zettel 10




放課後、は柳の教室に行ったが、彼はすでに部活へ行った後だった。
やはり前もって話をしたいと伝えるべきだったかと後悔しても、後の祭り。
流石に部活の練習にまで押し掛けるのはまずいだろう。
それに、テニス部には柳生もいる。
今日は大人しく帰るべきだろうか。
そう悩みながらも、は玄関ではなくて自分の教室へと戻って行った。

友人たちは部活に行ったり帰宅してしまったりして、残っていない。
教室にいるのは日誌を書いている日直と、ドアの傍でだべっている二人の男子生徒のみ。
そんな彼らもじきにいなくなってしまい、教室には一人になってしまった。
ぼんやりと窓の外を眺める
暫くして、教室の入り口の辺りから声が聞こえて来た。

?まだ帰らないのか?」

振り返ると、前を通りかかったらしい柳が、ドアに手を掛けての方を見ている。
その後ろには、二人の男。
確かテニス部の人だ。はまだぼんやりとした頭で考えた。
緩やかなくせっ毛の男が「蓮二」と名を呼ぶと、柳はすぐに「先に行っていてくれ」小さく答える。
二人は特に不審そうに見ることもせず、「分かった」と言ってその場から去って行った。

「――柳くん、部活じゃなかったの?」
「いや、部活だ。ちょっとミーティングをしていて、これから練習に向かうところだ」
「そうなんだ……」
「お前は何をしているんだ?」
「うん――ちょっと、柳くんと話がしたかったんだけど、タイミングを逃してぼーっとしてた」
「――話、か」
「うん」

僅かな時間の沈黙。
柳が立ち去らないのを見て、は自分の机へと行き、鞄を開けた。
取り出したのは、ドイツ語のノートと、文庫本。
ノートの方をパラリと捲り、そこからあのルーズリーフを抜き取る。

「これ――ありがとう。あと、ごめんなさい」

差し出されたルーズリーフには、彼女の文字で文が書き足されていた。

Alle Bucher dieser Welt
Bringen dir kein Gluck,
Doch sie weisen dich geheim
In dich selbst zuruck.

「――調べたのか」
「調べたって程じゃないよ。ドイツ語の先生にヘッセの詩のことを聞いたら、先生がたまたま原書の詩集持ってたから――書き写させてもらっただけ」
「……そうか。で、この本はもう読み終わったのか?」
「終わってないけど……自分で買おうと思って」
「そんなに気に入ったのか?」

わざと見当外れなことを言い、を言葉に詰まらせる。
そして困ったように顔を俯かせる彼女に、柳はため息のような微笑い。

「それは、俺を選ばない、と言うことか」

逆に核心を衝けば、更に言葉に詰まる。
の本を差し出す手が震える。

「選ぶとか、選ばないとか――そんな大それたこと、私には出来ない。ただもう色々と頭がごちゃごちゃで、だから、整理したいの」
「物を返せば整理はつくのか?」
「そうじゃないけど――でも、とにかく、ちゃんと考えたいから」

そう言って、は制服のポケットから匂い袋を取り出そうとする。
けれど、その手は柳に阻まれた。
ビクリと反応する彼女の唇に、掠めるように唇で触れる。
教室内には誰もいないとは言え、ドアは開いていて、廊下からは賑やかな声が聞こえて来る。
そんな場所でまさか彼がこういうことをするとは思わなかったので、は目を丸くして彼を見上げた。
しかし、当の本人はいつものしれっとした無表情。

「嫌だったか」
「い――いやとか、そう言うことじゃなくて――っ」
「昨日も嫌がっているようには見えなかったな」
「柳くんっ」

が咎めるような目で睨んでも、赤い顔では全く迫力がないせいか、反省どころか逆に意地の悪い笑みを向けられる。

「考えても無駄だ。考えても――どうせ逃れられるものではない」
「別に、逃げようとしてるわけじゃ、ないよ」
「そうか。ではきちんと向き合うのだな?」

ぐいと覗き込むように近付けられる柳の顔。
息のかかりそうな距離に俯くの悔しそうな声。

「――どうして、そんなに自信満々なの」
「別に、自信などない。ただの確信だ」

そちらの方が余計たちが悪いのではないか。
はそう思ったけれど、淡々とした柳の顔つきに何も言い返せない。

「お前は、分かりやすい」

今度は掠めるようではなく、柔らかく押しつけられるように唇が触れる。

「――嫌だったか」
「……こう言う所じゃ……」
「そうか。では今度からは他の場所を探すとしよう」

何だかそれは少し意味合いが違っていないだろうか。
抗議しようと思って開いたの口は、柳に塞がれた。





試験期間が始まった。
部活も休みの期間に入り、放課後の図書室は人で溢れている。
よくたちが座っていたスペースも、今は他の生徒で埋め尽くされていた。
放課後の教室も、普段より残っている生徒が多い。
勉強したり、ノートを写したりと忙しい。
その中にと柳も入っていた。

「――おや、今日は古文ですか?」

柳の教室で勉強をしていた二人に、廊下を通りかかった柳生が声を掛ける。
机に広げられた辞書やテキストを覗き込み、微笑う柳生。
顔を上げたの表情は、まだぎこちない。
けれどなるべく普通に笑うようにと気を付けていた。

「う、うん。明日は古典と外国語でしょ。……ドイツ語は多分大丈夫だと思うんだけど、古文は普段あんまり勉強してなかったから」
「そうですね、さんならドイツ語の方は心配ないでしょう」

その笑みは屈託のないようにも見えるし、意味深にも見える。
何も言わず、柳は自分のテキストに視線を落したまま。

「文法書の方はいかがですか?」
「あ……う、ん。一通り終わったよ。その……やっぱり少し分かりやすくなってて。あの、ありがとう」
「そうですか。それは良かった」

にっこりと笑った柳生が、の手元のノートを見て、おやと声を上げる。
そして、座っているの背後から彼女の持っていたシャーペンを取り、の字の下にさらさらと字を書いた。
左手は椅子の背凭れに掛けて、屈みこむようにペンを走らせる柳生の顔は、の顔のすぐ隣り。
わざと、なのか。
こう言うことは変に意識してはいけないのか。
は口をぎゅっと噤み、息を止めて彼の顔が遠ざかるのを待った。

「ここは、こう訳した方が妥当でしょう」
「――柳生。答え合わせは後でやるから、横から口を挟むな」
「ああ、そうでしたか。それは失礼」

わざとらしくも取れる口調でそう言い、シャーペンを彼女の手の中に戻し、体を起こす。
その時に柳生との手が触れたのは、不可抗力と言っていいものなのか。
は言うべき言葉が見つからず、目の前のテキストに集中しようとする。

「教え方と言うものは、それぞれ違いますからね」
「――そうだな」
「ではお邪魔しました。さん、頑張ってくださいね」
「う、うん……ありがとう」

それでは、とその教室を去っていく柳生の後ろ姿を、何となくボンヤリ眺めてしまう
その彼女の前から、些かひんやりとした声。

「――で。終わったのか」
「あ、え、えっと……あとちょっと」

以前、柳生の教え方は分かりづらいと言う評判がある、と言う話をしていたが、柳の教え方はどちらかと言えばスパルタだ。
ぎりぎりまで追い詰められて、最後の最後にほんの少し手が差し伸べられる。
慌ててが机に向き直ろうとした時、ふと、膝の上に小さな紙が載っていることに気づく。

「どうかしたか?」
「う、ううん。何でもない」

咄嗟に嘘をついてしまったが、果たして本当に柳が誤魔化されてくれたのかどうか。
それは分からないまま、また自分の手元の本に戻った柳に気付かれないよう、そっとその二つに折りたたまれていた紙を開いた。

Les soleils mouilles
De ces ciels brouilles
Pour mon esprit ont les charmes

それは、フランス語だった。
どこかで、見たことがあるような――
首を傾げるだったが、柳が訝しげにこちらを見たので、また慌ててそれを畳む。
古文を解く振りをして、口の中でそっとその詩を詠ってみた。

曇った空の果てに、陽は霧にかすみ、我が心を魔法にかける

「――

自分の名を呼ぶ低い声に、は大きく肩を揺らしてしまう。
その反応が後ろめたさを隠しようもなくしていたが、はそれでも敢えて知らないふりを続ける。
その理由は彼女自身にもよく分からないが。
――あの時のように。

「ご、ごめん。あとちょっとだから……」
「この前も言ったと思うが」

そう言って、柳はのシャーペンを奪い、先程柳生がノートに書いた文字の上に線を1本引いて、それを消す。

「俺は、優しくない。加えて嫉妬深い。よく憶えておいた方がいい」
「う――うん」

頷くの手の中に、シャーペンを戻す。
今触れた手は、どう見ても不可抗力、ではないだろう。
俯いてぎゅっと胸を押さえるは、もちろん、柳生が柳に言った台詞など知るはずもない。


今度は貴方が私になって
私が貴方になるのです










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Les soleils mouilles
De ces ciels brouilles
Pour mon esprit ont les charmes

曇った空の果てに
陽は霧にかすみ
我が心を魔法にかける

―――― L'invitation au voyage - Charles Baudelaire
(ボードレール 『旅の誘い』より。日本語訳 引地博信氏)
愛する女と二人だけで暮らす夢想を詩にしたとされる


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Alle Bucher dieser Welt
Bringen dir kein Gluck,
Doch sie weisen dich geheim
In dich selbst zuruck.

Dort ist alles, was du brauchst,
Sonne, Stern und Mond,
Denn das Licht, danach du frugst,
In dir selber wohnt.

この世のあらゆる書物も
お前に幸福をもたらしはしない。
だが、書物はひそかに
おまえをおまえ自身の中に立ち帰らせる

おまえ自身の中に、おまえの必要とする一切がある、
太陽も、星も、月も。
おまえのたずねた光は
おまえ自身の中に宿っているのだから。

―――― Bucher - Hermann Hesse
(ヘッセ 『書物』より。日本語訳 高橋健二氏)