zettel 3




夕食を終え、自室へと戻ったは、何故か緊張しながら鞄を開いた。
そしてノートを取り出して、机の上に載せる。
ドイツ語の辞書をその脇に置き、はそのノートをぱらりと開いた。

その時、ふわりと――あの、どこか懐かしい香り。
図書室で拾ったときは気付かなかったが、それはあの男が自分の横を通った時に感じたものと同じ香りだった。
それには気づいていなかったが――しかしはそのルーズリーフが彼のものではないかと、直感のようなものは抱いていた。
手に取った瞬間から。

Dort ist alles, was du brauchst,
Sonne, Stern und Mond,
Denn das Licht, danach du frugst,
In dir selber wohnt.

白い紙に綴られた文を、指でなぞる。
何故だか、自分が物凄く背徳的なことをしているような気がして来る。
もちろんこれは感心したことではないが、ここまで鼓動を速めるほどのことではないだろう。
は目を閉じ、何度か深呼吸を繰り返した後、その文の中にある単語を辞書で調べ始めた。

それは、詩か何かの一文なのだろうか。
何故、この文章が抜き出されていたのだろうか。
少なくともそれは、授業で使っているテキストの中には出て来ない文章だった。
たどたどしくも、声に出して読んでみる。
その後、彼の声で読まれるのを想像する。
それは先ほど文を指でなぞった時以上に背徳的な感じがして――どことなく、甘やかにも感じた。




次の日、そのルーズリーフは持って帰った時と同じようにノートに挟んで学校へ持って行ったが、落し物として届けに行くことが出来なかった。
午後にあったドイツ語の授業で、柳に直接聞いてみようかとも思ったのだが、いざ教室に入ると、彼の姿さえまともに見ることが出来ない。
罪悪感、なのだろうか。
しかし、このまま時が経てば経つほど、それはどんどん大きくなっていくだろう。
返すなら早い方がいい。
心の中では自分に向って必死にそう叫んでいるのに、は席でじっとしてるだけ。
終業のベルが鳴った後、往生際悪く席に座ったまま迷っていると、彼がのすぐ後ろを通って教室を出て行った。
その時にまた――あの香り。
結局、は全く動けなくて、教室に誰もいなくなってから、ようやくそこを後にした。

一体自分はどうしてしまったのだろう。
放課後になり、が帰り仕度をしながらため息をついていると、心配そうな顔をした柳生が彼女のもとへやって来た。

「どうしましたか?今日は1日元気がありませんでしたね」
「え、そ、そうかな……」

なるべく普段と変わらないようにと友達の前などでは気を付けていたつもりだったが、ばれていたのだろうか。
は「ごめんね」と弱々しく笑った。

「元気がないわけじゃないの。大丈夫」
「私に出来ることなら、何でも仰って下さい」
「うん、ありがとう」
「本当ですよ?――あなたのお役に立ちたいんです」

やはり彼はいい人だ。
彼は皆に「紳士」と呼ばれているのだと、今日、友達から聞いた。
確かにその通りだな、とはちょっと微笑いながら、もう一度お礼を言った。

「ありがとう。柳生くんって本当に優しいよね」
「――そんなことはありませんよ」

柳生はちょっと戸惑った顔をしたが、単なる謙遜だと思った
何かを思い出したのか、「あ、そうだ!」と嬉しそうな声を上げた。

「昨日教えて貰ったところ、家でもう一度復習したら、すごく分かるようになって来たよ。ありがとう」
「そうですか!それは何よりです。ではまた続きをしましょうか。明日はいかがですか?生憎昼休みだけになりますが……」
「うん、じゃあ――お願いしていいかな」
「もちろんですよ」

柳生の笑顔につられて、も目を細める。
少しだけいつもの調子を取り戻しながらも――また明日、あの場所に行くのだと思うと、ほんの少し心臓の音が早まるのを感じた。

結局、はずっとそのルーズリーフをノートに挟んだまま、届けることも捨てることもしなかった。
それから何日か続けて昼休みに柳生と勉強していたが、最初のうちこそ落ち着かなかったが、だんだんと普段の調子へと戻って来る。
ノートを開いても、あの香りはだいぶ薄らいで来た頃、いつものように昼休みに図書室にいると――彼が現れた。

「やはりここにいたか」

柳生にそう話し掛ける男。
近づいて来るその男をは見ることが出来ず、参考書を見るふりをして慌てて下を向いた。
薄れていた罪悪感が、ざわりと蘇って来る。
しかし今さらもう「これ、あなたのでしょう?」とルーズリーフを差し出すわけにもいかない。
タイミング的に遅すぎると言うのももちろんあるが、それを何度も取り出しては見ていたため、端の方が少し切れてしまっていたのだ。
は黙ってじっと彼が去るのを待つ。
――が、その低い声は、もう少しこのまま聞いていたい、とも思ってしまう。

「ああ、柳くん。どうかしましたか?」
「精市からの伝言だ。今日の部活は早く終わるらしい。顧問の都合でな」
「そうでしたか。わざわざありがとうございます」
「いや、俺も図書室に用があったから、ついでだ」

ふ、と笑い、柳は柳生との間に置かれた参考書を覗き込んだ。

「――ドイツ語か」
「ええ。さんは今年から外国語の選択を変えられたので、少しお手伝いを。私もよい復習になっていますよ」
「そうか」

柳が、ちらとの方を見て微笑う。
その表情は、彼女の何もかもを見透かしているようで、怖い。
また俯く彼女。
しかし柳生に話しかけられ、顔を上げざるを得なくなった。

「ああ、そうだ。さん」
「……え?」
「よろしければ、また今日の放課後もいかがですか?やはり昼休みだけですと、なかなか進みませんから。少しお待ち頂くことになりますが――どうでしょうか」
「え……でも、部活の後なんて、大変じゃない?」
「いいえ、そんなことありませんよ」

そう?と躊躇いがちにが首を傾げると、柳生の後ろに立っていた柳が「ずいぶんと勉強熱心だな」と少し呆れたような笑い。
しかし眼鏡の縁に手をやって答えた柳生の表情は、至極真剣だった。

「ええ、ここでの勉強は――とても充実していますから」
「……そうか」

柳が呟くように言えば、ちょうどその時に予鈴が鳴る。

「ではさん、また放課後に、ここで」
「あ、う、うん……」
「また邪魔をしてしまったな」

そう言って、柳が一足先にそこを後にする。
その背中を見て、は知らずため息を吐き出した。




放課後、は少しだけ友達と雑談をした後、図書室へと向かった。

「また勉強?ほんとにって真面目だねー」

呆れ半分で言う友人に、「じゃあ皆も一緒に――」と誘うと「私たちはいい」とあっさり断られた。

「たぶん、私たちは二人について行けないもん」
「そんなことないよ!確かに柳生くんはすごく頭いいけど、私なんか、いっつも頓珍漢なことばっかり聞いてて恥ずかしくなるよ」
「ま、馬鹿な子ほど可愛いって言うし」
「そう言うなら、皆だって気にしないで――」
「絶対ムリ」

そんな攻防を繰り返し、結局一人でいつもの場所に納まる
相変わらずそこはすごく静かで、椅子を引く音が響く。
その音にドキリとして周りを見渡しても、すごく離れた奥の席に一人座っているだけで、その人物は全く気付いていないかのように黙々と机に向かっている。
ほう、と息を吐き出して、は慎重に本を机の上へ。

今日は数学とドイツ語で宿題が出されている。
数学の方は計算問題のプリント1枚だから、まずそちらを片付けてしまおう。
配られたプリントを広げると、早速はそれに取りかかった。
物音一つしなくて、否が応でも集中してしまう。
一気にやり終えて腕時計に目をやると、1時間近く経っていた。
そろそろ部活の終わる頃だろうか。
ちらりと入口の方を見たが、人の気配はない。

とりあえず、この勢いでドイツ語の方も終わらせよう。
今度は辞書とレポート用紙を取り出す
出された課題は、5問の和文独訳だった。
そんなに難しい問題ではないはずだが、全く自信のないは、ひとつひとつ辞書を引きながら、ゆっくりと解いて行く。
やっぱり今日習った文法を使うのだろうか。
それとも、案外、以前出た文法の復習?
考えれば考えるほど混乱して来て、フランス語だと何て言うかな、と仏訳を先にしてしまう。

「――そこは少し違うな」

うんうんと必死に悩んでいたには、すぐ傍に人が立っていることに全く気付けなかった。
きっと足音だってそれなりに響いたはずなのに。
背後からのその低い声に、は思わず「ひゃあっ」と小さな悲鳴を上げてしまった。

「ああ、すまない」

驚かせてしまったな、とクスクス笑う声に、が恐る恐る振り返れば、そこには鞄を小脇に抱えた柳の姿。
つい先ほどまで部活をしていたであろうに、涼やかな顔をしている。

「え、あ……柳、くん」

まさかここに彼が現れるとは思っていなかったので、はついついポカンと口を開けて間抜けな顔をしてしまった。
そんな彼女を見て、また彼は笑う。

「すまないな、柳生ではなくて」
「う、ううん……」

我に返れば、忽ち襲ってくる罪悪感。
彼女が俯き、1度書いた独文を消しゴムで消していると、柳が「あいつは急に委員の仕事に呼ばれてしまってな。――たぶん、あと30分位遅れて来るだろう」と続けた。
その言葉にはただ黙ってうなずく。
背後に立つ柳は、その場から立ち去る気配がなかった。
どうしたんだろうと彼女が顔を上げるのと、柳がその彼女の隣りの席に腰掛けるのとが同時だった。
ほんの微かな風が起きて、またあの香りがする。
それがまた彼女の後ろめたさを増幅させて、驚きで目を見開きながらも彼の顔をまともに見ることが出来なかった。

「あいつが来るまでの間、俺が代役を務めよう」
「え……ええっ!い、いいよ!大丈夫!」

思わず普通の音量で答えて、パタパタと手を振るに向って、柳は「しい」と唇の前に指を当てる。
そんな――この状況で動揺するなと言う方が無理だ。
「いや……でも、ほんとに……」としどろもどろになる。

「俺も一緒の課題が出ているからな。二人でやってしまった方が効率がいいだろう」

そう言って、彼女に構わず自分も机の上にノートを広げる。
しかし先程の口ぶりでは、彼はとうにそんな独訳など出来ているのではないだろうか。
はそのノートをチラと覗く。
――そこにある筆跡に、やはり、あのルーズリーフは彼のものなのだと確信した。
今さらながら、自分の悪事がばれないかと緊張し始める。
は無意識に、机の上に出していた自分のノートを手で押さえた。
そんな彼女の緊張を知るはずもない柳は、彼女の手元にあったレポート用紙を少し自分の方へと引き寄せる。

「――それで、この文だが、そんなに深く考える必要はない。今日習った文法に単純に当てはめればいいんだ」

そして、その問題文の一つを指で差そうとして、下にフランス語の文が書かれていることに気づいた柳は、口の端に笑みを浮かべて、それをさらりと読んだ。

「やはり、フランス語の方が好きか」
「えっ!や、柳くんってフランス語も話せるの?」

柳の問いには答えず、は驚きの声を上げる。
彼と言い、柳生と言い、この学校には本当に驚くような人間が多い。
目を丸くするに、柳は「そうではない」とやや苦々しい笑い。

「フランス語は規則さえ覚えれば、意味が分からなくても発音することは可能だろう」
「理屈ではそうだけど……今の r の発音はプロっぽかったよ」
「フランス語のプロとは、どんなものだ?」

可笑しそうに聞いて来る柳に、は自分が変なことを言ってしまったことに気が付いた。
恥ずかしくなって顔を隠すように、額に手の平を当てながら「フランス人みたいってことだよ」と弱々しく言うと「それは褒めすぎだな」とまた可笑しそうに言う。

「一応、基本的な文法などは学んだが、単語は殆ど知らないから辞書なしでは読むのは無理だ」
「……ドイツ語は分かるの?」
「もう4年も学んでいるからな。専門用語が多く出て来ると厳しいが――も、フランス語なら分かるだろう?」
「うーん……そうでもないよ。簡単な日常会話なら何とかなると思うけど、本を読む時は辞書が手放せないよ」
「日常会話が出来れば大したものだ」

そう言って笑いながら、1本だけ机の上で端の方へ転がってしまったボールペンを彼女の手元へ戻す柳。
綺麗な、長い指だった。
の指に比べれば全然太いのだが、手が大きいためか、その指はとても細く見える。
その手が、周りに無造作に転がっていたマーカーペンや赤ペンを1本1本取り、綺麗に揃えて行く。

「――で?」
「え?」

思わずその指の動きをぼーっと目で追ってしまっていたは、素っ頓狂な声。
キョトンとする彼女の顔に、柳は口元を緩ませて、とんとんとレポート用紙を指で叩く。

「この訳は分かったか?」
「えっ……あ、えーと……うん……」

見とれていたと、気付かれただろうか。
は赤くなった顔を俯かせ、シャーペンを走らせる。
自信なさげに、時折止まりながら。

「その、お前が書いた仏訳を単純に独訳すればいいんだ。あまり難しく考えるな」
「う、うん。……って、やっぱり柳くん、フランス語が分かるんじゃない」
「その文はたまたまだ」

顔を上げて口を尖らせると、柳は苦笑いを浮かべ、「そんな顔をするな」と彼女の頬に、一瞬だけ、触れた。
彼の方は、まるで何事もなかったかのように、その彼女に触れた手でペンを掴み自分のノートに文を綴る。
気のせい、とも思える位の短い時間。
けれど、その温もりがまだ彼女の頬に残っている。
一瞬、強まった香りも。

「どうした?」
「う、ううん。何でもない」

その頬に自分の手で触れようと思ったけれど――やめた。
じっと睨むように問題文を見つめる。

「――難しく考えなくていい」

その柳の台詞に、はコクンと頷いて、またペンを走らせる。
と、その時、後ろからカツカツとこちらに近づいて来る足音が聞こえた。

「――柳くん?」

その足音にが振り返るのと、柳生の不審げな声が響くのと、ほぼ同じタイミング。
二人から少し離れた場所に立ち止まったまま、柳生は眼鏡を指で押し上げて柳をじっと見る。

「どうかされましたか?」
「ああ――お前が少し遅れそうだと伝えに来た。そうしたら丁度彼女がドイツ語の課題をやっていたので、一緒に片付けていたんだ」

すぐに席を立つ柳に、最後まで一緒にやってしまえばよいのにと、が声を掛ける暇もない。
鞄に荷物を仕舞い始めると、柳生は漸く二人のすぐ傍へ。

「柳くん、わざわざすみませんでした」
「いや――差し出た真似をして済まなかったな。だがおかげで課題が大分片付いて助かった。――それではな、
「あ……うん。教えてくれてありがとう」

柔らかい笑みを残し、去って行く柳。
その彼の座っていた椅子の背もたれに手を掛けたまま、柳生は暫くその後ろ姿をじっと見つめていた。
どことなく、いつもと違う雰囲気を感じ取って不安になるだが、「委員会、大変だったね」と、なるべくいつも通りの調子で彼を見上げた。
柳生も、そんな彼女の方を向いて、微笑う。

「ええ。お待たせしてしまって申し訳ありません」
「ううん、大丈夫」

彼がの隣りに座る。
さっきまで柳が座っていた席。
腰を下ろした時、ほんの少しだけ柳生の香り。
もう、毎日のようにこうして隣りに座るせいだろうか、柳生のこの甘い香りはにとって心地よく感じられる。
あの香りのように、彼女の思考を奪うようなことはない。
出していたレポート用紙を仕舞うに、柳生は「おや」と首を傾げる。

「課題はもうよろしいのですか?」
「うん。全部は終わっていないけど、ヒントを貰ったから後は一人で出来ると思う」
「……私が、お手伝いいたしますよ?」

そう言って、眉根をきゅっと寄せる。
その声が少し深刻味を帯びていて、一体どうしたのだろうと内心不思議に思いながら、「本当に大丈夫」と笑う
そして彼女がその用紙を鞄に入れようとした時、それを阻むように柳生の手がの手の上に重なった。
突然の彼の行動に、は声も出ず目を丸くして柳生を見る。
彼はまだ眉を寄せたまま。
重ねられた手から彼の体温が伝わって来ると、まるでそれに呼応するかのように、の顔がだんだん熱くなっていく。

「――さん、私はあなたのお役に立ちたいのです」
「や……柳生くん?」

その手を放してもらおうと、彼の手の上にもう一方の自分の手を乗せる。
しかし、彼の表情はどこか悲痛にも見えて、その手を無理に引き剥がすことが出来なかった。

「ど、どうしたの?柳生くん……。いつも、本当に感謝してるよ?柳生くんのおかげでドイツ語もどんどん好きになっているし……」

フォローではなく、本心からの言葉。
それを聞いて、一瞬、彼の眉間の皺が深くなり、それから今初めて気が付いたように「ああ!申し訳ありません!」と慌てて彼女の手を放した。

「う、ううん……大丈夫、だよ。ちょっとビックリしちゃったけど」
「本当にすみません……つい……不安になってしまいまして」
「そんな……柳生くんって、ほんと、優しすぎちゃう所が悪い所だよね。友達に対して役に立とうとか、そんなこと、あんまり考えないよ」
「そう――でしょうか」
「そうだよ!私、マリたちの役に立ちたいなんて、そう言うこと考えたことないもん!もちろん困っている時とかは助けなきゃ!って思うけど」

が自分の友達の名前を挙げると、また柳生は「そうでしょうか」と繰り返して苦笑いをした。
その彼の表情を見て、もちょっと苦笑いを返す。

「柳生くんも、そんな風に考えないで、普通に楽しいって思って欲しいんだけど」
「もちろん、さんといると、とても楽しいですよ!だからこそ、あなたをお助けしたいと思ってしまうんです」
「やっぱり柳生くんは真面目なんだね」

今になって照れたのか、フイと彼女から目を逸らし、眼鏡に手を掛ける柳生。

「――あなたは」
「え?」
さんは、私と一緒にいて、楽しいと思って下さっているのでしょうか」

視線を合わせないまま、真剣な声。
今さらそんなことを聞かれるなんて心外だとばかりに、は「もちろんだよ!」と即答した。

「本当ですか?」
「本当だよ!もちろん勉強教えてくれて感謝してるけど、こうやって普通にお喋りするのも好きだよ?」
「――そうですか」
「うん」

が大きく頷くのを見て、柳生は漸く安心したように彼女の目を見て笑った。