zettel 2




次の日は朝から雨だった。
どうやら今日は部活の朝練も休みだったらしく、よりも柳生の方が先に教室に来ていた。
窓際で本を読んでいた彼は、が教室に入って来ると、すぐに気が付いて二コリと笑いながら会釈をする。
はちょっと迷った後、鞄を自分の席に置き、彼のいる窓際へと向かった。

「おはよう、柳生くん」
「おはようございます、さん」

手に持っていた本をパタリと閉じて、挨拶を返す柳生。
その手元には、が貸した少し厚めの方の本。
その栞の挟まれた箇所を見て、彼女は「もうそんな所まで進んじゃったんだ!」と目を丸くした。
――と言うか、彼は殆ど辞書なしで読めてしまうのか。
呆然とする彼女に「面白くてつい……。また今日も寝不足ですよ」と柳生は恥ずかしそうに言う。

「今日の昼休み、大丈夫?」
「そのことなのですが……少しお待ち頂いてもよろしいですか?」
「え?う、うん」

何か用事でも出来たのだろうか、と首を傾げるの前で、柳生はチラと窓の外へと視線を移す。

「朝からこの雨でしょう?放課後の部活が中止になるかもしれないんです。なので、もしさんさえよろしければ、昼休みではなくて放課後にいかがでしょうか。その方がゆっくりお教えすることが出来ますし」
「あ……そうなんだ」
「ええ、その中止になるかどうかが昼休みに分かるんですよ。まあ、ほぼ100%中止になるだろうと思いますが」

も特に放課後用事があるわけではない。
確かに昼休みは午後の授業の準備もあったりして、色々と慌ただしい。

「柳生くんさえよければ……じゃあ、中止になったら放課後にお願いしていい?」
「ええ。では後ほど分かりましたらご連絡します」
「うん」

雨の方は期待通りと言うか予想通りと言うか、一向に止む気配はなく、むしろ時間が経つにつれて雨脚は強くなっていった。
昼休みになり、すぐ柳生が教室を出て行く。
その時にと目が合うと「これは中止でしょうね」と言った感じで肩を竦めて見せた。

そして、が友達とお弁当を食べ始めた頃、柳生は教室へ戻って来た。
は、ちらちらとドアの方を気にしていたので、入って来る時にパチリと目が合う。
少しばかり躊躇いの様子を見せた後、柳生は彼女のもとへ。

さん、やはり放課後の練習は中止になりました」
「そうなんだ。そうだよね、全然雨止まないし。それじゃあ――」
「ええ、放課後にしましょう」

にっこりと笑って、彼女と一緒にいた友達にも「失礼」と一言告げた後、柳生は自分の席へと戻って行く。
そんな彼をぽかんと見ていた友人たちは、こそこそ話をするように、顔を寄せ合わせた。

「ねえねえ、最近、って柳生くんに急接近じゃない?」
「そうかなぁ」
「一体何があったの?」
「何って……うーん、私が今年から外国語選択を変えて途方に暮れてたら、参考書を貸してくれたんだよ」
「ええ!柳生くんから?」
「何で!?」

きゃあきゃあと騒ぎだす彼女たち。
何で、と言われても話の流れで、としか説明のしようがない。
色めき立つ彼女たちに向かって「柳生くんって親切だから」と苦笑する

「困っている人を放っておけなかったんだよ」
「えー?それだけかなぁ」
「それだけだって」

何となく、の方もちょっとだけ意識してしまって、ここ数日の間、今までよりも柳生を目で追うことが多かったけれど、彼は誰に対してもすごく親切だった。
それを知ってて、周りも彼をよく頼っている。
嫌な顔一つせず、それら一つ一つに対して、誠実に対応している彼を見て、すごいなぁと感動するのと同時に、ちょっとだけ寂しく思ったのも事実だ。
しかし、勘違いする前に気付いて良かったと思う。
好きになってしまう前に、ちゃんと知ることが出来て。

「今日は放課後にドイツ語を教わる予定なんだよ。よかったら皆も……」
「私たちは英語選択だって!」
「でも、ほら、ドイツ語に興味あるなら――」
「むりむり!自分たちのアホさ加減を晒すだけだから遠慮しとく」

ぷるぷると皆一斉に首を横に振る。
アホさ加減。
どうしよう、私も結構初歩的な質問とかあるんだけど。
柳生に呆れられないか、ちょっと不安になる
お弁当を食べ終わった後、一人こっそりと参考書とノートを見直した。




そわそわと何となく落ち着かないまま放課後となり、は掃除当番の仕事を終えて図書館へと向かった。
柳生は先に行って待っているはずだ。
廊下を急ぐ途中、窓の外に目を向ければ、少し弱まったが、まだしとしとと雨が降り続いている。
図書室へ入り、人の多い区画を抜けて奥のスペースへ。
そこは帯出禁止の本ばかりが並ぶ少し暗い場所で、テスト前やレポート提出期間以外は、あまり利用者のいない所だった。
実際、も今まで入学時のガイダンス時以外には足を踏み入れたことがない。
別に立入禁止とかではないのだが、何となく「特別な空間」と言う感じがして近寄りがたかった。

しかし、今日はそうも言ってられない。
柳生から、そこで待っていると告げられているのだ。
途中の木製の小階段を降りる。
足音を立てるのも憚られて、つい、そろりそろりと歩いてしまう。
古びた棚の前に、古びた机が並ぶ。
やはり、そこには殆ど人がいなくて、柳生の姿はすぐに見つけることが出来た。
彼のもとへ急ごうとしたが、彼の前に座るもう一人の人物に足が止まる。
密やかな低い声で話し合っているのが微かに聞こえて来る。

その男は、ドイツ語の授業で見たことがあった。
英語以外の外国語の授業は、複数クラス合同で行われるのだ。
確か隣りのクラスで、その低い声で話すドイツ語が印象に残っている。
人の気配に気づいたのか、その男がふいと顔を上げた。
そして自分の方を見て、ほんの少し微笑ったのを見て、は鞄を抱きかかえる手に、自然と力が入った。
彼が、前に座る柳生に何かを告げる。
柳生がの方を振り返るのと同時に、その男が椅子から立ち上がった。
それを見て、慌てて二人のもとへ駆け寄る

「あ、あの……私は別に構わないから、また今度でも……」
「いや、いいんだ。ちょっと柳生を見かけたので話し掛けただけだから」

机の上に積んであった本を抱えながら、男は穏やかな声で言う。
思わず俯くの前で、彼はくるりと柳生の方に向き直り「それでは邪魔をして悪かったな」と僅かに口角を上げ、そして彼女のすぐ脇を通りすぎて行った。
ふわりと、シャンプーでも香水でもない、どこか懐かしいような匂いがの鼻腔を擽る。
咄嗟には後ろを振り返ったけれど、男は既に先ほど彼女が降りて来た小階段に足を掛けた所で、匂いも、もう周りから消えてしまっていた。

何となく、そのことに寂しさを覚えて、ため息をついてしまう
「掃除は終わりましたか?」と言う柳生の声に、慌てて彼の方を振り返った。

「う、うん。……あの、よかったの?私の勉強は別に他の日でもいいんだよ?」
「大丈夫ですよ。柳くんは本を借りるついでに寄っただけですから。彼もよくここのスペースを利用するんです」

そう言ってにっこりと笑いながら「さあ、どうぞ」と自分の隣りの椅子を引き、をそこへ座るようにと促した。
申し訳なさと恥ずかしさに少し戸惑いながらも、彼女は大人しくそこへ腰掛ける。
すっと音を立てずに椅子を押す柳生。
――なんか、柳生くんの彼女とかになっちゃったら、きっとその子は他の人と付き合えなくなっちゃうだろうなぁなんて考えて、は自分の照れくささを誤魔化した。

「さて、どこから始めましょうか」
「あ、うん。ええとね――」

は柳生から借りた参考書を手に取り、昨夜家で挟んでおいた付箋の部分を開く。
その時、少しだけ乗り出すような体勢の柳生と、腕が触れる。
湿気た空気に、ほんの少し彼の匂いが混ざる。
彼らしい、甘く、しかし爽やかな香りだった。
きっと女の子が相手ながら全然平気なはずなのに、何で男の子と言うだけでこんなに緊張してしまうのだろうか。
ドキドキして顔を上げられないまま、は本を指差し、痞えながら説明した。

「ああ――ここは、そうですね、例えば――」

トーンを抑えた柳生の声が、いつも以上に低く響く。
ほんの僅かに彼と触れている腕から、その声の震動が伝わってくるようで、は更に体を強張らせてしまう。
一生懸命彼の説明に耳を傾けようとするが、内容が一向に頭に入って来ない。
彼が説明してくれたことを自分の言葉に直して繰り返そうとするが、すぐにしどろもどろになってしまった。
まさに、昼休みに彼女の友達が言っていたように、自分の愚かさ加減をひけらかすばかりになってしまい、ますます緊張してしまう。
悪循環だ。

「ご、ごめんなさい」

半泣きで赤くなるに、柳生は「いいんですよ」と優しく笑いかける。

「この辺りはフランス語や英語にはない部分ですからね。ゆっくり覚えて行けばいいんですよ」
「本当にごめんなさい……」
「そんなに謝らないで下さい。大丈夫ですよ。――ゆっくり好きになって行けばいいんです」

柳生の顔を見ることが出来なくて、ずっと俯いたままだったが、恐る恐る顔を上げると、彼はもう一度「焦らなくても大丈夫です」と微笑んだ。

「少し気分転換をしましょう。そうだ、あなたからお借りした本、もう一度ざっと読み返しまして、私も好きなフレーズを抜き出したんですよ」

そう言って、彼はいそいそと脇に置いてあったノートを広げる。
そこには繊細な文字で、いくつかの文が書き出されていた。

「それを是非、あなたに読んで頂きたくて」
「え!?私に?」
「ええ。私も書き写しながら発音してみましたが――綺麗なフランス語を発音するあなたが読まれたら、もっと素晴らしいだろうと思いまして」

相変わらず、こちらが恥ずかしくなってしまいそうな台詞を普通に話す。
は「そんなことないよ」と苦笑した。

「曖昧に発音しちゃって、よく注意されてたよ」
「しかし、あなたのそのどこか儚げな声が、とてもフランス語に合っていて魅力的なのです」

私のフランス語に対するイメージかもしれませんね、と今度は柳生が苦笑した。

「ですから、あなたに読んで頂きたくて」
「……何か、そう改まって言われちゃうと、恥ずかしくて読めないよ」
「そんなこと仰らないで下さい」

柳生はそう言うと、机の上で手を組み、目を閉じた。
が朗読するのを待っているのか。
気分転換って……こっちも十分緊張するよ!
黙ったまま、じっと目を閉じる彼を見て、また泣きそうになる
けれど、一向に諦める気配のない彼に観念し、は深く息を吸い込んだ。
そして、ゆっくりとした慎重なテンポで、彼の綴った文を読む。

「――やっぱり、おかしくなっちゃったよ」

は身を縮み込ませながら弱々しく言ったが、柳生は目を閉じたまま。
そして一呼吸置いた後、静かに目を開いた。

「――いいえ。やはり、あなたの声は素敵ですよ」
「私は柳生くんの声の方が素敵だと思うけどなぁ」

それは単なる照れ隠しではなくて、彼女の本心だ。
そんなの台詞に「そうですか?」と柳生は驚いた顔。

「そんなことを言われたのは初めてです」
「そうなの?柳生くんの声って、聞くと何だかほっとするよ。安心する」
「安心――ですか」
「うん。だから、本当は柳生くんがフランス語喋った方が、きっと似合うよ」

あ、これは「ほっとする声の方がフランス語に合う」って言う私の勝手なイメージだけどね。
肩を竦めて笑えば、彼も「そうですか」と小さく笑った。




ドイツ語だけでなく他の科目の課題も片付けていたら、あっという間に時間は過ぎて下校時刻が迫っていた。
ふと窓の外を見れば、いつの間にか雨も止んでいる。

「ああ――すっかり遅くなってしまいましたね」

眼鏡を押し上げながら壁掛け時計を見て、少し驚いた声の柳生。
は彼よりも少しオーバーに驚いたように見せて大きく頷いた。

「うん。こんなに集中して勉強したのなんて受験以来かも。あ、でも途中で結構雑談もしてたっけ?」
「楽しい時間は、あっという間に過ぎてしまうものですね」

勉強を「楽しい」と言ってしまう彼は、やっぱり何かちょっと違うなぁと思ったが「やっぱり柳生くんはすごいね」と感心して言うと、彼は何も言わずに苦笑い。

「ではそろそろ帰りましょうか。私はこの本を片付けて来ます」

脇に積まれていた数冊の本を抱えて、立ち上がる柳生。
も帰る支度をしようと、隣りの椅子に置いていた鞄を手に取った。
その時、ふと、机の下に落ちていた紙が目に入る。
身を屈めて取ると、それは一枚のシンプルなルーズリーフだった。
書かれていたのは短い文章。
罫線を無視した走り書きのようだったが、どこか畏まった雰囲気を残したアルファベット。
それは、ドイツ語だった。
残念ながら、には辞書なしではその意味を知ることが出来ない。
綺麗な文字だったが、柳生のものとは少し違うようだ。

「――お待たせしました」

本を片付け終えた柳生が戻って来て、はそれを咄嗟に自分のノートの間に挟んでしまった。
たとえ一枚のルーズリーフでも落し物なら届けるべきだろうか。
けれど――そう、せめて文章を書き写してから。
そう心の中で思うだが、柳生に内緒でそれをする理由は、彼女には見つけられない。
しかし、それは自分一人でひっそりと成し遂げたいことだった。

「う、うん。じゃあ、帰ろうか」
「ええ。雨が止んだ様ですし、よかったですね」

はそのルーズリーフをノートごと鞄へと仕舞った。