caress 2




まるでバイトが終わったのを見計らったように、携帯が鳴った。
手に取った上着を、とりあえず近くにあった椅子の背もたれにかけて、まだロッカーに残っていた鞄から携帯を取り出す。
ディスプレイに表示されていたのは、数時間前に登録したばかりの名前。
早く出ろとばかりに、ライトが点滅する。

まさかこんなに早くかかってくるとは思っても見なくて、心の準備も何も出来ていなかった私は思わず携帯から目を離して、ロッカールームをぐるりと見渡した。
でも呼出音が喧しいくらいに響いているだけで、自分以外は誰もいない。
それは見渡す前から分かっていたんだけど―――。
呼出音の鳴った回数に比例して自分の心臓の音が大きくなっていく気がする。
これ以上大きくなったら爆発する。
そんなばかなことを思って、音を止めたい一心で通話ボタンを押した。

?今だいじょうぶ?」
「・・・うん。」

自分の声が掠れてしまって、慌てて咳払いをする。
でも喉は何となく渇いたままだ。
高橋くんの声は昼間より低く感じた。
携帯のせいだろうか。

「そっか。」

と返す彼の口調はとても柔らかくて、やっぱり、違う人なんじゃないだろうか、なんて、まだ考える。

「あのさ、善は急げ、でさ。今日どうかと思ったんだけど。」
「え?」
「だから。飲みに行くって話。」
「え!?」

あまりに唐突な台詞に、私は呆然とした。
嬉しさ、困惑、少しの腹立たしさ。
そんなものが、ごちゃ混ぜになって頭の中をグルグル回って、言葉が全然見つからない。

「なに?ダメなの?」

意外そうな、高めのトーン。
それは、急にこんな夜に電話して来て今日飲みに行こうと言って、「いいよ」と返事する方が珍しいんじゃないだろうか?

「今、何してんの?」
「バイトが終わったところ・・」
「ふーん。じゃあ迎えに行くよ。」
「え!ちょ、ちょっと待って!今日は無理だよ!」

さっさと通話を切ってしまいそうな勢いの彼を、慌てて止める。
すると、また意外そうな、ちょっと訝しげな声。

「門限でもあるとか?」
「そうじゃなくて・・・バイトで疲れてるし。」
「ババくせぇなー。」

電話の向こうでケタケタと可笑しそうに笑う声。
ババくさいって―――随分失礼だな。
でも普通の友達に話しかけるような雰囲気で、怒る気も失せて、私は苦笑い。
本来、馴れ馴れしいのとか得意じゃないはずなんだけど、全然不快に感じないのは何故なんだろう。

「じゃあ明日は?」
「明日?」

これもまた急だな、と思ったけれど、別に明日はバイトもないし特に他の用事も入っていない。
何でそんなに急ぐんだろう?
ちょっと不思議に思ったけれど、別に彼にとってはこれは「急なこと」ではないのかもしれない。
私も、少しだけ彼と話をしてみたくなって来た。
善は急げ、か。





待ち合わせ場所のコーヒーショップには、私の方が先に着いた。
ガラス越しに店内を覗いたけれど、それらしい姿は見当たらない。
私は何となくほっとして中に入り、カフェラテを注文した。
すぐに手渡されたカップを手にして、入口近くのカウンタ席に腰を下ろす。

夕暮れ時のコーヒーショップは、どことなく忙しない。
会社帰りの人達が待ち合わせに使ったり、時間を潰したりすることが多いのだろうか。
コーヒーを味わうと言うよりはスケジュールの繋ぎに使っているような感じで、時計を気にする人も多い。
そういう私も、同じように落ち着かなくて、さっきからカップに口を付けては離し、お店の入口ばかり気にしている。
いつも鞄に入っている文庫本を取り出して開いたけれど、目は文字の上を滑るだけで全然中に届いてこない。
目の前にあるガラスに自分の姿がうっすらと映る。
おかしなところはないだろうか。
ここに来る前に駅前のデパートのトイレで嫌と言うほど鏡を見たのに、また確認してしまう。

―――まるで、デートの待ち合わせか何かのようだ。
前髪をつまみ、ふと、そんなことを思って、自分が可笑しくなった。
デートも何もないだろう。
相手は今まで全然遠い所にいた人で、今日二年ぶりに再会したと言っても当時だって会話どころか、まともに顔をあわせたことも、廊下とかですれ違うことさえもなかったのに。
何でこんな展開になったのかもまだよく分からない。
「同じ高校」と言う共通点に、何か懐かしさでも覚えたのだろうか。
でも、私は彼とその「懐かしさ」を共有できるほどの何かを持っているんだろうか?



「早いじゃん」



今まで散々入口の方を見ていたくせに、彼がすぐ後ろに来るまで全然気が付かなかった。
ビックリして顔を上げれば、私の隣りの椅子を引く彼の姿がガラスに映っている。
そこにドサリと少し乱暴な感じで腰を下ろすと、煙草とコロンの入り混じった匂いが微かに届いた。
「結構早く着いたと思ったんだけど」と手に持っていた携帯を開いて、またすぐに閉じ、テーブルの上に置く。

「思ったより講義が早く終わっちゃったから。」
「そうなの?なら連絡くれればよかったのに。」

肩を竦める高橋くんは、すぐ目の前にいるのに、何となく、スクリーンでも隔てて見ているような変な感じがした。
彼の香りが分かるくらい近くにいるのに、まだ現実感がない。
私の頭はどうも融通が利かない。
気付かれないように小さく首を振り、全く読み進めることが出来なかった文庫本を鞄に戻した。



「えーと、とりあえず、再会に乾杯・・・ってとこかな。」

未成年じゃないの?と言う私の台詞なんて全く無視して、高橋くんはビールを二つ注文した。
三方がベージュの壁に囲まれて薄暗い店内。
その弱い照明のおかげで向かい合わせに座った高橋くんの顔がはっきり見えないせいだろうか、私はだんだんいつもの自分、と言うか、余裕みたいなものを取り戻してきた。

「再会って言うほど、昔も会ってないと思うけどね。」

私が苦笑いしながらそう言うと、彼はすかさず言い返してくる。

「だから、とりあえずって言ったろ!」

口を尖らせて私を睨み、一気にビールを飲み干す。
「随分飲み慣れてるね」って呆れたけど、またそんな私の台詞は無視で、おかわりを注文する。
何だか、目の前にいる高橋くんは、本当に普通の男の子、と言う感じだった。
まあ、見た目なんかは、その辺にいる男の子とはかけ離れているのだけど、仕草とか口調とか。
二年前だってそんなに知っていたわけではないけれど、いわゆる「不良」って感じだったし、見た目とか目つきとか、怖いと言うか、世の中のもの全てが嫌いって言うようなオーラを発していて、何て言うか―――つらそうだった。
でも今の彼にはあまりそういうものを感じない。
なんて、まだ、ほんの数分しか向かい合っていないのだから、偉そうなことは言えないけど。

「お前さ、俺のこと忘れてただろ。」

お通しに出てきた切干大根をつつきながら、ちらりと私の方を見て言う。
わざとらしく咎めるような声で。

「忘れてたって、だって・・・」
「俺はずーっと憶えてたのになぁ。」

にやりと笑って言うその台詞は冗談だと分かっていたけれど、私は妙に恥ずかしくなって一度テーブルに置いたビールグラスを、すぐまた掴む。

「そんなに卒業式の日の私って失礼だった・・・?」
「ああ、べつにそうじゃなくてさ、何かちょっと気にかかってたって言うか心残りだったって言うか。」

って言っても、俺もすっかり忘れてたんだけどさ。
運ばれてきた新しいビールグラスを、笑いながらまた半分位空けてしまう。

「心残り?」

何か言い忘れたことでもあったんだろうか?
私は首を傾げたけど、「まあいいじゃん」と、ちゃんと答えてはくれなかった。