discord 3




彼女からコートの予約が取れたと連絡があったのは次の日だった。
あと二日。
二日後にはまた彼女に会える。
けれど、二日経たなければ会うことは出来ない。
どうやら電話を切ったときに不二の中を占めたのは後者の気持ちの方が割合が大きかったらしく、ふうと小さなため息を吐き出した。

躊躇うことなくツーショットの写真を撮ってくれる。
紅茶とパイを持って家に行けば、喜んで迎え入れてくれる。
自分の趣味の話をずっと微笑いながら聞いてくれる。
次の約束を自ら提示してくれる。

しかしそれらの彼女の行動は別に「不二だから」ではないことは不二自身も分かっていた。
他校のテニス部の生徒。
その位置から一歩も飛び出せていない。
恐らく彼女なら、少し知っている程度の人間には誰に対しても同じように接するだろう。

「――二日、か」

ついこの前まで、今度の週末と言えば裕太の来ることが待ち遠しいばかりだったのに、今では彼女のことばかりが待ち遠しい。
我ながら可笑しいな、と苦笑いしてみるが、そんなことでこの落ち着かない気持ちが何処かへ退散してくれるはずもない。
不二は携帯だけを手に、外の空気を吸いに家を出た。



そんなに遠くまで行くつもりはなかったが、ぼんやりと考え事をしながら歩いていると、いつの間にか人の多い通りに出ていた。
もしかしたら、彼女と偶然出会うことをまた期待しているんだろうか?
パン屋から大きな袋を手に出て来た家族連れを何となく目で追いながら、自分を分析してみる。

本当に――どうしようもないな。

自分で自分に呆れるが、それこそ、どうしようもない。
片想い、とはつまりこういうことなのだろうか。
この新鮮な感覚を楽しめればいいのかもしれない――が、楽しんでばかりいれば後で悔いることになるだろう。
通りの先に止まっていた黒塗りの大きな車を見つけ、不二は歩を止める。

昨日、彼女の別荘からの帰りに見かけた物と同じに違いない。
そうそうどこにでもある形の代物ではない。
この付近は資産家の別荘も多いとは言え、今まで見たことのないような大きさのリムジンだった。
不二の肩に自然と力が入る。
そして、予想通りと言うべきか、すぐ前の細い坂道を降りて来る男の姿。

「――跡部」

気怠げに歩くその手には小さな紙袋。
そして彼の背後では和菓子屋の店員らしき数人が彼に向かって深々と頭を下げていた。
不二に気付いた跡部が、一瞬足を止めて、そしてにやりと笑う。

「……よぉ」

不二が東京から離れたこんな場所にいることに驚く様子もない跡部。
不二もまた、跡部がここにいることに驚きはしなかった。
跡部がここに現れてもおかしくはない。けれど、出来れば現れてほしくはなかった。
その理由を探り出せば、やはり望ましくない結論に達するであろうから。

「驚いたな。跡部もこの辺りに別荘があるの?」

白々しくもそう聞いてみると、跡部の方も敢えてまともに答えて来た。

「ああ、ここから車で15分ほど行った所だけどな。だが今日はただの祖母さんの使いだ。ここの店の最中が好きらしい」

そう言って、手に持っていた紙袋を少しだけ上に掲げてみせる。
わざわざ最中を買いにこんな遠くまで?
あり得ないことでもないけれど、多忙な孫を買いに行かせる必要はないだろう。
「お取り寄せとかしないんだ?」と意地悪く聞いてみると「そこは、そう言うのはしてないらしい」とこれまたまともに返して来る。
このまま当たり障りない会話を二三交わして別れることも可能だろう。
きっと、跡部の方から「それ」に触れて来る気はないのだ。
不二は小さく息を吐き出す。
それから、クスリと笑ってみせた。

「本当に、最中だけが目的?」

跡部の表情がすっと消えた瞬間を、不二は見逃さなかった。
それは跡部自身も気が付いていただろう。
く、と喉を鳴らし、「あの人は人使いが荒いんだよ」と肩を竦める跡部。

「そう言うお前はこんな所で何してるんだ?」
「僕?僕はただの散歩だよ。この近くの別荘に泊まってるんだ」
「散歩?ってことは暇なのか?ならちょっと付き合えよ」

お茶ぐらいなら奢ってやるぜ、と言って跡部は先を歩き出す。
相手が断ることなど全く想定していないかのように。
まあ、確かにその誘いを断るつもりはない。
不二は大人しく跡部の後をついて行った。

ここでいいかと跡部が入ったのは、さっき二人が出会った場所から5分も離れていないカフェだった。
この辺りはお茶をする場所には不便しない。
真っすぐに奥のテラス席へと出ると、跡部は奥の椅子にゆったりと腰を下ろした。

「――部活の方はどう?もう引き継ぎとか始めてるの?」

注文を取りに来た店員が去ると、不二はテーブルの上に肘をつき無難な話題をふる。
いきなり核心に触れるのは礼儀に反するような感覚で。
しかし「核心」とは一体何なのだろうか。

「いや。準備は始めてるが、本格的には休みが明けてからだな」

背凭れに体重をかけ足を組む跡部。
両脇の肘掛けに肘を乗せて体の前で指を交差させ、素っ気ない口調で返す。
そして「青学はもう始めてるのか?」とさして興味もなさそうに聞いて来る。
実際、跡部自身他校の引き継ぎ状況など特に気にならないだろう。
不二だって同じだ。

「ううん、これから大阪遠征も控えてるしね」
「大阪?」
「うん。四天宝寺から招待を受けたんだ」

会話が上滑りする感が否めない。が、店員が注文した飲み物を置いて行った後も延々部活に関する話が続いた。
彼女とは一切部活の話をしなかったことと対照的に。
その上滑りする感覚に慣れかけて来た頃、跡部の持っていた携帯が鳴った。
一瞬彼女からかと思い、不二はどきりとする。
そんな彼の動揺など知ることもなく、跡部は「悪い」と携帯を取り出し席を立った。

「――はい。ええ、大丈夫ですよ」

テラスの端へ向かう途中聞こえて来た跡部のその言葉が明らかに彼女に対するものと違って、不二は無意識にほっと息を吐き出す。
そして次の瞬間そんな自分に気付き、今度はやれやれとため息を吐き出した。
これでは完全に片想いをする乙女のようだ。

「悪いな」
「ううん。大丈夫?」
「ああ――そろそろ戻らなきゃならない」

程なくして戻って来た跡部が、ほんの少しだけ眉間に皺を寄せ、残っていたコーヒーを飲み干した。
ただ鬱陶しそうにカップを呷る仕草でも可笑しなくらいサマになる男だ。
そんなことを改めて思いつつ、不二はテーブルに乗せていた両手を下ろし、苦笑した。
それに気付いた跡部が訝しげな視線を向けて来たが、何でもないよ、と肩を竦める。

「――で?」
「ん、いや、だから何でもないよ、深い意味は――」
「そうじゃねぇよ。俺は戻るが、いいのかって聞いてるんだ」
「え?」

いいのなら、いい。
きょとんとする不二に、特に表情を変えることもなく淡々とそう答えて跡部は席を立った。
そしてテーブルの端に置かれていた伝票をすいと取り上げる。

「え?ほんとに奢ってくれる気?いいよ、自分の分は――」

立ち上がって断ろうとする不二の言葉を途中で遮り、跡部は「恐らく、正解だ」と一言。
正解?何が?
動きを止めて怪訝な表情をする不二をそのままに、跡部はすたすたと店を出て行こうとする。

「跡部」
「回りくどいてめぇには、似合いの答えだろ?」
「ちょっと待ってよ」

会計を済ませ店のドアを開ける跡部。
店員や周りの客の多くが二人の様子を見ていたけれど、不二は気にせず彼を呼び止めた。
正解?
何に対する問いが?
ドアに手をかけたまま振り返る跡部に、不二は、慎重に、探るような視線を送る。

「――どこまでが?」
「どこまで?おいおい、一体どこまで想像してるんだ?」

はは、と声を上げるその笑いは挑発的にもとれたが、跡部は単純に可笑しがっているようでもあった。
店を出て石畳に降り立つ彼に、不二も続く。

「やっぱり腹の探り合いは性に合わねぇな」
「彼女に――会いに来たんだね」
「あいつに会いに来たのか。あいつと何を話したのか。あいつを好きなのか。てめぇの聞きたいのはこんなことか、不二。あん?」

不二の返事を待つことなく、跡部は「そうじゃねぇだろ」と続けた。

「そんなことはどうでもいい」
「……跡部」
「違うか?」

見透かしたかのような跡部の言葉。
しかし何故だか不二はそれほど腹も立たなかった。
これも眼力のようなものか?
いや、そんな大それたものではないか。
そんな大それたものを持ち出さなくても、それは、分かりきっているのだから。
確かに彼の言う通りだった。
跡部が彼女に会いに来ようが、どんな話をしようが――彼女を好きであろうが、それは大した問題ではない。
それによって、不二の中の気持ちが左右されることなどないのだから。

「僕は、彼女が欲しい」

不二は跡部の目をじっと睨むように見る。
跡部の方もそれを逸らすことなく同じくらいの強い視線で見返す。
が、次の瞬間、ふ、と小さく笑った。

「ま、いいんじゃねぇの」
「……余裕だね。僕ごときじゃ相手にされないって思ってる?」

さすがにむっとして不二がそう言うと、跡部は「そうじゃねぇよ」とひょいと肩を竦めて見せた。

「選ぶのはあいつだ。やるだけやってみればいい」
「そうさせてもらうよ」

これは、宣戦布告だから。
不二が覚悟を決めたようにやや声を低めてそう言うと、跡部は声に出してこそ言わなかったものの、受けて立ってやると言わんばかりの挑発的な目をした。
が、すぐにそれも皮肉げな笑みに変え、再び歩き出す。
気が付くといつの間にかあの黒塗りの車がすぐそばまで来ていて、跡部が踵を返すタイミングを狙ったかのように運転手が後ろのドアを開けた。
祖母に頼まれたという最中の入った紙袋を彼に預けた跡部は、「ああ――」と何かを思い出したかのようにもう一度不二を振り返る。

「一つだけ忠告しておく」
「……忠告?」
「あいつを泣かせるのは勝手だが、もし傷付けるようなことがあったら――容赦しないぜ?」

一瞬目を細めるも、すぐに冗談めかして「たぶん、俺だけじゃないだろうけどな」と肩をすぼめた。
泣かせてもいいのに、傷付けてはいけない?
傷付けるのは駄目だけど、泣かせてもいい?

「傷付けるつもりもないし、泣かせるつもりもないよ」

果たしてその不二の台詞が跡部の耳に届いたかどうか。
奇妙な忠告に眉を顰める彼をそのままに、跡部の乗り込んだ車はゆっくりと立ち去って行った。