caress 3




二人になって何か話すことがあるんだろうか。
お店には入る前に散々していたそんな心配は、全く無駄に終わった。
高橋くんは意外にも―――って言ったら失礼かもしれないけど―――よく喋った。
やっと二ヶ月過ぎた大学生活のこととか、この前やった警備員のバイトでムカつくことがあったとか。
そして、つられるように私も結構喋った。
昼間に一緒にいた女の子と話すような、他愛もない内容だけど。

いつの間にかグラスがお猪口に変わっている。
一体どれだけ飲んだんだろう。
こんなにお酒を飲んだのは久しぶりだった。
自分はそんなに弱い方じゃないと思っているけど、さすがに頭がボンヤリして来る。
お店を出るとき、私は全然普通に立ち上がったつもりだったんだけど、高橋くんが「大丈夫かよ?」って呆れたような笑いを浮かべて手を差し出してきた。
「平気」って言ったけど、構わずに私の肘を掴んで体を支えてくれる。
シャツの布越しに高橋くんの手の熱が伝わってくる。
私も結構酔ってると思ったけど、高橋くんも思ったより温かい。
でも顔には全く出ない性質なのか、見た目は飲み始めの頃と殆ど変わっていなかった。

「家どこだっけ?送ってく。」

外に出ると、辺りはすっかり「夜の街」になっていた。
お店に入ったときは、まだどこか夕焼けの名残みたいなものがあって薄明るく、人通りもそれ程多くなかったのに、今はもう空は真っ暗で不自然な光を放つ沢山の照明が通りを煌々と照らしていて、道を歩く人の速度は、お酒のためなのか皆ゆっくり目だった。
私たちも、それに合わせるように、のんびりと歩いた。

「え?いいよ。駅前からバスに乗るし。」
「ふぅん。じゃあ、どっかその辺泊まってく?」

何がどう「じゃあ」なのか分からないけれど、そんな冗談を口にしてポンと私の肩を叩く。
もう一軒行く?くらいの軽い口調で、私は苦笑いするしかない。
そんな私の反応に、「つまんねーの」なんて言って不満そうな表情を浮かべる。

「いっそのこと大マジに受け取って顔赤くするとかさぁ、そうじゃなかったら『いいね』なんて言って悪乗りするとかしてくれりゃぁいいのに。」
「・・・いやだよ。」
「ちぇっ!最初っから冗談だって決め付けてんだろ。」

・・・そうじゃなかったら何だって言うんだろう。
まだ不機嫌そうに口を尖らせている。
そんな顔を、しかもこんなそばで見ることが出来るなんて、昨日まで想像もしていなかった。

「―――高橋くんって・・・変わった?」

昼間に会ったときから、ずっと思ってたけど、何となく言えなかった台詞を口にする。
すると隣りに並んで歩いていた高橋くんの足がピタリと止まった。
ちょっと後ろを振り返るようにして彼の顔を見上げると、「不機嫌」と言うよりも、腹が立ってる、って感じの目つき。

「それってさぁ、普通今聞くことか?もっと前に気付かなかったわけ?」
「え?そうじゃないけど・・・」
「二年ぶりに会って、その辺とか気にならなかったの?全然聞かないけどさ、俺のことなんか興味ない?」
「そう言うことじゃなくて・・・」
「何で今日来たんだよ?」

私の台詞で何かのスイッチでも入ってしまったんだろうか。
さっきまでの人懐こい笑みは消えて、苛立たしげに口を歪めて矢継早に言葉を浴びせてくる。
何でって―――あなたが誘ったんじゃないの。
私はどうしていいか分からなくて、肩にかけた鞄の紐を両手で握り、目の前の高橋くんを見上げる。

ちがう。
誘いなんか、断れたはずだ。

ちょっと―――いや、私にとってはかなり強引な態度。
びっくりはしたけれど別に不快にも感じずにその誘いを受けたのは、私が、高橋くんに、少し、興味を抱いたからだ。

「―――気にはなったけど・・・聞いていいのか、よく分からなくて。でも話がしてみたくて・・・」

だって、まだ、上手く距離が取れない。
ほんの少し前までは本当に遠くて、自分とは全然関わりがなくて。
そんな存在だった人が急にすぐ隣りに立つようになって、私はまだ混乱している。
ほんのちょっと手を伸ばせば実際に触れられるように、「自分」を近付けて行っていいのか分からなくて不安なのだ。

ごめん
そう言うのは、私より高橋くんの方が先だった。

そんなふうに謝られるなんて思わなくて、驚いた私は彼の顔を見ようとしたけれど、彼の手がそれを阻んだ。
片手が、私の頭の後ろに回されて、そのまま彼の肩口に引き寄せられる。
肩におでこが当たって、さっきまで微かだった彼の香りが一層強くなり、私は頭が真っ白に。
鞄の紐を掴んだまま暫く―――と言ってもほんの僅かな間だけど―――そのままの状態で硬直していたけれど、通りの雑踏の音が耳に戻ってきたのと同時に、何とか彼の肩を押し戻すことが出来た。

「ああ―――ごめん、泣くんじゃないかと思ったから―――」

高橋くんの方も、まるで今の状態に漸く気が付いたというようにそう言って、今度は私の頭をぽんぽんと軽く叩いた。
泣くって―――私、そんな顔をしてたんだろうか。
自分の頬に触れても、酔いのせいで熱いと言うことしか分からない。

「俺、ムチャクチャだよなぁ?いきなり自分から誘っといてさ、何で来たのはねぇよな。」

気まずそうに片目を細めてそう言い、また歩き始めた彼は、さっきまでの「よく笑う高橋くん」に戻っていた。
私もほっとして、歩き出す。
そうしたら逆に涙が出そうになって、慌てて片手で拭った。

「・・・自覚してたんだ。」
「あ、やっぱりそう思ってたのかよ?・・・って、そうだよな。でも、何かちょっと嬉しくなっちまったんだよ。」
「なにが?」
「昨日食堂で会ったこととかさ、今日ちゃんと待っててくれたこととか・・・普通に話してくれたこととか。
でもさぁ、一緒にいればいるほど他人行儀って言うの?どことなく距離みたいなの感じてさ、だんだんイラついて来てた。
何も聞かなかったのは、俺のことなんかどうでもいいって思ってんだよな?って、ふと考え出したら、すげームカついた。」
「・・・やっぱりムチャクチャだよ。」
「だよなー。悪かったよ。」

仲直りの握手、とばかりにこちらに手を差し出す。
それがあまりに自然で何てことないことのようだったので、私も自然に繋いでしまった。
大きくて、やっぱりお酒のせいか、温かいと言うよりも熱いくらい。

「そうだよな、お前は俺のことなんか知らないもんな。」
「じゃあ高橋くんは私のことを知ってるって言うの?」
「お前が俺のこと知ってる分よりは、多く知ってると思うけど。」
「私だって・・・少しは、知ってるよ。」
「高橋涼介の弟だとか、問題児だとか、そんなことばっかりだろ?」

その通りなので反論のしようもない。
手を引っ込めようとしたけれど、高橋くんは一層強く握って放してはくれない。

「・・・じゃあ、高橋くんは私の何を知ってるの。」
「ひみつ。」
「何でそんなに変わったの?」
「教えない。」

・・・結局教えてくれないんじゃないの。
今度は私が高橋くんを睨む。
でも彼の方はそんなの全然気にしない様子で、私の方を見て笑ってる。

「アニキのことは憶えてる?」
「・・・教えない。」
「何だよそれ、仕返しのつもり?」

また可笑しそうに笑う。
その笑顔に余裕みたいなものを感じて、私は無性に恥ずかしくなった。
この人はきっと、変わったって言うよりも、大人になったのかもしれない。

「私は―――変わったかな。」
「は?」

もちろん、彼のようにガラリと変わっているはずはないけれど、少しは二年前から成長しているんだろうか。
見た目も、中身も。
突然の私の言葉に、高橋くんが面食らったような顔をする。
そして自分の顎に手をやって、ちょっとの間じっと私を見、小さく笑った。

「まあ、見た目は変わんねーよな。髪は伸びたけど。」

撫でるようにして髪を一房掴み、人差し指にクルリと巻く。
あの頃は鬱陶しいと思って短くしてたっけ。
元に戻ろうと彼の指から放れて撥ねる自分の髪を眺めながらぼんやりと思う。
何で伸ばしたんだっけ?
・・・ああそうか、短大の友達に「伸ばしても似合うんじゃない?」って言われて、何となく伸ばしてみようって気になったんだ。
その後付き合った人も、長い髪が好きだったのか、今の高橋くんみたいによく指にクルクル巻いたりしてたっけ。
ふと、高橋くんの手が、その時の男の子と重なって、一人気まずさを覚えて俯く。

「伸ばしてんの?」

私の顔を覗き込むように見た高橋くんの目が、自分を見透かしているよう―――なんて、考えすぎか。

「今は、別に。何となくそのままにしてるだけ。」
「ふーん。ま、可愛いからいいんじゃない?」
「・・・昔はそんなこと言うタイプには見えなかったよね。」
「ああ、思ったことは素直に言うことにしたんだよ。」

ぬけぬけとそんなことを言う。
そんなものを真に受けるわけじゃないけど、やっぱりどうしても照れくさくなって、大げさなくらい呆れた顔をすることで誤魔化す。

「そう言うのって、単に調子がいいって言うんじゃないの?」
「うわ、お前は素直じゃねーなー。人生損するぜ?」
「あなたに言われたくないよ・・・。」

いつの間にか繁華街を抜け、すぐそこに駅のロータリーが見えてくる。
黒塗りのタクシーが沢山並んでいる所を過ぎれば、そこにバス乗り場がある。
自然と緩んだ高橋くんの手から自分の手をするりと引き抜く。
外の空気に当たってヒンヤリと感じた手が、自分のものじゃないように思えて、意味もなくギュっと握った。

「ああ・・・やっと調子出てきた感じだったのになぁ。」

歩く速度がだんだんゆっくりになって、止まりそうになって―――止まる。
何となく名残惜しく感じるのは、自分も高橋くんと同じように思っているからだろうか。

「ホントにどっか泊まってく?」

・・・それはちょっと同じに思えない。
私が睨むと、「冗談冗談」って笑って肩を叩いた。

「冗談じゃなくてもいいんだけどさ。」
「それも『素直さ』の一種なの?」
「まあそんなトコ。人生損しないために。」

「調子が出てきた」って、何の調子なんだか。
私は大きくため息をついて、ズンズンとバス乗り場へと歩いて行く。
ちょうど自分が乗るバスが止まっていて、最後の一人が乗り込もうとしていた。
立ち止まって振り返る―――までもなく、すぐ後ろに高橋くんが立っていた。

「じゃあ、また連絡するわ。大学でも会うとは思うけどさ。」
「・・・うん。」

おやすみなさい、と小さく言って、急いでバスに乗り込む。
バスを待たせちゃ悪いって言う気持ちももちろんあったけど、その場で高橋くんと向かい合って立ってるのが、何だか気恥ずかしかった。
動き出すバスの中から外を見ると、高橋くんがポケットに両手を掛けたままこっちを見上げていた。

結局何も分からなかったな。

苦笑いしながら、そんな彼に小さく手を振ってみる。
当たり前のように、手を振り返してくれる。
昔の高橋くんだったら、こんなこと、想像もつかないな。
・・・って、こうやって手を振ってる自分も想像つかなかったけど。

何も分からなかった。
けど、それ自体はあんまり問題じゃない気がした。
高橋くんに興味がないって言う意味じゃなくて。