zettel 8




その場から逃げ出すことに必死だった。
とにかく、ただ単純に逃げ出したかった。

とにかく必死で、は気が付くと化学室とは正反対の方へ走っていた。
しかし、どちらにしろ今のこの状態で普通に授業を受けることなど出来そうもない。
は柳生が追って来ないと知るとペースを落とし、そして迷った挙句図書室へと向かった。

柳生と一番長い時間一緒にいた場所なのに、と自分でも思うが、結局こんな時に行くべき場所など、には思いつかないのだ。
もしかしたら授業をさぼったことを咎められるだろうかと冷や冷やしたが、自習の生徒も数人いたりしたためか、特に疑われることはなかった。
いつものスペースへ行き、しかし最後の悪あがきのように、いつも座る席から少し離れた場所に腰掛ける。

テキストを机に置いて突っ伏すと。シャーペンがコロコロと転がる音。
柳から借りたシャーペンだ。
中央のしきりに当たって止まったそれを掴むと、なぜか胸がチクと痛んだ。

柳生が最後に言いかけたこと。
はそれを何となく理解していた。
柳と一緒にいた時間など、恐らくこの数週間に柳生と一緒にいた時間の数十分の一にもならないだろう。
なのに――

そのシャーペンで、化学のノートの裏にドイツ語の文を書いた。
いつの間にか覚えてしまった文。

Dort ist alles, was du brauchst,
Sonne, Stern und Mond,
Denn das Licht, danach du frugst,
In dir selber wohnt.

小さく声に出して読み上げると、くらくらして、は目を閉じる。
自分の呼吸の音しか聞こえない。
すうすうと、規則的な音。
その音だけに集中する。

どれくらいそうしていたのか分からないまま、肩に何かを掛けられる感覚に、はゆっくりと目を開いた。
初め、自分がどこにいるのかもよく思い出せなかった彼女は、何度か瞬きをした。
どうやら、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
そおっと自分の肩に手を伸ばすと、自分のものではないブレザーの感触と、あの、もう慣れてしまった香り。
まだ何となく寝ぼけたままのが身を起こすと、すぐ傍からトーンを押さえた低い声が響いて来た。

「――起こしてしまったか」
「え――あ……柳くん?」

ぼんやりと周囲を見て、そこが図書室であることを思い出してから漸くは目をこすり、隣りに立つ柳を見上げた。
時計を見ると、すでにもう授業は終わっている時間だった。
しかしここは放課後になっても滅多に人が入って来ないので、時間の経過が分からなくなる。

「友人が心配していたぞ。授業もさぼって行方不明とはお前らしくないとな」

柳のその笑み交じりの言葉に、は不意に自分の今の状況を思い出した。

「あ、あの……ごめん、シャーペンわざわざ貸してくれたのに……」

何も言わず自分の頭を撫でて来る柳には、実は全て見透かされているのではないかという気がして怖い。

「もう少しここで休んでいるといい。皆には心配ないと伝えておく。これから1時間ほど生徒会の仕事があるが、それが終わったら家まで送ろう」
「え――だ、大丈夫、だよ」

柳の申し出には慌ててそう答えるが、彼の方はまた彼女の頭を少しだけ撫で、困ったように微笑んだ。

「そんな顔をしている奴を一人で帰すわけにはいかないだろう」

そんな顔、とは一体どんな顔だと言うのだろう。
戸惑いながら自分を見上げて来るに、柳は「ここで大人しくしていろ」と言い残してその場を後にした。
の肩には彼のブレザーが掛けられたまま。
シャーペンと消しゴムも机の上だ。
これでは勝手に帰る訳にもいかない。
は彼のブレザーを隣りの椅子の背凭れに掛けながら、はあと深いため息をついた。
そして机の上に視線を戻し、ノートの裏の走り書きが視界に入る。
さっき、が書いたドイツ語の文だ。

――もしや、彼に見つかっただろうか。
は慌ててそのノートをテキストの下に隠す。
小さな文字だから、よく見ないと分からないはず。
それに、これがあのルーズリーフに書かれていた文だとは気付かないかもしれない。
彼女は悪あがきのように心の中で色々考える。
けれど――もし、見つかっていたら、彼はどう思うだろうか。
気味悪く思ったかもしれない。
ふと、そんな考えが過って、はぞっとした。
それはもちろん、誰にだってそんな風に思われるのは嫌だ。
けれど、彼に嫌われると言うのは、一瞬想像しただけでも目の前が真っ暗になりそうだった。

はじっとしていられず、思わず立ち上がる。
しかし彼の服を借りたまま、帰ることは出来ない。
今になって自分の行動を後悔しても、何も変わらないのだ。

――そうだ。柳生くんとのことも。

きっと、彼とはもう、元のように接することなど出来ないのだろう。
つい数時間前――今日の昼休みにはここで一緒に勉強していたはずなのに。
彼の気持ちに気付かずに――いや、気付かないふりをして、ずっと彼を苦しめて来たのだろうか。
結局、どちらも軽薄な自分の行動が招いた結果なのだと思うと、涙が出そうになった。

彼は、授業に出たのだろうか。
部活には行っただろうか。
いつも通りでいて欲しいと願うのは、やはり単にエゴなのだろうか。

は何度か息を深く吸い込んだ後、奥にある書棚の方へ向かう。
そこに並ぶ本は古めかしい専門書ばかりで、開いてみても柳生の文法書の比にならない位にちんぷんかんぷんだ。
けれど、その字面をぼーっと目で追っていると、は少しずつ気持ちが落ち着いて来るような気がした。

そして、無心に読んでいると近づいて来る足音が耳に入り、は顔を上げる。
もしかして柳生かもしれないと、ドキリとする。
この前のように、どうかしていたのだと言うかもしれない。
ふとそう思ったけれど――書棚の影から現れたのは、柳だった。

「生徒会の方は思ったより早く終わった」

そう言う彼の手には、二つの鞄。
自分のものと、もうひとつはのものだ。
すでに彼女の友達が帰りの支度をしておいてくれていたらしい。

「随分と難しそうな本を読んでいるな」
「ああ……違うの、適当にぱらぱら捲っていただけ」

は持っていた本を元の場所へ戻し、柳から自分の鞄を受け取る。

「――柳くんは、部活は?」
「ああ、もともと今日は生徒会の仕事が長引くと思っていたから休みを申請しておいたんだ」
「柳くんでも、目算が外れることってあるんだ」
「たまには、な」

何となく、それは嘘のような気がしたが、は黙ったまま微笑った。
そして鞄を抱きかかえるように持つ。
ふうと力なく息を吐き出す彼女を暫し見下ろした後、柳はゆっくりと、続けた。

「――柳生は、部活に行った」

その言葉に、思わず鞄を落としそうになって、慌てて抱える腕に力を込める
けれど、すぐには柳の顔を見ることが出来なかった。
何故、彼は今そんなことを?
そんな疑問までもお見通しであるかのような、柳の言葉。

「もしかしたら、お前が気にしているのではないかと、思ってな」
「……」

何故かと問い返そうと思ったけれど、喉が詰まって声が出て来ない。
口の中はカラカラで、無理やり唾を飲み込もうとすると息まで詰まりそうになった。

「恐らく、授業も受けただろう。お前の友人も特に何も言っていなかったし――自分も欠席すればお前に迷惑が掛かると分かっているからな。あいつは、とことん優しい男だ」
「ど……して?見てた、の?」
「見ていた?何をだ?」

その柳の言葉に、は柳生とのさっきの出来事を思い出し、顔が熱くなった。
そんな彼女の表情に、一瞬だけ柳は僅かに眉を顰める。

「――見ていたのは、柳生だ」

しかしいつもと変わらない淡々とした調子でそう言い、柳は、鞄を持っていたの腕に手を伸ばす。
そして、思わず反射的に逃げようとした彼女に気付かないかのように、その腕を掴んだ。

「あの渡り廊下で、俺たちを見ていたのは、柳生の方だ」

その手に、僅かだが力が込められて、は驚いて呻く。
けれども柳のその手は彼女を解放することはなく、寧ろ力が強められた。

「あいつは、とことん優しい男だ。その優しさに自分自身が苦しめられている」
「や、柳、くん……?痛いよ、放して――」
「――けれど、俺は生憎と優しくはない」

表情は読めないまま。
声のトーンは、少し変わっただろうか?
柳がのもう一方の手も掴んだ拍子に、音を立てて床に落ちる鞄。
その思ったより鈍い音にの方は身体を竦めたが、柳は全く動じる様子なく、彼女の二の腕を掴んだまま。

Alle Bucher dieser Welt
Bringen dir kein Gluck,

彼の口から零れ出たのは、流暢なドイツ語。
この世のいかなる書物も、あなたに幸福をもたらさない――?
怪訝な目で自分を見上げて来るに、柳は、ふと笑う。

「――あの、詩の冒頭部分だ」
「え?」
「あれは、ヘッセの詩の一部だ。Bucherと言う詩の」

そう言って、彼の続けたドイツ語は、が諳んじてしまったあの文章。
一瞬、理解することが出来ずに彼の言葉を反芻する。
が、次の瞬間、今まで味わったことのないような途轍もない羞恥に襲われて、一気に自分の頬が紅潮するのが分かった。
やはり、見られていたのだ。
逃げ出したい。
この場から消え去りたい。
は柳の手を振りほどこうとするが、逆にその彼の力は強まるばかり。

「ご、ごめん、なさい」
「――何を謝る?」
「ルーズリーフ……」

図書室で落としたでしょう?
そう続けようとしたを遮って、彼の口から出た言葉は、彼女の全く予想していないものだった。

「あれを落としたのは、わざとだ」
「え――?」
「あのルーズリーフを、わざと机の下に落として行った。――稚拙な賭け、だ」

わざと?
賭け?
にはよく分からなくて、ただ柳を見上げる。
賭け?――違う、罠、だ。
その彼の自嘲的な笑みを見て、不意に、はそんなことを思った。

柳が前に一歩踏み出せば、は後ろに一歩引き下がる。
すると、すぐに彼女の背中は書棚にぶつかった。
腕の力は僅かに弱められはしたけれど、柳との距離はジリジリと狭められて、動くことが出来ずにいる

「――お前は、何故あれをすぐに柳生や俺に渡さなかった?」
「それは……」
「すぐに捨てなかったのは、何故だ?」

ゆっくりとした口調で、穏やかな声のまま。
けれどそれが逆にを追い詰める。

単なる好奇心、と言うには――自分の中で複雑にぐるぐると何かが回っているのだ。
すぐに渡さなかったのは、大したものではないと思ったから。
すぐに捨てなかったのは、ただ何となくタイミングを逃して。
そう軽く言ってしまえば良かったのかもしれない。
この男の前で、そんな嘘を通用するならば――の話だが。

俯こうとしたの顎が上げられる。
この男は、自身にも分かっていない答えが分かっているようだ。

かっこいいし、優しいし、頭いいし、テニスも上手いし。
柳生をそう評したのはの友達。

「――お前を見つけたのは、俺だ」

無意識下で自分を蝕んでいたのは、彼ではなくて、この男だ。
その目を見て、は今漸くそのことに気が付いた。