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結局、その後は「申し訳ありませんでした」と何度も謝りながら、柳生はを解放した。
彼女の方は「気にしないで」としどろもどろになりながらも、何とか笑って言い、その後はぎこちないながらも普段通りの会話をしながら学校を出て、駅で別れた。

きっと彼は体調が悪くて、気弱になっていただけだと必死に自分に言い聞かせるだが、やはり何となく顔を合わせづらい。
翌日学校へ行ったは、いつもなら時折教室の入り口を見て、友達や柳生が入って来るのを待つのだが、その日は自分の席に大人しく座ってじっと本を読んでいた。

「おはようございます、さん」

しかし、彼の方は全く変わりなく彼女のもとへとやって来た。
自分の前に立つ人影にが顔を上げれば、笑顔で見下ろしている柳生。
やはり目を合わせづらいは、ふいと目を横に逸らしながら、戸惑いがちに「おはよう」とだけ挨拶を返す。
そんな彼女に構わず、柳生の方は全くのいつも通り。

「昨日はご心配をおかけしました。もう大丈夫ですので、また昼休みはよろしくお願いします」
「あ、うん……こちらこそ。……でも本当に大丈夫?」
「ええ。もちろんですよ」

こんな状態でちゃんと彼と一緒に勉強出来るのか、の方は今いち不安だったが、力強く頷いて笑う柳生の勢いに負けてしまう。
昼休みになりお弁当を食べ終わると、はいつものように席を立った。
最初のうちは、友達に「仲がいいね」と何度かからかわれて送り出されたけれど、最近は「今日も行くんでしょ?行ってらっしゃーい」と、普通に手を振られるだけだ。

「昨日お休みしてしまいましたから、今日はがんばってその分を取り返さなくてはいけませんね」

図書室へ向かう途中、張り切ってそう言う柳生を見ていると、もだんだんいつもの調子を取り戻して来る。
「先生、よろしくお願いします」と、少しおどけて言えば、可笑しそうに微笑う柳生。

今日も殆ど人気のない奥のスペースへと行き、は柳生から借りている文法書を開いた。
最初は書かれていることが殆ど分からなかったそれも、根気強い柳生のおかげで、だいぶ理解できるようになって来た。
気が付けば、栞を挟んでいる個所は、もう後半のページ。
ゆっくり本を広げながら彼女の思ったことが分かったのか、柳生も「もうだいぶ進みましたね」と感慨深げに言った。

「この調子なら、テストの前に全て終わってしまうかもしれませんね」
「うん――そうだね」

しかし、学習は反復が大切ですからね、と続く彼らしい台詞に、は思わず笑ってしまう。

「最後まで終わっても、暫く借りてていいのかな」
「もちろんです。ずっと持っていて頂いて構いませんよ。――あと少しで、もうお教えすることがなくなってしまうのは少し寂しいですね。あなたとこうやって勉強していると、とてもよい刺激になっているのですが」
「私もだよ!柳生くんとこうしていると、頑張らなきゃって気になるから、他の教科の成績も上がって来てる気がする」
「そうですか、それは光栄です」

にっこりと笑いながらも、どこか寂しそうな表情。

「じゃあ今度は私が柳生くんに何かを教えて――って言っても、私が柳生くんに教えてあげられるものってないよね……。フランス語も、きっと私より全然出来るし」
「そんなことはありませんよ。さんには、私もいつも色々教えて頂いています」

嘘ではありません。
優しい声でそう言う彼は、やはり紳士なのだなと、は改めて思う。
優しくて、いつも気遣いが出来て。
ふふ、とが笑うと、彼は少し俯いて、また眼鏡の縁を手で押し上げた。

「――もし、さんさえよろしければ、これからも一緒に勉強をして行きましょう。ドイツ語に限らず他の教科もお教えできると思いますよ」
「ありがとう、柳生くん。柳生くんの邪魔にさえならなければ、喜んで」
「邪魔だなんてとんでもありません。――この昼休みの僅かな時間は、私にとって、とても貴重なのですよ」

大げさだなあ。
思わず照れ隠しでそう言ってしまったには、その柳生の言葉の深い意味など知ることが出来ず、手元の参考書へと向き直る。
そして、ふと浮かんだ疑問に、小首を傾げた。

「そう言えば、柳生くんってさ」
「はい?」
「ずっとドイツ語選択だったんでしょう?何で今年になってフランス語に変えたの?やっぱり私と同じように先生に勧められたとか?」

今更のような疑問だったけれど、何となく気になって口に出さずにはいられなかった。
もちろん、外国語は各自の自由選択だが、あまり途中で変更する生徒はいない。
じっと見るに、今度は柳生の方が机へと向き直り、黙って眼鏡を上げる。
そして、参考書の上に手を乗のせながら、ゆっくりと口を開いた。

「――昨年の秋に、一遍の詩を読んだのです」
「詩?フランス語の?」
「はい」

柳生はその詩を思い出しているのか、顔を上げて目を瞑る。
自然と緩んで来る口元。

「その詩は、とてもシンプルなもので、一見するとさらりと見逃してしまいそうになるのですが、読み返すたびに新しい発見のある、温かい詩でした」

そう、あなたに貸して頂いているあの本のように。
微笑む柳生の表情から、その詩の温かさが伝わってくるようだ。
思わずも顔が綻ぶ。
一体、どんな詩なのだろうか。

「それを読んで、私もフランス語で詩を書いてみたくなりました。私もたまに詩を書くことがあるのですよ」
「そうなんだ。柳生くんの詩かぁ。見てみたいな」
「実は中学3年の時に、『百川帰海』に載ったことがあるのですよ。それは日本語の詩でしたけどね」
「えっ、そうなの?……ごめん、知らなかった。私、あの新聞っていっつも読まないでお母さんに渡しちゃってるから……。もしかしたら取っておいてあるかも。帰ったら探して見るよ」
「そうまでして見て頂く程のものでもありませんよ、拙い作品です。あなたの詩に比べたら」
「え?」
さん、もしやご自分の詩が昨年掲載されたこもご存知ないですか?」
「え……あっ……えっ!?」

実は、柳生に言われるまではすっかり忘れていた。
確かにフランス語の授業で作った詩を載せられたことがある。
自分は恥ずかしいから嫌だと先生に言ったのだけど、半ば強引に押し切られたのだ。
それは、確か去年の秋のこと。
いや、まさか。
混乱するに向って、柳生は「憶えてらっしゃいますか」と笑った。

「去年、『百川帰海』に掲載されたあなたの詩を読んで――フランス語をもっと学びたいと思ったのです」




その日の昼休みは前日分を挽回するどころか、殆ど進まなかった。
もちろん彼はただ純粋にの詩を気に入ってくれただけだろう。
一つの切欠として、その話をしたのかもしれない。
は自分の詩にそんな影響力があるなんて思えなかった。
第一、あの詩は最初先生にも不評だったのだ。
それなのに、いきなり呼び出されて、「あの詩を載せることになった」と言われて当時はパニックになった。

そんな詩を彼が目に止めてくれた。
そう思うと、ついさっきまでは全然平気だったはずなのに、彼の顔を見ることが出来なくなってしまった。

「ご、ごめんね、柳生くん……。何だかいっつも謝ってばっかりだね」
「大丈夫ですよ。この辺りは少し複雑ですからね。焦らずに進めていきましょう」

柳生はいつもと変わらない。
自意識過剰だなぁと、は自己嫌悪。
はあとため息を吐くと、彼はもう一度「焦らなくていいのですよ」と言って、元気づけるようにの背中に手を添えた。

教室に戻ると、彼女の友達が「顔赤いよ?」とニヤニヤしながらのもとへと集まって来た。
「そんなことないよ」と否定しても、その笑いは収まらない。

「ついに進展あり?」
「な、なによ、進展って」
「柳生くんから告白されたとか」
「なっ――ないよ、そんなの!」

思わず腰を浮かせてそう言うだが、周囲の女子の方は「えー、だってねぇ?」と肩を竦めながら互いに見合うばかり。

「柳生くんはのことを好きなの、ばればれだもんね」
ってば、罪な女」
「ちっ、違うってば!そんな……柳生くんの好意をそんな風に見るなんて失礼だよ!第一、柳生くんは皆にも親切じゃない」

は、常々心の中で思っていたことを口にする。
それを聞いた友人たちは「そんなわけないじゃん」「あんなに優しいの、にだけだって」と口ぐちに言い返した。
だんだん自信のなくなって来るは、声が弱々しくなって行く。

「でも……」
「もう、いっそのことから告っちゃえば?絶対OKだよね」
「ええっ!?」
「かっこいいし、優しいし、頭いいし、テニスも上手いし!言うことなしじゃん!何が不満なの?」
「いや、不満とかじゃなくて」
だって、柳生くんのこと好きでしょ?」

友人の問いに、言葉が詰まる。
好き?
そうなのかな、好きなのかな。
これって――好きってことなのかな。
今までも、男の子を好きになったことはある。
全て憧れで終わってしまったけれど。
その感じに似ている気はする――けど。

「……そうなのかな」
「もう!自分のことでしょー!」

友人の一人がをド突いたところで、予鈴が鳴った。
皆がそれぞれ席へと戻って行って、はやれやれと安堵のため息。
窓に目を向けた時、前の方に座る柳生の背中が視界に入った。

――何でもかんでも、好きとか嫌いとかに分けちゃいけないと思う。
柳生くんは「紳士」だから、授業について行けなくて困っているクラスメイトを助けてくれてるだけだもん。

今まで何度も心の中で繰り返した言葉。
はその背中から視線を逸らし、膝の上に置いていた手を、ぎゅっと握った。




昼休みに教わった内容が全く頭に入っていなかったので、放課後、は図書室に行って一人復習をすることにした。
少しだけ友達と雑談した後、そこへ向かう。
必ず断られるので、もう友達を誘うことはしなくなった。
数時間ぶりのその椅子に、腰を下ろす。
そして参考書を広げたが――何となくすぐにそれに取りかかる気分になれず、一緒に出した辞書の方をぱらぱらと捲った。

インクの匂い。
それを嗅いだら、ふと、匂い袋を思い出して、ポケットから取り出した。
両手で包むように持ち、顔に近付けてひっそりと吸い込む。
いつもなら穏やかな気分になるのに、何故だか今日は奇妙な後ろめたさの方が勝ってしまっていた。
それでも、もう一度その香りを吸い込み、そしてポケットに戻そうとした時、すぐ後ろから彼女の名前を呼ぶ声。

「――
「きゃっ」

小さい悲鳴と共に、ポトリと匂い袋を落としてしまう
慌ててそれを拾おうと身を屈めたが、彼女よりも先に男の手がそれを拾い上げた。
それを軽く叩いて、彼女に差し出したのは、柳。

「お前はいつも驚いているな」
「や、柳くん……。だ、だって、いつも急に現れるんだもん……」
「そんなつもりはないんだが」

柳は苦笑しつつ、目の前に差し出された彼女の手の平に、その小さな袋を載せる。

「柳くんは……部活は?」
「これから行くところだ。今まで生徒会の仕事があってな。――部活の前にお前にこれを渡そうと思ったんだ。ここにいてよかった」

そう言って、彼が鞄から取り出したのは、1冊の文庫本だった。
首を傾げるに構わず、それを机の上に乗せる。

「この前買った本で、面白いものがあったら貸すと話していただろう。それはなかなか面白かったから、読んでみるといい」
「えっ、もう読み終わったの?」
「買った本全てではないがな」

ふ、と自分を見下ろして笑う柳の顔を、ちゃんと見ることが出来ず、はその文庫本を手に取り、ぱらぱらと捲った。
そして俯いたまま礼を言う。

「あの……ありがとう」
「返すのはいつでもいい。また何か面白い本があれば貸そう」

あまり遅くならないうちに帰れ。
そう言いながらの頭の上に手を載せた時、袖口からふわりと匂い袋と同じ香りがする。
ついさっき、全く同じ匂いをその小さな袋から吸ったときは少しは穏やかな気持ちにもなったのに、今、その匂いは彼女の鼓動を速めるばかり。
もしかして、その心臓の音が彼に聞こえてしまうのではないかと不安になたは、きゅっと目を閉じて彼が立ち去るのをただ待った。
しかし、彼は一向に去る気配がない。
どうしたのだろうかと、怖々目を開き、柳の顔を見上げると、彼はの目の前にある文法書をじっと見つめていた。

「――だいぶ進んだな」
「うん……そう、だね」
「あいつの教え方について行けるなら大したものだな。部の後輩には、説明が難し過ぎるとあまり評判はよくないんだが」
「え、そんなことないよ?柳生くんの教え方はすごく分かりやすいと思うけど」
「そうか」

すいと手を伸ばし、柳はその本を取り上げて、パラリと1ページ捲る。
淡々としたその表情からは、彼の考えていることを窺い知ることなど出来ず、は彼の視線が本の上に向けられているのをいいことに、彼の顔をじっと見上げた。
――が、不意に彼の目が、自分の方へと向けられる。
は慌てて目を逸らした。
その動きがあまりに不自然なのは彼女自身でも分かっていたので、笑われるのは無理のないことだ。

「これだけやっていれば、もう自分で普通に文章が書けるだろう?」
「ド、ドイツ語で?それは無理だよ、辞書引きながら、本当に簡単な文なら作れるかもしれないけど――」
「しかし、詩なら作れるんじゃないか?」
「――え?」

は、彼の言いたいことが分からず、戸惑いの目。
それに対し、どこか意味深に上げられる柳の口角。
彼は勿体付けるように黙ったまま、手に持っていた文法書を彼女の前に置く。
左手は彼女の腰掛けている椅子の背凭れの上に乗せられていて、身を少し屈めながらもう片方の手で机の上に戻される本。
その緩慢な動作のために、彼女はほんの僅かな時間、柳に包まれるような形になり――彼の衣服の摺れる音が、すぐ耳元で聞こえた。
しかし、彼女の鼓動が跳ねた次の瞬間には、彼は元通りの真っ直ぐな立ち姿。

「昨年、『百川帰海』に掲載された時」
「え……え!?もしかして、柳くんも、あれを憶えているの!?」

それは昼休みに柳生との会話で出て来た詩に違いなかった。
会報誌の片隅に、小さな字で載っていた短い詩。
あんなものが、そんなに人の記憶に残るものだなんて思ってもみなかった。

――単に2人の記憶力がいいから、と言うことなのだろうか?
はみるみるうちに真っ赤になって、両手で頭を抱えた。
本当なら穴があれば入りたいくらいだ。

「――憶えているも何も」

そんな彼女の頭上で、小さな笑い声。
びくびくしながらもが顔を上げると、柳の優しい目とぶつかった。
からかわれるのでは、と思っていたが、彼からはそんな意地悪な表情は読み取れない。
そして、続いたのは予想もしなかった言葉。

「あの詩を選んだのは、俺だからな」
「――え?」

選んだのが、柳くん?
一瞬、彼の言葉の意味が理解出来なかった。
あまりに予想外で、頭に入って来なかったのだ。
ぱちぱちと瞬きをする彼女を、柳は可笑しそうに見下ろす。

「え……あの詩を、柳くんが?選んでくれたの?」

何とかは柳に問い返したけれど、問われた本人は笑うだけで答えない。
そして、混乱するをそのままに「ではな」と一言だけ残して去ってしまった。

「え、や、柳くん!?」

咄嗟に声をあげて呼び止めようとしてしまい、ここが図書室だということを思い出して慌てて口を押さえる
そんな彼女に構わず、柳の背中はすでに見えなくなってしまっていた。

――そう言えば、さっき彼は生徒会の仕事だと言っていなかったか。
あの会報誌は生徒会が発行しているものだから、彼が役員であれば掲載する内容に関与していてもおかしくはない。

柳が選んで、柳生がそれに目を止めた。
奇妙な偶然だと思った。
柳が選ばなかったら、自分の詩はあそこに載ることがなくて、柳生がそれを見ることもなくて――もしかしたら彼が今年フランス語を選択することもなかったのだろうか?
いや、誰か他の人の詩でも彼は同じように学んでみたいと思ったかもしれない。
こんな、たられば話は無意味だとは分かっていたが、やはり不思議な気分になる。

しかし、あの詩のことが、同じ日に色々判明するなんて。

「――奇妙な、偶然か」

は文法書を手でなぞりながら、ぽつりと呟いた。