caress 10




階段を降りているとき、鞄の中の携帯が鳴った。
涼介くんからの、メールだった。

私が立ち止まり内容を見ようとすると、数段前を歩いていた啓介くんも戻ってきて私の後ろに回りこもうとした。
反射的に隠そうとする私に「どうせアニキだろ?」と、当然メールが来ることを予測していたかのように笑みを浮かべる。
そして案の定涼介くんからのメールだったことを知ると、ひょいと私の携帯を取り上げた。

「ちょ、ちょっと啓介くん!?」

私から逃れるように階段を駆け下り、携帯のボタンを押して自分の耳に当てる。
どこにかけたか、なんて、聞くまでもない。
私は慌てて取り返そうとしたけれど、啓介くんは「出ねぇな」なんて言ってお構いなし。

「あ、アニキ?ちょっと連絡して来んの遅すぎだよ!え?何で俺が・・・って、だって、今俺、と一緒だし。」

私の番号でかかって来たのに啓介くんの声がして、涼介くんは驚いているんだろう。
―――って言うか、本当に電話しちゃったの!?

「ほんっと、アニキってこいつのことになると、普段の行動力の100分の1くらいになっちまってない?」
「ちょっと啓介くん、ホントに返して!」
「あと10分遅かったら、、俺に襲われてたね。」
「そんなわけないでしょっ!」

一体電話の向こうで涼介くんがどんな反応をしているのか。
考えるのは、ちょっと怖い。
その怖さを紛らわすために、私は必死に啓介くんの腕にしがみつき、携帯を奪い返そうとする。

「アニキ、今どこにいんの?―――まだそんなトコにいんのかよ?―――ふぅぅん。」

壁に寄りかかって天井を仰ぎ、不満そうに口を尖らせる。
でも目は何となく笑っているから、予想していた返事だったんだろうか。
まだ、って、一体どこにいるんだろう?

「ま、いっか。じゃあそこにいてよ。今から送り届けるから。」
「―――え?」
「だってアニキまだ終わってないんでしょ?行き違いになったらマズイし。じゃあな!」

そう言ってさっさと携帯を切ってしまった。
・・・私のなのに。
「ほら」と返された携帯を握り締めて目の前の啓介くんをジトリと睨むけれど、相変わらず彼には効果がない。

「じゃ、行くか。」
「どこへ?」
「アニキの所に決まってんだろ。」

キュ、キュ、とスニーカーの音をさせながら、どんどん先に階段を降りて行ってしまう。
私は心の準備をする余裕もなく、そんな彼を急いで追いかけた。



「どこに行くの」と聞いても「着いてのお楽しみ」としか答えてくれず、私は啓介くんの車の中で全然落ち着かなくてフロントガラスの向こうに流れる景色を、じっと見つめるばかりだった。
さっき教室の前で会った時見せた、億劫そうな様子なんか今はもう全く窺えず、この前のように楽しげに運転する。
本当に車が好きなんだな―――なんて、こんなときに感心している場合じゃない。
暫くして、国道から一本入った細い道を曲がった。
もしかしたら、と思っていた場所で、止まる。
群大の医学部があるキャンパス。
もちろんその存在は知っていたけれど、医学部も大学病院の方も自分には今まで縁がなくて足を踏み入れたことはなかった。
大学病院って言ったら昼間はきっとすごく混雑するだろう駐車場も、こんな時間では余裕で止められる。
この前のファミレスと同じように、何故か啓介くんは手馴れた様子で車を止め、「じゃ、行くか」と手早くシートベルトを外した。

「どこに・・・?」
「だから、アニキの所だっつってんだろ。しつこいよ、お前。」

そうじゃないでしょ。
わざと的外れな回答をして自分はさっさと車から降りてしまう。

「部外者は入っちゃまずいんでしょ?」
「しょうがないじゃん、用があるんだから。往生際悪いぜ。」

涼介くんがどこにいると分かっているのか、私の手をぐいぐい引っ張って、どんどん奥へと進んでいく。
狭い小路を入って、その奥の少し古びた感じの白い建物のドアを開けると、独特の薬品の匂いがした。
廊下は静まり返っているけれど、そこに並ぶドアの向こうには微かな人の気配。
啓介くんは全く憚る様子なく奥へ奥へと進み、その先の階段を昇ろうと、手すりに手をかける。
けど、足は一段目で止まった。

「あれ。こんな所で油売ってていいの?」
「―――お前の騒々しい足音が聞こえたから部屋から出てきたんだ。」

階段を降りてくる足音。
蛍光灯の灯りに照らされた、二週間ぶりの涼介くんの姿。
私はちゃんと見ることが出来なくて目を伏せた。

「はい、これ、差し入れな。」

けれど啓介くんはまたお構いなしにぐいと私の手を引っ張って、彼の前に立たせた。
どうしよう?と慌てても、今さらどうすることも出来ない。
鞄の取っ手をぎゅ、と握り締めて恐る恐る彼を見上げた。
彼も一瞬視線を揺らがせ、でも私を見て、小さく笑った。

「俺ってすごく気ぃ利くと思わねぇ?」
「多少利き過ぎている気もするけどな。」
「あ、そんなこと言うんだ?それなら持って帰っちゃうぜ?」

啓介くんは私の肩に手をかけて、今来た道を戻ろうとする。
けれど、それは涼介くんの手に阻まれた。
涼介くんに掴まれた腕が、何だか自分の物ではなくなってくる気がして、その先の指の感覚も麻痺するようだ。
頭の中も真っ白になりかけて、目は涼介くんを見上げたはずなのに、その姿をはっきりと捉えられない。

「―――いや、受け取っておくよ。」

その綺麗な低い声も、ボンヤリとしか耳に入ってこなくて、私は、ぎゅ、と唇をかみ締める。
肩を掴んでいた啓介くんの手の力が緩められ、離れていくのを感じたのと同時に、涼介くんの方に身体が引き寄せられた。

「これで一つ貸しな?アニキ。あと今日はに飯奢ってもらう予定だったから、それも一緒に。」

そう言い終らないうちに、啓介くんの足音があっと言う間に遠ざかっていく。
残ったのは、涼介くんの、やれやれと言うようなため息と、私の大きな心臓の音。
いつの間にか、さっき啓介くんの手がかけられていた肩には、涼介くんの手の重みを感じ、私は僅かにも動くことが出来ないまま、去っていく啓介くんの後姿を見つめた。
その姿も、建物の入口のドアを出て見えなくなり、自分の心臓の音ばかりが大きくなっていくように感じる。

「―――あと一時間、部屋にいなきゃいけないんだ。」

手と肩が解放されて―――少し、寂しく感じる。
涼介くんに掴まれていた腕に自分の手を触れて、後ろに立っていた彼を振り返った。
さっきと同じように、少しだけ、また視線を揺らす。

「当番があって、次の人とは8時に引継ぎなんだ。それまで待ってて貰っていい?飯も、まだなんだろ。」
「・・・う、ん。」
「じゃあ、おいで。部屋には俺以外誰もいないから。」



部屋のドアを開けると薬品らしき匂いが一層強くなって、その馴染みのないものに私の緊張もさらに増して行く。
「適当に座っていいよ」と言われて一瞬きょろきょろしてしまったけれど、ドアのすぐ傍にあったパイプ椅子に腰を下ろした。
昔高校や中学にあった化学室とちょっと雰囲気が似ているようで―――違うような。
落ち着かなくて、膝の上に置いた鞄をぎゅっと掴んだまま部屋を見回してしまう。

「そんなに固くならなくても大丈夫だよ。暫く誰も来ないから。」

少し離れた所にある白いテーブルに寄りかかり、涼介くんがこちらを見てクスクスと笑う。
誰も来ない、と言うことが逆に緊張する原因で、きっと彼にはそんなことは分かっているはずなのに。
でもそんなことは口にせず、私は話を逸らそうとした。

「こんな遅くまで大学にいなきゃいけないなんて、大変だね。」
「ああ―――そうしょっちゅうあるわけじゃないんだ。今日はたまたま、くじ運が悪くてね。」
「く、じ?」
「そう。今日は早く帰りたかったんだけど。・・・に会いたかったから。」

逸らそうと思ったのに、結局話題は自分がなるべく触れたくなかった方向へ。
思わず、あからさまに彼から目を逸らすと、また、小さな笑い声が部屋に響いた。

耳を澄ますと、結構色々な音が聞こえてくる。
小さなモーターのような音、コポコポと言う水の音、涼介くんの後ろの方にある蛍光灯のジジ・・・と言う音。
一度耳に入ってきたそれが消えて行かないように、目を閉じる。
涼介くんの声が、聞こえないように。
さっき啓介くんにあんな風に怒られておきながら、私はまだ、自分や涼介くんの本当の気持ちとか、そう言うものに触れるのが怖かった。

「―――あいつは、よく、生徒会室に出入りしてたんだ。行事があるたびによく実行委員とか任されていたしな。」

涼介くんがゆっくり話し始める。
「あいつ」が坂井くんのことを指しているって言うのは、実行委員って言葉で分かった。
確かに彼は色々イベントがあると、そのたびによくそう言うものをやっていた。
一度引き受けたらその後もずるずる色んなのを引き受けさせられるようになったと、うんざりしたような口調では言ってたけれど、もともとそう言うことが好きだったんだろう。
―――でも、そうか。そんな所に接点があったのは知らなかった。

「最初は『二組のってどう思う?』なんて散々言っていたと思ったら、いつの間にか惚気話に変わってた。今度一緒に映画を観に行くんだとか、海に行くんだとか、こっちが聞いてもいないのにベラベラと喋ってくる。」

そのときのことを思い出したのか、涼介くんは手を前で組んだまま、やれやれと言った感じに肩を竦めた。
そんな話がまさか全部涼介くんに筒抜けだったなんて―――予想もしていなかった。
恥ずかしくて、鞄の上の拳に、ますます力が入ってしまう。

「当然そんな話、面白くも可笑しくもないから適当に聞き流してたんだ。でも二年のとき偶然廊下でを見かけて―――そのとき、何故かふと、あの坂井があんなに惚気るなんて一体どんな子なんだろう、と思ったんだ。それから、気が付くとその姿を探してた。」

もちろん、クラスも離れていたし、部活や委員会も違ったからそんなに見つけられなかったけどね。
そう言って笑うと、窓際にあったパソコンの方へ行き、キーボードを叩いた。
その音はすぐに止んだけれど、涼介くんはそこから動かず、こちらに背中を向けたまま。

ってすぐ顔に出るんだよな。嫌なときはすごく嫌そうな顔するし、興味ない話聞いているときは物凄くつまらなそうな顔してて、見てるこっちが思わず笑いたくなっちまうし―――嬉しそうなときは本当に嬉しそうに笑う。
そんな見てて、どんどん引き込まれて、自分は何も行動しちゃいないくせに、坂井が憎らしくなる。
何だか、その辺の女の子がしてるような独りよがりの片想いと何ら変わらなくて、自分でも変だと思ったよ。」

私は、まるで他人の話を聞いているようで、俄かには信じられなかった。
その後姿だけでも十分他の人とは違って見えるような彼が、こんな自分を見ていた、なんて。
しかも自分の全然知らないところで。
涼介くん自身も言ったように、そんな彼は彼らしくないようにも思う。
そんな見えないところで何かをしたりせずに、いつも自信満々でいそうなのに。
もしそれがハッタリだとしても、でも、少なくとも、もっと表立って行動に移すような気がする。

「―――そんなの、全然気付かなかった。」
「だろうな。こんな見っともない俺を知ってたのは、史浩と啓介くらいだ。」
「何でそんな・・・どうして実際に声をかけたりとか、してくれなかったの。」

当時別世界の人なんて思っていた涼介くんに声をかけれたとしても、きっとパニックになってたんじゃないだろうか。
自分でもそうは思ったけれど、でも聞かずにはいられなかった。
涼介くんは、ふうと息を吐き出して、ゆっくりと、こちらを振り返った。

「そんなことをしたら、もう、抑えが効かないと思ったから。」
「抑え・・・?」
「たぶん、俺はが欲しくなる。一度行動に移せば、友達の彼女だとか、そんなことは頭から消えると思った。
別に坂井と友情を保ちたかったから、とか、空々しい理由をつけるつもりはない。
ただ、そんなドロドロした自分自身を見たくなかったと言うのが正直なところだ。
だから、卒業まで出来るだけ距離を置くようにしたんだ。そんなの、自分でも偽善者だと思ったし、啓介にも散々言われたけどな。
高校生くらいの恋愛感情なんて、それでいつか消えると思った。実際に消えたと思っていたよ、啓介が余計なことをするまでは。」

涼介くんは一瞬腕時計を見て、それからパソコンの乗っていた机に寄りかかる。

「最初ファミレスでを見たときは、それは驚いたけど―――でも、もう大丈夫だと思ったんだ。
隣りに座っても、声を間近で聞いても、自分は思ったより冷静で、二年の歳月って言うのはこう言うもんだと改めて思った。
案外すごく近くで接したら幻想が崩れるかもしれないなんて、身勝手なことも考えていた。」
「あの、ファミレスで?」
「ああ、嫌なヤツだろ。」

―――でも、私も、実際涼介くんを間近で見たら、変な幻想は崩れ去った。
私のそれはいい意味ではあるけれど。

「確かに『幻想』は崩れたかもしれない。でも―――だめだった。やたら嬉しくなってる自分がいるんだ。我ながら恥ずかしくなるくらい浮き足立ってて、啓介や史浩にはバレてるんだろうと分かっているのに、抑えることが出来なくて。また会う口実を作るためにわざとらしくデータ入力まで手伝ってもらって。」

前髪を乱暴にかき上げ、目を伏せる。
―――何だか、こんな風に自分の気持ちを話してくれる涼介くんと言うのは、とても意外な感じがした。
恥ずかしそうに目を逸らして、頬はうっすらと赤いがする。
そう言う彼が、すごく近く感じて―――可愛いと思った。
そんな、全然、「可愛い」と言う単語が似合うような容姿はしていないはずなんだけど。

「でも・・・何でだろうな。思ったように行動することが出来なかった。高校時代にずっと抑制して来たせいかな。
啓介に発破かけられて、漸くこんな、恥ずかしい告白が出来たよ。」
「・・・別に、恥ずかしくなんか、ないよ。」


涼介くんに好きだと思われてて―――嫌だと思う人はいるんだろうか。


さっき、思ったこと。
でも、今は、嬉しいとか何とか、そんな言葉で表せるような感情じゃなくて、とにかく、ただただ、涼介くんを見上げるしか出来ない。

顔を上げた涼介くんと目が合って、心臓が、一瞬止まりそうになる。
ううん、もう止まってるんじゃないかと思うくらい、全身の感覚が麻痺しているよう。
涼介くんが私の方へ近付いてきても、体を動かすことが出来ない。

は―――俺のことは殆ど知らないよな。」
「涼介くんだって、きっと、私のこと知らないよ。」
「・・・そうだな。」

遠くから見ていても、眺めていても、一緒にいなきゃ、話をしなきゃ、きっと何も知ることなんて出来ない。
一緒にいたいと思う。
話をしたいと思う。
涼介くんのしてくれた話を聞いて、嬉しい―――って言うより、何となく、ちょっとくすぐったいような、恥ずかしいような気がしたけれど。
それより何より、もっと、涼介くんのことを知りたいと、思った。

涼介くんは、私のすぐ目の前で足を止め、戸惑っているように目を伏せる。
そして照れ隠しとも取れるような小さな笑みに、今まで麻痺しているように思えた全身に感覚が戻っていく気がした。
椅子から立ち上がる。
そんな私に気付き顔を上げようとする涼介くんの腕を軽く掴んで、その口の端に、キスした。

思っても見なかった私の行動に目を見開き、涼介くんは私が触れた口の端を指で押さえた。
私だって―――自分に、こんなこと出来るとは思ってなかった。
けれど、無性に、彼に触れたくなってしまったのだ。
それがいきなりキス、と言うのは、確かに、ちょっとどうなんだろう・・・とも思うけれど。

「ご、ごめんっなさいっ!」
「・・・何で、してきたの方がうろたえてるんだよ。」

彼の腕を放した途端、ますます自分の行動が唐突で恥ずかしく思えてきた私は、一気に顔が熱くなった。
そんな私の様子に、逆に涼介くんの方は余裕を取り戻したんだろうか。
私の顔を見てちょっと笑い―――口の端に触れていた指を、舐めた。

それは、新手のいじめだろうか。
そんな彼の仕草にますます自分が恥ずかしくなる。穴があったら入りたいって、こう言うこと。
でも穴なんてないから、思わず部屋から出ようとする。
もちろん、そんな行動は彼の腕で阻まれてしまったけれど。

って、案外大胆な行動するんだな。」
「そ、そんなことないよっ。」
「これくらいはにとって大胆じゃないってことか。・・・まあ、こう言う誤算は大歓迎だけどな。」

手をばたつかせる私の動きなんてものともせず、涼介くんは壁際にあった細長い机に私を座らせた。
後ろの壁に手をついて、まるで膝を割るように脚を押し付ける。
思い切り肩をすぼませる私の耳元に届いた涼介くんの声は、今まで聞いたことのないような低音。

が先にしたんだろ。」

非難、と言うよりは楽しげに囁く。
ついさっきのあの余裕のなさそうな恥ずかしそうな涼介くんはどこへ行ったの?

「・・・人が、来るんでしょう。」
「あと30分は来ないよ。」
「そんな・・・っ」

結局、私の反論はあっさりと封じられてしまった。