた彼女を見ればあの男がすぐ家に帰すだろう。
――あの男が、その場に現れれば、の話だが。

跡部はシャワーのコックを止める。
自分の髪から落ちる水滴に視線を落とす。
ぽたり、ぽたりと足の甲に落ちる水滴が冷たく感じる。

まさか、もう、誤解は解けてるだろう?

そう呟くと、更に跡部は焦燥感にかき立てられる。
何度「まさか」と繰り返してもそれは増す一方だ。
ごちゃごちゃ考えていても仕方がない。
シャワールームを出て乱暴に身体を拭った跡部は、すぐ車を準備させた。



二人の待ち合わせ場所など、跡部が知るはずもなかった。
ただ、二人が水曜の放課後に会っているのは彼も知っていた。
別に積極的に知ろうとした訳ではない。
向日だったか芥川だったかが部室でそう騒いでいたのが耳に入ってしまっただけで。
彼女の家からその駅まではすぐ近くのはずだ。
不二の家がどこにあるのかは知らないが、学校の帰りにいつも会うくらいだから、そう遠くはないのだろう。
水曜に限らずただの待ち合わせに使ってもおかしくない。
いや、別にそこが待ち合わせ場所じゃなくてもいい。
そこに彼女がいないのを確認して、自分が安心出来ればそれでいいのだ。
所詮、こんなものは自己満足に過ぎない。
跡部はそこに車を向かわせながら、彼女に会わないことを願った。

いなければ、このざわつきは収まる。
いなければいい。
いないでくれ。

英会話スクールのあるビルの前で車を止め、外に出る。
ビルの前は静かで人はおらず、駅の方へ向かう通りにも彼女の姿はなかった。
駅の入り口の階段を昇り、改札口の周辺を見渡す。
そこにも彼女らしき姿は見当たらなくて、跡部はほっとした。
そしてその瞬間、自分は一体何をしているのだと可笑しくなって苦笑する。
まったく、馬鹿馬鹿しい。
自嘲して来た道を戻ろうとした時。
少し離れた物陰に――今日だけは会いたくないと、いないで欲しいと願っていた、見覚えのありすぎる姿。

「――

学校で見た時と同じように、むしろ、その時よりも具合の悪そうな彼女は、俯いて辛うじて立っているといった感じだった。
一体いつからそこにいたのか。
跡部が腕時計に視線を落とせばもう昼近い。
考えたくない。
そんな物陰で下を向いていては、相手に見つけてもらうのも難しいだろう。
彼女だって相手を見つけづらいだろう。
現に、目の前に立つ跡部にも気付かず、口元を手で押さえて苦しそうに息を吐き出している。



跡部が名前呼ぶと、しんどそうではあるがゆっくりと彼女が顔を上げる。
すぐ目の前に立つ背の高い男に怪訝そうに眉を顰めながら、それが跡部だと気が付くと、一瞬大きく目を見開いた。

「――跡部」

何で、と言う顔。
それはそうだろう、跡部本人も、正直どうして自分がこんな所に立っているのか分からない。

「帰るぞ」

いつから待っているか、とか聞く気にもなれなかった。
彼女の顔を見たら、そんなことはどうでもよくなった。
彼女自身、もう諦めている。
いや、最初からか。
最初から、不二が来ることを諦めていた。
それでも、やはりここに来ずにはいられなかったのだろう。

そんなにも、あの男が好きか。
あんな、自分の声を聞かずに周囲に翻弄されるような男が。
そう思うと、知らず彼女の腕を掴む手に力が入った。
おおよそ病人を労ると言う感じではない。
しかし彼女の方も力ないながら抵抗を試みる。

「帰らない」
「こんな所にいてもしょうがねぇだろ」
「……しょうがなく、ない」
「あいつは来やしない。それはてめぇでも分かってんだろ」

跡部は現実を突きつけたけれど、は落胆することなく、静かに跡部を見上げた。

「それでも……帰らないの」
「てめぇのそれは自己満足だ。悲劇のヒロインでも気取ってるつもりか?」

そして、跡部自身も自己満足で今この場所にいるのだ。
騎士でも気取っているつもりか。
わざと彼女の傷付きそうな言葉を選んで、この場から離れさせようとする。
けれど、彼女は自嘲的な笑みを浮かべるだけで動こうとはしない。

「そうだよ。気の済むまで気取らせてよ。跡部は……帰って」
「もう気は済んだだろ。病院に担ぎ込まれてぇのか。帰るぞ」

掴んでいる彼女の腕は、跡部のものとは比べ物にならない程に熱を帯びている。
その場から引き剥がそうと跡部は自分の方へ彼女の腕を引き寄せたが、再び往生際の悪い抵抗にあった。
思わず咄嗟に出てしまう舌打ち。

「世話を焼かすな」
「……何で跡部が来るの」
「残念だったな、あいつじゃなくて」

つい口をついて出た自分の言葉に、跡部は吐き気を覚える。
目の前のは目眩がしたのか、一瞬ぐらりと身体を揺らした。

「言わんこっちゃねぇ――」
「……なんで、来るの」

自分の額を押さえて俯いた彼女が、もう一度同じ台詞を吐き出す。

「跡部のことは――好きじゃ、ない」
「……ああ、そうかよ」
「好きじゃない」

絞り出すような、幾分低い、掠れた声。
苦しそうに顰められる眉根。
思った以上にその台詞は堪えて、そんな表情は見たくなくて、跡部は彼女の肩に手を回し、その頭をぐいと自分の肩へと押し付けた。

「安心しろ。俺も――同じだ」

胸の辺りを押して彼から離れようとする
その抵抗を許さず、肩を強く抱いたままそう呟くように言った跡部の声もまた同じように掠れる。

「てめぇと同じだよ」

好きではないと言うのであれば、好きではないのだろう。
これは恐らく、そんな単純なものではないのだろう。

「――うん」

小さく頷く彼女はもう抗う気力はなく、青白い顔のまま跡部に凭れかかったまま。

ここにいなければいい。
いなければ安心出来る。
そう思って車を降りた。

指で梳く彼女の髪さえも熱く感じる。

彼女があの男といることを望むなら――それが幸せならと何度も心の中で繰り返しながら、このザマは何だろう?
愚かしい自分に眉根に力を込める。

ここにいる彼女を目にして、ほんの僅か、安堵していた自分に。