caress 9




二週間、何も変わらない生活が続いた。
大学へ行って、バイトへ行って、普段どおりの生活。
時たま啓介くんと大学ですれ違っては、一言二言交わす。
涼介くんとは、連絡を取らなかった。
彼からも、特に連絡はない。

会いたくないわけじゃない―――寧ろ、またあの笑顔を見たい、と、気が付くといつも思ってる。
この前まで全く自分の生活とは関わりのない人だったのに、一度、少し知ってしまうと、もっと知りたくなってしまう。
―――もっと一緒にいたくなってしまう。
贅沢で、勝手だ、と自分でも思う。

そんな風に彼のことを考えない日はないくらいだったけれど、でも、メールを送ることさえも出来なかった。
送る口実が何もない、と言うのが一番の理由。
そして、この前の最後の台詞。
一体どう言う意味なのか、知りたい―――けど、知りたくない、ような。



週の終わり、その日最後の授業を終えて教室を出ると、そこに啓介くんが立っていた。
だるそうに壁に寄りかかり、私に気が付いて上げた手もまだだるそう。
学生が皆教室から出て廊下が落ち着くと、彼は壁から体を起こし、私もそんな彼の方へと近付く。

「なかなか出て来ねぇから、教室間違ったかと思った。」

ふ、と口の端を上げる動作も、いつもより何となく、けだるそうに見える。
ポケットに手を入れたまま、私を見下ろす目も。

「どうか、したの?」

私は不安になって眉根を寄せつつ彼を見上げたけれど、彼は冗談みたいな理由しか言ってくれなかった。

「ん、腹減ったな、と思って。」
「はら?」
「飯でも食いに行かない?今日もバイト?」
「ううん・・・今日はないけど。」

飯を食いに、と言っておきながら、さっき私が出てきた教室へと入っていってしまう啓介くん。
一体、どうしちゃったんだろう?
いつものあの明るい笑顔をどこかに置いてきてしまった様な彼に戸惑いながら、私も後について教室へと戻った。
もう日が翳っているうえに、この教室は夕陽の光が入ってくる場所にないので、さらに薄暗い。
さっきまでは講義が行われていたから照明が点いていたけれど、最後に出た人が消してしまったらしい。
窓の背に立つ啓介くんは、まだ目が慣れていない私には、何とか輪郭が分かる程度だった。

「―――なんかさぁ・・・まどろっこしくなっちまって。」
「・・・え?」

教室に二歩三歩入ったところで立ち止まる。
白い蛍光灯の光がチカチカと点る廊下は、しんとしていた。
廊下だけじゃなく、この建物にはもう二人しか残っていないかのように、物音一つ響かない。
少し耳をすませば、啓介くんの呼吸さえ聞き取れそうなくらいに。
立ったまま足を交差する啓介くんの、服の擦れる音がする。

「アニキとは連絡取ってる?」

さっきまでより幾分明るい調子の声。
私は少しほっとしながらも、その質問の内容にどう答えるべきかよく分からなくて、すぐに口が開かなかった。
そんな私の反応なんか予想済みであるかのような、小さな笑い声。

「もう別にアニキとは会いたいと思わねぇ?」

そうじゃない。
その問いにはすぐに頭を横に振った。
そして、ふと頭に浮かんだ疑問を口にする。

「―――なんで、そんなに涼介くんのことにこだわるの?」

だって、いくら仲のいい兄弟って言っても、そんなお互いの交友関係にまで首を突っ込むものだろうか。
確かに啓介くんのおかげで、また涼介くんと会うことが出来た。
普通の彼である一面を見ることが出来た。
でも、だからって、啓介くんに何か言われなきゃいけないんだろうか?
そんなことを考えていると、だんだんと腹立たしさまで覚えてきた。

「まあ、別にアニキのことだけにこだわってるってわけじゃないんだけどさ―――脈はないのかと思って。」

何言ってるのか分からないよ。
私はまた首を振る。さっきよりも強く。

「そう言うこと、言わないで。」
「なんで?」
「・・・勘違いしそうになる。」

この前の別れ際の涼介くんの台詞も、考えれば考えるほど都合のよい方向に解釈したくなる。
そんな自分が嫌で、彼自身からもなるべく避けていた、と言うのが本音だった。
涼介くんと私の接点は、自分が知っている限りでは、昔付き合っていた坂井くんだけで、でもその彼は惚気話ばかりしてたって言う。
そんな話ばかりを聞かされていた涼介くんが―――そんなこと、あるわけがない。
ほんの少しまで、いや、今も、昔同じ高校に通っていたと言うだけの人のはず。
それなのに、何でそんなことを言うの。

私は啓介くんを見ることが出来ず、俯いたまま。
今度は小さな笑い声、と言うよりはため息に近い声が聞こえてくる。

「いいよ、勘違いして。・・・て言うか、それ、たぶん勘違いじゃないから。」

何で、そんなこと、言うの。
私はもう、首を横に振ることしかできない人形のようだった。
そんな私の方へと、近付いてくる足音。
出来れば、逃げ出したい。
けど、少しでも動けば逆に崩れ落ちそうで怖くなった。

「俺はさ、高校生の時のアニキを、ずっと見てきたから。」

啓介くんは私のすぐ前で止まり、そのすぐ横の椅子の背もたれに腰掛けた。
そして「あの頃は俺も馬鹿ばっかりやってたけど、アニキとは結構一緒にいたんだよ。」と言って、ちょっと自嘲的な笑い。

「で、何もないまま卒業式迎えちまったじゃん?おいおい、これでいいのかよ?って思わずお前に声かけちまったけど・・・結局どうしようもなかった。何つーか・・・大したことじゃないんだけどさ、ずっと気にかかってて。こう、胸ん中つかえてて。ここの食堂で見つけたときは、もう反射的に名前が口から出ちまった。」

私はまだ俯いたままで、じっとしていた。呼吸をするのも憚るように。

「―――でも、アニキに会わせようかどうしようか、ちょっと、迷ったけどな。だけど、アニキに会わせて、さっさとくっ付いちまうんだったら、それはそれでいいかとも思った。」

膝の上で組んだ手が見える。
昔の名残り、なのか、どこか節くれ立った指。
薄暗がりの中で時折動くその手を、ぼんやりと眺めてしまう。

「顔、上げろよ。」

静かに言う彼の台詞に一瞬ぴくりとしてしまいながらも、やっぱりまだ顔は上げることが出来なかった。
その代わり、と言うのも変だけど、何とか声を絞り出す。

「―――理由が、ないよ。」
「理由?」
「涼介くんが―――そんな風に私を見る理由・・・。」
「そんなもん知りたいの?」

くだらないとばかりに笑い飛ばされる。
そうだろうか?
そんなに理由を知りたいと思うことは、おかしいことなの?
反論しようと思って顔を上げようとする。
けど、それより先に啓介くんの手で強引に上げさせられた。

「―――好きってだけじゃ、だめなわけ?」

覗き込むようにしてくる啓介くんの顔が、今までにないくらいすぐ近くにあって、息もかかりそうな位置で、体が強張る。
苛立たしげに感じた声とは裏腹に、その目にはそんな感情は全く浮かんでいなくて、優しげにさえ見える。
でも、どこか、逃がさない―――強い視線。

「かったるいこと、してんなよ。」

それは、私に向けた台詞なんだろうか。
それとも、今、ここにはいない人物にだろうか。
顎を掴んでいた手の力が少し緩められる。
その隙に彼から逃れようと思ったのに、うまく体は動かなくて、結局、彼を見上げたまま。

「じゃあ、俺の方が勘違い、していい?」
「―――え・・・?」

さらに近付いてくる啓介くんの息。
自分の髪が耳元でさらりと揺れる音。
首に触れる啓介くんの指。
鼻先が触れ合っても、私は指一本動かすことが出来ない。
目を閉じて視界を閉ざすことも。

「逃げないの?」

だって、逃げられない。
唇に触れたのが、啓介くんの息なのか唇なのか、それさえも分からない距離。
この期に及んで、私はまだ、体も頭も現実について行っていないんだろうか。
そんな馬鹿げた自分が、だんだん悲しくなってくる。

啓介くんは一旦姿勢を直して私を見下ろし、そして、ため息のような笑いを漏らして、キスした。
一瞬、頬に。

「そんな顔すんなって。本気でしたくなっちゃうじゃん。」

いつもの、明るい声に戻って、そう言う。
ぽんと軽く私の頭を叩く仕草は、今までの雰囲気を無理矢理振り払うように見えた。

「それとも、本当にしていい?」

慌ててぶんぶんと首を横に振ると、「今日のお前は首振ってばっかだな!」と笑われた。
私は目がジンワリと熱くなる。
いつもの啓介くんに戻ったことへの安堵もあるけど―――何も出来ない、はっきりしない自分への悔しさも、あったかもしれない。
でも、本当に、よく分からない。
自分のことも、涼介くんのことも。啓介くんのことも。

「あのさ、勘違いしそうになったってことは、アニキが自分を好きかもしれないって考えたんだろ?」

また椅子に寄りかかって、ちょっと体を傾ける。
確かに、その通りだったんだけど、何だか恥ずかしくてちゃんと頷くことも出来なかった。

「そんときさ、どう思った?」
「・・・どうって・・・?」
「いやだと思った?嬉しいと思った?どうでもいいと思った?」

―――涼介くんに好きだと思われたとして、嫌だと思う人がいるんだろうか?
返事をするまでもなく、私の顔を見て答えが分かったのか、啓介くんが目を細めて笑い、腕を組む。

「それだけで、いいんじゃねぇの。理由なんて、どうでもいいじゃん。」
「でも―――私はまだ『好き』って言えるほど涼介くんのこと知らないし・・・」
「別に最初は知らなくてもいいっつうの!じゃあ、お前坂井とか言う奴と付き合うとき、そいつのことよく知ってたのかよ?」
「・・・知らなかった・・・けど・・・。」

よく知らない、と言う理由で初め断ったくらいだ。
―――それでも、2年以上続いて―――最後は、やっぱり、つらかった。

「とりあえず何かやんなきゃ、何も進まねぇじゃん、アニキも、お前もさぁ。そうやって理由がないとか、やっぱり俺は駄目かもしれないとか訳分かんない後ろ向きなことばっか言ってたら、中途半端なまんまグズグズと時間ばっかり経っちまうんだぜ?」

嘆かわしい、とでも言いたげに肩を竦める啓介くん。
「ほんと、見ててまどろっこしいんだよな!」とじとりと睨んでくる。
何だか、自分が、悪いことをした子供か何かのように思えてくる。

「まあちょっとアニキは普通じゃねぇし!もしついて行けないと思ったら、そんときは俺にすればいいじゃん!」
「え・・・」
「別に今すぐ俺にしてもいいぜ?俺といて楽しくない?もっと俺のこと知りたいと思わねぇ?」
「え・・・?」

さっきみたいに静かににじり寄ると言う感じではなくて、矢継ぎ早に言葉を浴びせてどんどん詰め寄ってくる。
髪を掴み、また顔を覗き込むように体を屈めて来るけれども、今度はちゃんと目を見ることが出来た。

「俺のことは勘違いしなかったのかよ?」
「そ、そんなこと、考えたことないよ!」

そして何故か今回は即答できた。
何でだろう?啓介くんの口調につられたのかもしれない。

「お前、速攻で答えるなよ!少しは焦らせよ!!」
「な、何でよ!」
「うっそ・・・俺、結構今回頑張ってたと思ったんだけど。そんなに俺って魅力ねぇのかな・・・。」
「そ、そう言うことじゃないでしょ。」
「じゃあ、少しはドキドキした?」
「・・・うん。」
「・・・目ぇ見て言えよ。」

叩かれた頭がさっきより痛いと思ったら、今度は拳。
でも抗議する隙もなく、啓介くんは机に置いていた鞄を肩にかけてさっさとドアの方へと歩いていってしまった。

「今日の飲みはのおごりな。」
「ただのご飯じゃなかったの?」
「俺様は傷心だから酒飲みたいんだよっ。」

そう言ってまた拳を上げる。
「女の子に手を上げるってどうなの?」って、頭を押さえながら言ったけど、でも、そうやって乱暴なくらいに振舞うことで変な気を使わせないようにしていることくらいは、分かった。



啓介くんが自分を好きだったら―――
嫌だと思う人がいるんだろうか?

「ドキドキは―――したよ。」

先を歩いて行ってしまう彼に聞こえないくらいの小さい声で言ったのも、本音。