zettel 9




呼吸も声も唾液も何もかもが奪われる。
キスとはこんなに苦しくて、激しくて、甘いものなのか――と、朦朧とした頭では思う。
舌を絡めることなど今まで経験したこともなくて、最初はその感触に怯えて逃げ惑ったが、執拗な柳のそれにいつの間にか懐柔されていた。

自分の口から漏れる声に驚いて思わず逃れようと腰を引けば、それを咎めるように更に彼の舌が口内に深く侵入してくる。
そんなことを何度か繰り返して、どれくらいの時間が過ぎたのか。
足に力が入らなくなったがしゃがみ込んでも解放されず、くったりと凭れ掛かると、やっと唇が放された。

目を閉じて、は柳の肩に頭を凭れる。
呼吸の音と、心臓の音と。
それがどちらのものなのか分からないまま、ぼんやりと聞く。

うっすらと目を開けると、床に手をつく柳の手が視界に入った。
その体勢のせいか、少し筋張って見える手の甲。
すぐ傍に力なく垂れていた自分の手を、それに載せる。
ほんの僅かでも触れれば緊張していたというのに、今は安堵と疼きと罪悪感と、そんな色々なものがない交ぜになって襲って来て、ただため息を吐き出すだけ。

「――

耳元に低く響く柳の声。
その声はいつもより艶を帯びているようにも感じるし――いつもと全く変わらないようにも感じる。
柳は、の顔に掛かった髪を指で丁寧に取り除くと、彼女の肩を抱きかかえたまま、ゆっくりと立ち上がった。




次の日の朝、はいつもと同じように家を出た。
恐らく、休みたいと言えば、彼女の親は休ませてくれたように思う。
前の日に帰宅した彼女の様子に、母親はとても心配そうな顔をしていた。
しかし今日はどうしても学校へ行かなければいけないような気がした。
まだ何の気持ちの整理もついていない。
それでも、最後くらいは、誠意を見せなければいけない。

「もう!心配したんだからね!」

教室に着くと、少し早めに来ていた友人につかまって怒られた。
柳生も既に来ていたが、彼女たちには背を向けたまま、席で読書をしている。

「そう言えば、柳、くん?あの人も、すごい心配してたんだから!」
「え?」
って柳くんとも仲良かったんだね。一生懸命探してくれて、ちょっと感動だったよね」
「ちゃんと会えたんでしょ?」
「う……うん」
「柳くんもカッコいいよねー、いいなぁ、

友人の無責任発言に冷や冷やしながら、は柳生の方をチラリと見る。
けれど、彼は全く動く様子はない。
ほぅっと息をつく
彼女たちは、本当にが二人のどちらかとそう言う関係になることなど想像していないのだ。
しかしそんな彼女たちを咎める権利など、自分にはないとにも分かっている。
自分だって、彼女たちと同じだったのだから。

「――柳生くん」

自分の名前を呼ぶ声に、柳生は本から視線を上げる。
本当はが自分の傍に来たのは、その身に纏う香りで気づいていたけれど、彼女の顔を見て、初めて彼女を認識したかのように微笑んだ。

「――おはよう、ございます」
「おはよう、柳生くん」

じっと自分を見つめて来る彼女の手には、柳生の貸した二冊の参考書。
そのあとの彼女の行動は予測がついたけれど、悪あがきのようにその本から目を逸らす。

「これ……ありがとう」

少し躊躇いながらもはその参考書を差し出すが、柳生の手は文庫本から離れない。
暫くそのままだったが彼女がそれらの本を机の上に置くと、柳生は眼鏡の縁を押し上げ、を見た。

「もう――必要ありませんか?」

まるで子供に問いかけるかのように、優しく、穏やかな声。
一気に罪悪感が襲って来て声に詰まるだったが、何とか首を横に振って、口を開く。

「そうじゃないけど、もう、借りられないよ」

そしてもう一度お礼を言おうと頭を下げた時、柳生のクスリと言う笑い声が聞こえた。
ついさっきまでの優しげな雰囲気とは違う、どこか冷えた感じの。
ドキリと顔を上げれば、その表情はさっきと変わらず、やはり優しく問いかけるように、僅かに首が傾げられる。

「あなたの、語学に対する思いはその程度なのですね」

思いもかけない柳生の言葉に、は声どころか息まで詰まった。
目を見開いて彼を見たけれど、柳生の方は穏やかに笑みを湛えたままだ。
何と続けていいのか分からずに、ただじっと彼を見つめていると、予鈴のベル。
周囲の生徒がガタガタと自分の席に戻れば、も同じように戻るしかない。
「ごめん」と一言残して戻ろうとした時、後ろから柳生の声が追い掛けて来た。

「――さん。後で少しお時間を頂けませんか?」

振り返ったの目が一瞬宙を彷徨うけれど、彼女も、やはりこのままで終わらせるわけにはいかない。きちんと話をした方がいいだろうと、黙って頷いた。




「今日は久しぶりに良い天気になりましたね」

昼休み、屋上に出た柳生は、照りつける日差しに目を細める。
もその眩しさに目が慣れず、額に手を翳した。
こんな風に、柳生と昼休みに明るくて人のざわめきの聞こえる場所に来るのは初めてで、おかしな気がする。
奥へと進む柳生に大人しく付いていく
彼が立ち止まると、数歩離れても足を止めた。

「――昨日は、申し訳ありませんでした」

柳生が、に背を向けたまま言う。
この前のように、どうかしていたと言うのだろうか。
そう言ってくれたら、また元に戻れるのだろうか。
往生際悪くそんなことを思い、はそれを振り払うように首を横に振った。

「あなたを、怖がらせてしまいましたね」
「……それは、大丈夫」

柳生がゆっくりと振り返る。
その顔には、いつもと何も変わらない穏やかな笑みを浮かべて。

「けれど、あの時言ったことは否定しません。全て本心です」

じっと目を見たままそう話す柳生。
その視線に耐えられなくて、はふいと俯いた後、小さく「ごめんなさい」と謝った。

「柳生くんには、すごく感謝してる。勉強を教えてくれたからってだけじゃなくて……一緒にいるとすごく、楽しかった。それは本当なの。でも――」
「私も、さんには感謝しています。あなたのおかげで世界が広がりました。私にとってただの『言語』でしかなかったフランス語に生命が吹き込まれた」
「そんな――」
「他の教科も、いつでもあなたにお教え出来るようにと、いつも以上に勉強に力が入ってしまいました。滑稽かもしれませんが、とても充実していたのです」
「そんな、滑稽じゃないよ。私だって柳生くんに笑われないようにって一生懸命勉強してて――そう言うのって、すごく充実してた」
「でも、あなたが選ぶのは私ではないのですね」

いきなりの核心を衝く柳生の台詞に、は咄嗟に何も言えなくなって、ぎゅっと拳を握る。
いつの間にか彼の顔からは笑みが消えていて、無表情のまま、彼女を見つめていた。
本当は怖くて目を逸らしたかったけれど、はぐっと口を引き結び、じっと彼を見つめ返した。
その目が答えなのだと悟ると、柳生は、ふと口元を緩ませる。

「これを、あなたに差し上げましょう」

そう言って彼が差し出したのは、カバーの掛かった厚めの本。
戸惑うに「どうぞ」と更に差し出すと、彼女もおずおずと言った感じで受け取った。
まだ新品のようで、紙は折れ目一つ付いておらず、開くとパリパリと小さな音がした。
表紙を開くと、そこには、さっきまでが借りていた文法書と同じタイトル。

「以前、あの文法書に改訂版が出ているとお話したのを憶えてらっしゃいますか?」
「え?あ――」
「その、改訂版です。ほんの少し見ただけですが、少しは分かりやすい日本語になっているようですね」

本当は、古い参考書が一通り終わってから差し上げようと思っていたのですが。
そう言って微笑う柳生。
「貰えないよ!」と慌てて返そうとするだが、柳生はやっぱり微笑うばかりで受け取ろうとしない。

「もうドイツ語は勉強したくありませんか?」
「そ、そうじゃなくて――」
「自分を好きだと言う男の物は貰えませんか?」
「――っ」
「あなたは本当に分かりやすい方ですね。いつもそうでしたよ」

含みを持たせた柳生の言葉には敢えて反応せずに、は「どうしても、貰えないから」とだけ繰り返す。

「彼なら、気にせずに貰っておけと言いますよ。それ程狭量な男ではありません」
「そ、そうじゃなくて――っ」
「それ位、持っていて下さってもよろしいでしょう?」

尚も返そうとしたに向って、柳生は先程教室で感じたような一瞬冷やりとする空気を纏った。
その表情は変わらないはずなのに、声も、ひどく静かなものなのに、は思わず本を持つ手に力が入る。
彼の足が一歩前へ出れば、は一歩後ろへ退く。
不安そうに瞳を揺らす彼女に、柳生はツイと眼鏡の位置を直し、先程の空気を打ち消すかのような笑みを浮かべた。

「来週からテストが始まりますから、今から参考書を変えるのは得策ではありません」
「でも……」
「そのような感情を勉学に持ち込むのは、どうかと思いますよ?」

正論を言われ、は結局断り切れず、その持っていた本を下に下ろした。

「分からないところがあれば、彼に聞くといいでしょう」

柳生の言葉に、流石にそれは――とが咄嗟にこたえようとすると、それを遮って続けられる。

「流石に彼は忙しい人なので、毎日というのは無理でしょうけれど、分からない所位は教えてくれるはずです」
「何で、そんなことを言うの?」

思わず柳生を見上げるの眉根が顰められる。
自分の好きな人が他の人と仲良くすると言うのは、普通嫌なものなのじゃないだろうか?
自惚れたいわけではないけれど、自分を好きだと言い切った男だ。
もう吹っ切れたと言うのだろうか?
それとも、勉学にそう言う感情を持ち込むべきじゃないから、と言うことなのか?

「さあ――どうしてでしょうか」

やや下を向いて眼鏡に手をやる柳生の口から、どことなく自嘲的な笑いが漏れた。
予鈴が鳴り、まばらにいた生徒たちがどんどん入り口のドアから消えて行く。
柳生も息をつき、「さて、ではそろそろ私たちも教室へ戻りましょう」とを促した。

「うん。……あ、でも、これは……」
「往生際が悪いですよ、さん。『そう言う好意』は素直に受け取っておくものです」

最後にもう一度が差し出した本は受け取らず、柳生は階段を下りていく。
彼女は諦めたように息を吐き出した。

「……ありがとう」

背後から聞こえて来たのお礼の言葉には反応せずに歩き続ける柳生。
その彼の呟くように言った言葉は、の耳には届かなかった。

「――あなたを諦めた訳ではありませんよ」