zettel 5




次の日は、空は朝から厚い雲に覆われていて、どんよりとした天気だった。
日に日に空気も湿り気を帯び、梅雨はすぐそこまで迫っているようだ。
教室の窓から空を眺めていたは、ポケットから匂い袋を取り出して、そっと自分の顔へと近づける。
薄暗い空に鬱々とした気分になりかけても、この匂いを嗅ぐと、すうっと周りの空気が透き通って来るような気がして気持ちが安らぐ。

アロマテラピー効果って言うのかな。
穏やかな気分になるのは、やはり祖母と同じ匂いだからなのだろうか。

「おはようございます、さん」

教室に入って来た柳生が、机に鞄を置き、今日もお早いですね、と言いながら彼女のいる窓際へ。

「おはよう、柳生くん。今日も朝練だったの?」

が振り返ると、ついさっきまで笑顔だった柳生が、表情を凍りつかせた。
一体どうしたんだろうと瞬きする彼女に、柳生を動揺を隠せない声で「ああ……すみません」と一言言い、眼鏡に手を掛ける。

「今日は――その、いつもと雰囲気が違いますね」
「え?そう?別にいつもと変わらないと思うけど……」

寝ぐせでも付いていただろうかと、両手で髪の毛に触れる

「そう……ですね。気のせいかもしれません」

そう笑う彼は少し不自然で、顔色さえ悪く見える。

「どうしたの?大丈夫?……柳生くんの方がいつもと違って具合悪そうに見えるよ?」
「いいえ――私は大丈夫ですよ」

そう言いながらも、力なく席を戻って行く彼の後ろ姿は、いつもキビキビしている柳生のものとは思えない。
本当に大丈夫だろうか。
心配になって、授業中もチラチラと気にして見ていたが、幸い、その後の彼はいつもと変わらないように見えた。



昼休みに友達とお弁当を食べ終えると、は躊躇いながらも柳生のもとへ。
昼食後に一緒に図書室へ行くのは、もう毎日の習慣になっていた。
今日はもしかしたらやめておいた方がいいかもしれない。
はそう思ったけれど、柳生は普段通りの調子に戻っていて、「さあ、行きましょうか」とニッコリ笑い、彼女を教室の外へと促す。

「具合は大丈夫?無理しなくてもいいよ?」
「私は大丈夫です。――さんは、お嫌、ですか?」
「そんなことないよ!」

力いっぱいが答えれば、彼は些かホッとした様子で「そうですか」と呟くように言った。
そして、ゆっくりと、の歩調に合わせて歩く。
暫く続いた沈黙がちょっと気詰まりで、は窓からチラリと空を見上げた。
相変わらずの鬱蒼とした分厚い雲。
けれど何とか雨は降らずに持ちこたえている。
階段に差し掛かった時、柳生が更に歩調を緩めた。

「今日は――何か香水を付けてらっしゃるのですか?」
「え?」
「いえ……いつもと違う香りがするものですから」

彼女の方を見ずに、前を向いたまま、彼らしくもなく妙にノロノロとした足取り。
けれどはあまりそのことを気にすることなく、袖口を鼻先に近付けて、すんすんと嗅いだ。

「そんなに分かるもんなんだ。さっきマリたちにもお線香臭いとか言われちゃった。酷いよね」
「お香――ですか」
「うん。実は昨日ね。柳くんに匂い袋を貰ったの。おばあちゃんと同じ匂いだって言ったら、くれたんだ」

そう言って、はポケットからそれを取り出したけれど、柳生は眼鏡に手を掛けるだけで、それを見ようとはしない。
ただ、「そうですか」と呟くだけで。
それを手に取れば、はもう半ば癖のように顔に近付けてしまう。
スン、と一嗅ぎすると――やはり気分が落ち着いて、表情も緩む。

「――すみません、さん。やはり今日はどうも調子が優れないようです」
「えっ、大丈夫!?」

立ち止った柳生の顔を見上げると、確かに、ついさっきまでは元気に見えたのに、今は朝見た時のように蒼白だ。
保健室に行った方が――と、伸ばしかけた彼女の手は、さりげなく避けられて彼に触れることはなかった。

「――大丈夫です。少し休んでいれば治りますから」
「本当に?」
「ええ。……では、失礼」

結局、彼はの方を全く見ることなく、教室の方へと一人戻って行ってしまった。
本当に大丈夫だろうか。
そんな不安と、一瞬感じた拒絶へのショック。
もしかして、友達だからと言って馴れ馴れしくし過ぎたのかもしれない。
はあ、と長いため息を吐き出したも、一人で図書室へ行く気になれず、重い足取りで教室へと戻った。

午後の授業の予鈴が鳴って教室へ戻って来た柳生は、もう普段通りの顔色で、は密かに安堵する。
声を掛けようかと思ったけれど、やっぱりしつこいだろうかと思ってやめた。
でも、帰りのSHRが終わったら一言だけ。
そう思っていたが、気が付くといつの間にか柳生の姿は消えていた。

もう部活へ行ってしまったのか。
今までだって、毎日必ず帰りの挨拶をして来たわけではない。
だから、こんなことは何ということはないのだと、は思おうとしたけれど――少し寂しい。
こんな日はさっさと帰って寝てしまいたい。
きっと、明日になれば元気になってる。
鞄を持って教室を飛び出すだったが、階段の手前で、図書室から借りている本の返却期限が今日であることを思い出してしまった。
こんなことなら、やっぱり昼休みにちょっと行って返してしまえばよかった。
心の中でそんなことを愚痴りながら、はクルリと方向転換した。

図書室に入って、すぐカウンターへ向かい本を返却した彼女は、その無数の本の匂いを嗅いだら、何だか気が変って来た。
この奥にある、あの静かな閉ざされた空間に行きたくなる。
別に、本当に閉ざされているわけではないが、人を寄せ付けないような、少し厳格な感じのするその場所は、どことなく外界から遮断されているような気になるのだ。

今日も、そこには人の姿は見えない。
しかし、あと数日もすれば試験期間に入る。
そうすれば、この空間も暫くの間は競争率が高くなるだろう。

定位置の椅子を引き、そこに腰掛ける。
暫く机に突っ伏した後、は鞄からドイツ語のノートを取り出した。
そして、そのノートの間から、あのルーズリーフを抜き出す。
小さい声で、原文を読んでみた――が、やはり自分の発音は、しっくり来ない。
はそれを元に戻し、また机に伏せて目を閉じた。

そのつもりはなかったのだが、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
はっと目を開け、腕時計を見れば、下校時刻が差し迫っている。
戸惑いながら周囲を見渡したが、そこは少し前と変わらず、一人しかいない。
ふうと息をついて、先程1冊だけ机の上に出していたノートを鞄に仕舞う。
するとその時、一人の足音が聞こえて来た。

「――さん?」

その声に振り返ると、テニスバッグを肩に掛けて、こちらへと歩いて来る柳生の姿。
まさかここに今日彼が来るとは思っていなかったので、は思わず目を見開いた。

「残ってらしたんですか」
「う、うん……何となく」

ずっと寝ていたけれど、おでこは赤くなったりしていないだろうか。
はおでこを擦りながら、照れ隠しのような笑み。

「柳生くんは――部活の帰り?」

本でも借りに来たついでに、ここに寄ったのだろうか。
そう思いながら問いかけるに、柳生はふいと目を逸らして、鞄を背負い直す。
黙ったままの柳生。
その沈黙が妙に息苦しくなって、は何とか言葉を見つけようとして「ええと」とか「あの」とかと視線を宙に彷徨わせた。
やはり、彼はまだいつもの調子ではないのかもしれない。
温和の表情の似合う彼が、今はどこかつらそうに顔を歪めている。

「そろそろ下校時間だし――」

帰ろうか、と彼女が言いかけた時、彼の深刻そうな低い声がそれを遮った。

「昼休みは――申し訳ありませんでした」
「え?」
「あなたに、失礼なことをしてしまいました」
「え、う、ううん!全然そんなことないよ。私こそごめんなさい、柳生くんの具合が悪いのに無理に誘っちゃって……」
「あなたは何も悪くありません」

弱々しく笑う様子は、やはり彼らしくない。
心配になって、また手を伸ばしかける。
けれど、やっぱり馴れ馴れしいだろうかと引っ込めようとして――彼の手にそれを阻まれた。

「え――」

柔らかく彼女の手を掴んで、自分の口もとへと運ぶ動きはとても自然で、唇が彼女のその指に触れたのは一瞬で、気のせいかと思う位の短い時で、はまるでそれを自分に起こった出来事ではないような感覚で眺めていた。
目を伏せる余裕もなく、羞恥に頬を染めることも忘れて。
そんな、ただただ茫然としているを、柳生は自分の方へとぐいと引き寄せた。
すっぽりと彼の腕へと収まってしまう彼女。
吸い込んだ彼の甘い香りは、今までにない強さで彼女をくらくらさせる。

「――や、ぎゅ……」
「――すみません。やはり今日は……少しおかしいようです」

そう言って柳生は更に腕に力を込める。
本当に自分に起きている出来事なのか、混乱したはもがくことも出来ず、彼の腕の中でじっと固まっていた。

「もう少し、このままでいて下さい。――そうすれば、落ち着きますから」

どことなく悲痛なその彼の言葉を聞いて、漸くは力を抜く。
そして、黙ったままコクリと小さく頷いた。