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「――どうかされましたか?」

教室の入り口でふうとため息をつくの背後から、柔らかな低い声がした。
肩をガクリと落として、力ない様子で。
そんな自分を誰かに見られてしまったことが恥ずかしくて、動揺し、彼女はきゅっと口を引き結んで後ろを振り返った。
するとそこにはクラスメイトの柳生の姿。
高校2年になって、初めて同じクラスになった男だった。
温和な笑みを浮かべたまま、「元気がありませんね?」と、また柔らかな声。
彼とは今の今までまともに口を利いたことがない。
もちろんクラスメイトで、しかもここは自分たちの教室の前なのだから声を掛けられるのは、ごくごく自然なことのはずだが、どちらかと言うと人見知りなは忽ち緊張してしまって、コクンと唾を飲み込んだ。
そして、何とか強張りながらも笑顔を作る。

「え、ええと……さっきの外国語の授業ね、私、ドイツ語選択なんだけど、やっぱりいきなり2年からだと難しいなって思って」
「ああ、さんはドイツ語選択でしたか」

そう言って眼鏡に手をやる柳生の、もう片方の手にはフランス語のテキスト。
小さく頷き、強張った笑みを苦笑に変える

「私も去年まではずっとフランス語を取ってたんだけど、先生にそろそろ他の言語も勉強してみたらどうかって言われてドイツ語にしたんだ。一応春休みとかに基礎は勉強したつもりなんだけど、まだ全然追いつけなくって」
「そうでしたか」

彼女につられるように、柳生も困ったような笑みを浮かべる。
その彼が教室へと入って行くので、も一緒に歩きだす。
の席は、廊下側の後ろ寄り。
二人は彼女の席の前で足を止め、柳生が振り返る。

「私はさんの反対でしてね。昨年まではずっとドイツ語を取っていたのですが、もっとフランス語を知りたいと思いまして、今年からフランス語選択に変更したんです。そうだ、ドイツ語の参考書でとても分かりやすいものがありますから、今度お貸ししましょう。中学の時に使っていたものですが」
「え!い、いいよ!」

柳生の突然の申し出に、慌ててぱたぱたと手を振る
そんな、いきなり借りるなんて申し訳ない。
そう思って必死に遠慮したのだが、「こう言う時はお互い様です」と彼は笑顔のまま譲らない。

「もう使っていない物ですし、もし合わないようでしたら、すぐに返して頂いて構いませんよ」
「で、でも……」

もう一度首を横に振ろうと思ったけれど、ずっとニコニコ笑ったままの彼に勝てず、は俯き気味に「じゃあ……お借りします」と降参した。
その返事に、顔を輝かせる柳生。

「ええ!では明日にでもお持ちしますよ」
「そ、そんな急がなくていいから……」

何だか、実は話しやすい人なんだな。
そんな彼の様子に、の緊張が少し解れる。
こんな風に初めての人と、特に男の子と普通に話せるなんて珍しい。
そんな自分にちょっと驚くのと同時に、は笑みが零れた。

「……柳生くんは、フランス語の授業は?どう?」
「私ですか?そうですね……以前から少しかじっていましたので、何とかついては行けていますよ」
「そっか、じゃあ、私が昔使っていた参考書とか持ってきても意味ないね」

がちょっと残念そうに笑うと、柳生はもっと残念そうに眉尻を下げた。

「ありがとうございます。そのお気持ちだけで嬉しいです」

こう言う言葉がするりと出てしまうなんて、なんか、すごいなぁ。
そう感心するは、校内の噂話などには疎いので、彼が「紳士」と呼ばれていることを知らなかった。
思わずぼうっと見つめてしまうの前で、柳生は何かを考えている様子。

「あの――では」
「うん?」
さんが読まれたフランス語の本などがあれば、お貸し頂けますでしょうか。ああ、もちろん、もしよろしければ……ですが」

遠慮がちな彼の台詞に、は嬉しそうに大きく頷いた。
自分も同じように彼の役に立てると思うと嬉しくて笑顔になる。

「もちろんだよ。じゃあ、私も明日持って来るね!」
「そんなに慌てなくても結構ですよ」

そう言う柳生の方が少し慌てている。
ついさっきの言ったものと似たような台詞。
少しの間の後、二人は顔を見合せて照れ隠しのように笑った。




「おはようございます、さん」

次の日の朝、が自分の席に着くや否や、先に来ていた柳生が本を片手にやって来た。
も「おはよう、柳生くん」と挨拶しつつ、鞄から本を取り出す。

「こちらが昨日お話した本です。あと、これは文法を学ぶのにとても良い本ですよ」

そう言って、入門書らしき薄めの本と、ちょっと厚めの文法書を彼女に差し出した。
どちらも外見は綺麗だが、中を見ると使い古されたような黄ばみ。
「所々書き込みがしてあって、少々見づらいかもしれませんが……」と彼は言ったが、その書き込みもすごく綺麗な字で書かれていて、所々引かれたマーカーの部分も全く歪みのない真っ直ぐな線で、彼の性格をよく表していた。
この後に自分の本を見せるのが恥ずかしい。
はおずおずとした手付きで、自分の持ってきた本を彼に差し出した。
彼女も同じく2冊。

「ええとね、これが私が一番最初に自分で買って、面白いって思った本なの。でも子供の読む本だから、柳生くんには物足りないかもと思って……こっちの本は、もしかしたらちょっと言い回しとか癖があって読みづらい所があるかもしれないんだけど、最近読んで一番面白かったの」
「ほう……こちらはミステリ小説ですか?」
「うん、南フランスにある田舎町の古城にまつわるなぞを解き明かすって言う内容でね、フィクションなんだけど、史実も取り入れながら書かれていて、すごく面白いよ。あっ、柳生くんはフランス史は好き?」
「ええ、好きですよ。確かに少し難しそうですが、楽しみに読ませて頂きます」
「うん。返すのはいつでもいいから」

柳生は、彼女が初めて読んだと言う本を、ぱらぱらと捲る。
この本は何度も読み返したため、端の方は黒ずんでいる。
彼と同じく所々黄色いマーカーで線を引いてあるのだが、定規などを使っていないので、その線は歪んでいる。
大雑把な性格を見透かされそうで恥ずかしい。

「これは……さんの好きなフレーズに線が引かれているのですか?」
「う、うん……内容が好みだったり、あと、声に出した時『あ、いいな』って思った所にマーカーしてあるの。ごめんね、ちょっと邪魔だね」

言いながら、は柳生の手元にある本をパラリと捲り、「例えばここ」とある文章を指差す。
そしてそれを控えめな声で読み上げた。

「ね?何となく、フランス語っぽくて可愛いでしょ?」
「――え、ええ、そうですね。……とても、綺麗です」

一瞬、ぼうっとしたように見えた柳生は、慌てて眼鏡の縁を手で押え、彼らしくなくやや口籠る。
私の発音じゃ、今いち良さが分からなかったかなぁと内心苦笑しながら、は彼の手の中にあった本をパタリと閉じた。

「ちょっと見づらいかもしれないけど、分かりやすい文章だし綺麗な表現が多いから。よかったら読んでみて」
「はい。ありがとうございます」




は帰宅すると、早速机に向って柳生から借りた本を広げた。
入門書の方は、彼女も今まで勉強した分の復習のような感じで、例文なども分かりやすい。
――が、もう一方の文法書の方は、どうにも頭に入って来ない。
日本語の解説自体が難解なのだ。
同じ箇所を何度か読み返してみたが、やはり、ストンと落ちて来ない。

「……まあ、ゆっくりやるしかないよね」

1回で理解出来たら苦労しないし。
は自分にそう言い聞かせ、もう一度入門書の方に戻った。

次の日の朝は、柳生は部活の朝練があったために、よりも少し遅れて教室に入って来た。
が気付いて挨拶すると、彼もまた丁寧に挨拶を返してくれて、彼女のすぐ傍までやって来る。

「昨日お借りした本、早速読ませて頂きました。詩的な表現も多く、ページを捲る度に新しい発見のある素晴らしい本でした」
「あはは。それは褒めすぎだよ」

は笑ったけれど、彼の方は至って大真面目らしい。
「そんなことはありません」と、オーバーとも言える口調で主張する。

「本当に良い本をありがとうございます。もう一度ゆっくり読み返したいので、あと少しお借りしていても構いませんか?」
「ええっ!?もう全部読み終わっちゃったの?」

本当に今年からフランス語を選択したばかりなのだろうか。
もちろん、それ程難しい本ではないけれど、訳しながら読むとなるととても一晩では終わらない量のはずだ。
彼女が驚いて思わず声を大きくしてしまうと、彼は少し照れたように「おかげで今日は少し寝不足気味です」と笑った。
やはり見た目に違わず、彼は頭が良いらしい。
確かにあの文法書を分かりやすいと言ってのける程だ。
は「はあ……」と感嘆の声を上げた。

「あ、私もね、柳生くんに借りた本、使わせて貰ったよ!入門書の方は例文も多いし解説も丁寧だから、すごく分かりやすいね」
「そうですか!さんも早速見て下さったんですね」

の言葉に、嬉しそうに笑う柳生。
彼はどちらかと言えば遠くから見ていると、すごく真面目で、いつもきびきびと行動しているせいか、少し近寄り難い所がある。
風紀委員でたまに他の子を注意している所を見かけて、ちょっと怖い印象さえも持っていたけれど、こうやって話してみると、とても気さくで、よく笑ってくれる人だ。
クラスメイトの新たな一面を発見したような気分になり、は嬉しくなった。

「もう1つの方はいかがですか?ご覧になりましたか?実はあの本は私の父から譲り受けた本なのです。数年前に改訂版も出ているのですが――」
「そうなんだ。じゃあ、そっちなら分かりやすいかな……」

柳生の話に、つい、何も考えずそう返してしまった
目の前で、ピタリと動きの止まった彼を見て、は慌てて訂正しようとした。

「あ、えっと、違うの!その……まだちょっとしか見てないから……」
「いえ、いいんですよ。そうですね……あの本は確かに少し古い本のせいか、表現の堅苦しい所がありますから……。今度他の本を持って来ましょう」

そう言って笑いながらも、みるみる元気をなくして行く柳生。
何だか自分が物凄い悪者のような気分で、いたたまれなくては一生懸命フォローする。

「そ、そんなことないよ!本当に、昨日は入門書の方をずっと見てて、文法の本はちょっとしか開いてないの。だから、もうちょっと使ってみたい」

本当だよ、と必死に目で訴える。
そんな彼女の真剣な表情に、柳生は思わず笑みを漏らした。
その彼を見て、の方も安堵の笑み。

「どの辺りが分かりづらかったですか?もしお時間を頂ければご説明しますよ」
「ええっ!い、いいよ、大丈夫。自分で出来るから!」
「あなたのお役に立ちたいのですよ。あのように素晴らしい本を貸して頂いたのですから、是非お礼がしたいのです」
「そんな……」

律儀な人だなぁ。
感心するの前で、柳生はまた眼鏡に手を遣りつつ、自分のスケジュールを確認する。

「平日の放課後は部活がありますから――昼休みや土曜日の放課後などはいかがですか?」
「柳生くん、忙しいのに……時間貰っちゃっていいのかなぁ」
「もちろんですよ」

彼が大きく頷く。
ここで遠慮し続けても、何だか逆にどんどん申し訳なくなってしまいそうな気がする。
ここは素直に甘えてしまおうと、も頷いた。

「じゃあ、分からない所とか、まとめて来るよ」
「そうですか。では明日の昼休みから、と言うことでよろしいですか?」

彼の口ぶりだと、教えてくれるのは明日の1回だけではなくて、継続的になりそうだ。
その辺りは言及せず、はちょっとわざとらしく丁寧に「よろしくお願いします」と言って深々と頭を下げた。