zettel 7




帰りの電車の中、はさっき柳から借りた本を鞄から取り出した。
表紙を捲る。
聞いたことのない作家だったので、それから後ろの方のページを捲った。
その時、紙の匂いと一緒に、あのお香の匂いがする。
思わず、クンと嗅いでしまうが、そうやって鼻を近づけると新しい紙の匂いしかしない。
もしかして自分の匂いかと、手の甲を鼻先に近付ける。
あの匂い袋を肌身離さず持っているせいで、の制服からもその香りがするようになってしまっていた。
最初は「線香臭い!」と友達には口々に言われたが、今はもう周囲も慣れてしまったようで何も言われない。
まあいいか、と気を取り直して、本に書かれていた作者の略歴に目を通した。
何となく古めかしい名前だなと思ったら、戦前生まれの作家だ。
代表作もいくつか載っていたが、残念ながらの知らない作品ばかり。
もしかしたら文学史の資料集には載っているのかもしれない。
しかしはどうも文学史が得意になれず、あまりそれを興味を持ってみたことがなかったので、本の著者は、本当に有名な人物しか知らなかった。
少し嫌な予感がしながらも、は前のページに戻り、1ページ目を開く。
思ったよりも大きい文字で、行間も広い。
ほっと息をつき、その文を目で追い始めた。




次の日、教室に入って来た途端大きな欠伸をするを見て、友達は可笑しそうに笑った。
傍にいた柳生も、やはり笑みを浮かべている。

「また本でも読んでたの?」
「うん、そう……ちょっと止まらなくなって」
「よく日本語以外の本とか読めるよねぇ。私なら1行で眠くなっちゃうよ」
「昨日読んでたのは日本語の本だよ。あと1ページ、あと1ページって思ってるうちに、時間が過ぎちゃって」

相変わらず本の虫だねぇと呆れる友人たち。
けれど自身もちょっと驚いていた。
小学生の頃――それは専ら受験のために、色々と買い与えられて日本文学はたくさん読んだことは読んだが、正直何が面白いのか分からず、難しいばかりの印象だった。
だからこそ、文学史でも特に日本文学史は、今でも好きではないのだが。
しかし昨日柳から借りた本は、ジャンルとしてはその苦手な部類に入るはずなのだが、読めば読むほど引き込まれて行くようだった。
難しい解釈は分からないけれど、普通に、面白いと思った。
高校生になって、少しは自分が成長したのか、それとも柳が選んだ本が特に面白かったのか。

「そんなに面白い本だったのですか?」
「うん。もしかしたら柳生くんなら読んだことあるのかも――」

そう言ってが鞄から本を取り出し掛けた時、始業のベルが鳴った。
結局、その本の話題はそれきりになり、昼休みにも柳との間でその話は出ないまま終わってしまった。

「――また天気が悪くなってきたね」

午後の最後の授業、移動教室の途中に友人の1人が真っ黒な雲を見上げながら不安げに言う。
彼女は陸上部なので、雨が降ると部活が出来なくなってしまうから困るのだろう。
「そうだね」と同調して言うの横で、もう一人の友人は少し楽しそうに言った。

「雨が降ったらテニス部もお休みなんでしょ?」
「え?……いや、そうとは限らないみたいよ。屋内で練習することもあるみたい。そろそろ大会も近いって言ってたから、お休みにはならないんじゃないかなぁ」
「えー、そうなの?休みならデートとか誘っちゃえばいいのにと思ったのに」
「だ、誰を!」

素っ頓狂な声を上げるに、「そんなの、柳生くんに決まってるじゃん」と友人は呆れ顔。

「またそんなこと言う!そんなんじゃないって言ってるのに!」
「そう言いながら、顔赤いよー」
「それは、皆が変なこと言うからでしょー!」

本当に、そんなんじゃないのに。
必死に否定するけれど、動揺して赤くなった顔では、友人を面白がらせるだけだ。
もーっ、と頬を膨らましかけた時、ふと、は自分がペンケースを持っていないことに気が付いた。

「あっ、ペンケース忘れて来た!」
「あー、、逃げるの?」
「そうじゃないってば!」

タイムリーなアクシデントに皆はニヤニヤ笑うが、あまり時間がないのでここは構っていられない。
は教室へ戻ろうと走り出した。

そして、渡り廊下を半分ほど渡り切った所で、前を歩く柳の姿が目に入った。
その慌ただしい足音に気がついたのか、柳の方も後ろを振り返る。
ふ、と笑うその表情に、は慌てて走るのをやめた。

「廊下を走るな――と、弦一郎や柳生だったら怒っているところだな」
「ご、ごめんなさい」

肩を縮み込ませるを見て、柳はさらに可笑しそうにくつくつと笑う。

「忘れ物か」
「う、うん……ペンケースを忘れてきちゃって」
「次のお前たちの授業は化学だったな。化学の斉藤先生は始業ベルとほぼ同時に教壇に現れる。今慌てて教室に戻って化学室に向かったとして、お前のその歩幅ではベルが鳴って1分後に漸く化学室の前に立つことになるだろうな」
「そ、そんなぁ……」
「これを持って行け」

落胆する彼女に差し出されたのは、柳の持っていたペンケース。
彼は前の授業が移動教室で、これから自分の教室に戻るところだったらしい。

「えっ!いいよ、そうしたら柳くんは次の授業はどうするの?」
「教室に戻れば予備がある。心配するな」
「でも……」
「そうして躊躇している内に教室へ取りに戻る時間はどんどん削られて行くぞ」
「うう……。それじゃあシャーペンだけ……貸して下さい」

唸るようにが言うと、柳はそのケースから黒のシャーペンと小さな消しゴムと取り出し、の手の上に載せた。
ここは大人しく借りてしまおうと、は「ありがとう」と素直に受け取った。
そして、「あっ」と突然何かを思い出したような顔。

「あ、あと何分猶予はあるのかな」
「そうだな。あと2分30秒くらいはあるな。お前がこっそり走ったとすれば、あと3分くらいか」
「……何で走っても30秒しか稼げないんだろ」
「後で自分の走るフォームを確認してみるといい」

どことなく意地の悪い表情をする柳をジトリと睨んだ後、「あ!今ので30秒くらい使っちゃったかな」と慌てて、そしてペコリと頭を下げた。

「あの、本、ありがとう。まだ途中だけどすごく面白いよ」
「――ああ、そうか」
「うん。ひとまずお礼を言っておきたいと思って」
「貴重な時間を使って何かと思えば――随分と律儀だな」
「貴重な時間を使う価値はあると思うよ。たぶん柳くんが貸してくれなかったら一生会うことのなかった本だと思うから」

そうか、と言って、また少し息を抜くように微笑う柳。
少し傾けた顔に、髪がさらりと流れる。
触れられる位置に立つと緊張してしまうが、彼のこう言う表情は、見ているとほっとさせる。
思わずも同じように微笑んだ。

「しかし、あまり急いで読む必要はない。別に返すのはいつでも構わないし、ミステリではないのだからそれ程先の展開が気になるものでもないだろう」
「えっ、何でそんなに読んだって知ってるの?」
「その眠そうな顔を見ればな」

笑いながらの柳の指摘に、は慌てて俯く。
彼の前では欠伸をしていなかったはずだが、そんなに眠そうな顔をしているのだろうか?
ごしごしと目をこすると、「そんなに目をこするな」と彼の苦笑が聞こえて来た。

「――そろそろタイムリミットだな」
「えっ、ほんと?」
「今なら走らなくてもぎりぎり間に合うだろう。転ばないように気を付けてな」
「……柳くんて、実は私のこと誤解してない?」
「別に誤解などしていない。ほら、早く行かないと走らなければならなくなるぞ」

そう言って、柳が背中を押すので、納得行かないながらもは来た道を戻り始めた。
少し進んで振り返ると、まだ柳はそこに居てこちらを見ていたので、ペコリと頭を下げて。
最初は大人しく歩いていたけれど、やはり不安になって廊下を渡り切ったところから小走りになる。
そして下の階へ向かうために階段へと差し掛かると――その手摺の影に人の立っているのが見えた。
急いでいたは、特にそれを気にせず通り過ぎようと思ったが――それが柳生であることに気が付いて、驚いて足を止めた。

「あれ……柳生くん、どうしたの?急がないと授業遅れちゃうよ?」

の台詞にもさして反応を見せず、立ち止まったままの柳生。
一体どうしたのかと不思議に思いながらも、は彼の袖を引っ張った。

「柳生くん?」

もしかして、また具合が悪いのかな。
不安になるのその手を、柳生が上から包むように握る。
少し前の、図書室でのように。
初めは壊れ物に触れるかのように優しく。
しかし、手を完全に包んだ後は、逃がすまいとするかのように、ぎゅっと強く握った。

「――あなたは誰に対しても笑顔を向ける」

その声はいつもと同じく低く穏やかだったけれど、は一瞬背筋がゾクリとしてしまった。
その理由は分からなかったけれど、自然と足が後ずさりする。
けど、彼のその手を掴む力はとても強くて、そこから離れることは出来ない。

「それはあなたの良いところだと、ずっと思ってきましたが――やはり私にとっては残酷以外の何物でもない」
「や……柳生くん?」

彼の表情が読めない。
は必死に彼の目を見ようとするけれど、なぜか今日に限ってよく見ることが出来ない。
不安になって、その手を放してもらおうとするけれど、彼の手はピクリとも動かなかった。

「この数カ月で、あなたの一番近くへ行くことが出来たと思っていたのですが――それは勘違いだったのですか」

不安そうに瞳を揺らすに、たまらず柳生は彼女を抱き寄せた。
数日前にも起きた出来事。
その時は、は驚くばかりで彼の腕の中で固まっていたけれど、なぜか今日はその腕が無性に怖くなる。

「や、柳生くんっ、放して!」

もがいても、びくともしない。
いつも温厚な態度で、どちらかと言えば線も細く見えて。
そんな彼でも実際にはとの力の差がこんなにもある。
優しく甘い彼の香りも、今は彼女を混乱させるものでしかない。
くらくらする頭で、ただただ柳生の名前を呼ぶ

「何故、あなたから――彼の匂いがするのですか」
「お願い……柳生く……」
「こんなに強く抱き締めても、彼には敵わないのですか」

彼は誰にでも親切だった。
困っているクラスメイトを放っておけないのだと思った。
彼はいつも自分に対して好意のこもった言葉をもって接してくれるが、それは彼が「紳士」だからだと思っていたのに。
――そう思わなくてはと、思っていたのに。
そんなの心の声を見透かしたかのように、柳生はほんの少しだけ腕の力を緩め、自嘲気味に笑った。

「――さん、私はあなたを『クラスメイト』だと思ったことは一度もありません」

その台詞にがぴくりと反応すると、また、ため息のような笑みを漏らす柳生。

「あの詩を読んでから、ずっとあなたのことが気になっていました。今年同じクラスになれた時は本当に嬉しかったのです。そして幸運にもあなたとお話をする機会が与えられて――ますますあなたのことが好きになりました」

は柳生の話すことが俄かには信じられず、ただ俯いてじっとしていることしかできない。
いや――それは、彼女だって全く考えなかったわけではない。
もしかしたらと思うことはあったけれど、そのたびに、そんなはずはないとすぐに否定してきたのだ。
一度は緩められた彼の腕が、再び彼女を強く捉える。

「あなたが私のことを同じように思って下さっていないのは知っています。けれど――それでも、あなたの一番近い場所にいられればと――思ってたのです」

それなのに、何故、彼の方が――

そう言いかけて、彼の力が更に増し、指がの腕に食い込んだ。
その力に驚いてが小さな声を上げる。
反射的に彼の力が弱まって、はその隙を逃さず、「ごめんなさい!」と彼を押しのけて駈け出した。