caress 1




初め、声をかけられたとき、一体誰なのか分からなかった。
そんなことを言ったら物凄く非難を浴びそうだけど、でも、しょうがないと思う。

だって、ここにその人がいるなんて知らなかったし。
その人が私を知っているなんて、知らなかったし。
全然、二年前の印象と違っていたのだから。


「―――あれ?ってここの大学だったの?」


昼休み、私と同じように三年次編入でこの大学に入った女の子とお昼を食べていたら、背の高い男の子が彼女の背後で立ち止まって私の名前を口にした。
私たちの他愛も無い会話が、その彼の声で遮られる。
ただ名字を呼ばれただけなんだけど、その口調に妙な親しみのようなものを感じ取った私は、バイト先の知り合いか、高校時代のクラスメイトか、その辺りを予想しながら顔を上げた。
でも、そこにいたのは、全然知らない男の子。
その辺の雑誌のモデルなんか顔負けの、すらりとした長身。
頭は小さくて、手足が長くて。
クセの付けられた、茶色と言うよりは金色に近い髪は、ちょっと日本人離れした彼にはよく似合っていた。

だけど、他の者を圧倒するような存在感は、そんな彼の外見によるものだけでは、きっとないはずだ。
私は何の返答もすることが出来ずに、ボンヤリと彼を見上げた。
そんな私のことなど気にせずに、彼は人懐こい笑みを浮かべて続ける。

「確か短大行ったって聞いたんだけど、違ったんだ。」

私と彼の間に挟まれた女の子が、ちょっと所在無さそうな困った表情を浮かべる。
その顔を見ながら、必死に彼のことを思い出そうとするのだけれど、全然記憶から引っ張り出せない。
そもそも、こんな人が私の記憶の中に存在するんだろうか。
これだけの人に会っていたら、忘れたくても忘れられない気がするんだけど。
もう一度彼を見上げて、その目を見る。
ふと見上げたときの第一印象とはちょっと違って、意志の強そうな、鋭い目。
笑みを浮かべていなかったら、怖い、近寄りがたい感じだったかもしれない。

そこまで思って、私は漸く、彼がある人物と重なった。
高校で二つ下の学年だった―――

「ああ―――俺のことなんて憶えてねぇよな。」

それと同時くらいに、彼の方もそう言って苦笑いし、短い髪をクシャリと掴む。

「高橋、啓介。あんたと同じ高校だったんだけど。」



私が僅かに知っている「高橋啓介」と言う人物は、今目の前に立っている人と随分異なっていた。
三年の時に入学してきた彼とは全くと言っていいほど接点がなくて、「知っている」と言うのもおこがましいほどだ。
でもそのたった一年の間でも、噂は絶えず流れてきた。
どちらかと言うと、よくない方の、うわさ。
所謂暴走族、みたいなものに入っていて、学校にはあまり来ていなかったんじゃないだろうか。
学校中の噂の的と言う点ではお兄さんの高橋涼介と同じくらい目立っていたけれど、優等生と問題児、と言った感じで見事に対照的な評判だった。
私にとっては、どちらも「遠い存在」で、同じ学校にいることさえも現実感を伴わなかったけれど。

兄の方は周りの人皆に優しく笑いかける。
けど、遠くからその笑顔を見ると、私は何となく寂しくなった。
弟は、笑顔など見せたこともなく、いつも刃物のような鋭い目つきをしていた。
なぜか、その目を見ても兄の時と同じように寂しく感じた。
二人とも全く関わりが無い人、と言うよりも、どちらかと言うとすごくすごく遠い人、に思えた。

だから、もちろんどちらとも、まともに口を利いたこともなかったし、名前だって口にしたことはなかった。
―――いや、一度だけ弟の方とは会話を交わしたことがある。
でも本当に一度だけ、ほんの一言二言だったし、私の名前を知ってるとも思わなかった。
当然、憶えてるとも思わない。



私の中で記憶が繋がったことが見て取れたのだろうか、目の前の「高橋啓介」は、ちょっとほっとしたように笑った。
席を外そうと立ち上がりかけた女の子に、「すぐ行くから」と手で制する。
タイミングよく後ろから「高橋!」と呼ぶ男の人の声。

、だよな?」

今さらながら不安そうに眉をひそめる。
その様子が可笑しくて、私は小さく笑ってしまった。

「・・・うん。ええと、ここには三年次編入で入ったの。」
「ああ―――なるほどね。じゃあ一応先輩なワケだ。」

再び名前を呼ぶ男の人を降り返って「今行く!」と手を上げる。
と同時にポケットから携帯を取り出した。

「今度飲みにでも行こうぜ。携帯番号教えてよ。」

飲みに―――って、未成年じゃないの。
そんなことは後で気付いた。
その時は、こちらにお構いなしに新規登録か何かしようとしてるのかボタンを操作してる彼を呆然と見上げるだけ。
私たちって、そんなに親しかったんだろうか?
もしかして、自分の知らない自分がいて、その彼女はこの人と仲が良かったんだろうか?
そんな馬鹿なことを考えてしまうくらい、目の前の彼はごくごく自然に話しかけて、笑う。

「あの、人違い、じゃないよね?」

私を間違えているのか、私が間違えているのか、それはよく分からなかったけど、やっぱり心配になって聞いてしまった。
何だか、頭が、と言うか、心が、うまくついて行けていない。
昔見たこともない表情をする彼。
「遠かった世界の彼」にグイグイと引っ張られるけど、私はその距離をなかなか縮めることが出来ない。

携帯から目を上げ、私の台詞にちょっと不機嫌そうな顔をする。
目を細めて、怒ったような少し低い声で、彼は半ばヤケクソな感じで言った。

「俺の知ってる『 』ってのは、T高校で三年のときニ組だったヤツだよ。
卒業式の朝に『がんばれよ』って言ったら『うん』としか返事しねぇで、逃げるように行っちまった失礼なヤツ。」
「―――なんで・・・」

何でそんなこと、憶えてるの?
すっかり記憶から抜け落ちていた思い出が、その彼の言葉で瞬時に甦る。
卒業式が始まる数分前。
私の顔を見て驚いたような顔をした彼。
まだ蕾だった桜。
私は言いようもない気まずさを覚えて俯いた。
それとは逆に、自分の言葉で当時の情景を思い出してしまったらしい彼は、さらに不機嫌さを増していく。

「おーい、高橋ー!」
「っせーな!今行くっつってんだろうが!!」

そのとばっちりを受けたのは、また名前を呼んだ友達だった。
でも大きな声を出すことでちょっと落ち着いたのか、彼はふうと息を吐き、私をじっと見下ろす。

「携帯の番号―――教えるよな。」

さっきまでとは違う、ちょっと威圧的な口調と表情。
でもあまり不快に感じず、つい、それに素直に従ってしまったのは、あの当時の後ろめたさからなのか。
ただ単に、自分が教えたかっただけなのか。

携帯の番号くらい教えても、別に連絡なんてないかもしれない。
友達のいる方へと戻って行く彼の背中を見ながら、往生際悪くそんなことを思った。