pour vous




いつもの朝と同じ時間に目を覚ました。
日曜と言っても惰眠を貪ることなく、静寂が支配する中、跡部はゆっくりとベッドから起き上がる。

「おはようございます」

まるで起きたのを見計らったかのように、執事が現れる。
そしていつもの挨拶に加えて、今朝はもう一言。

「お誕生日、おめでとうございます」

この屋敷で迎える三回目の誕生日。彼のこの言葉を聞くのも三回目だ。
いつも以上にニコニコと笑う彼に、跡部は小さく礼を言い、運ばれて来た水を一杯飲み干した。

着替えを済ませて部屋の外に出れば、すれ違う使用人たちが朝の挨拶と祝いの言葉をかける。
短く礼を言ったり、笑みだけを返したりしながら、普段通りの颯爽とした足取りで廊下を横切る。
いつもの朝より彼の前に現れる使用人の数が多かったが、跡部は特に気にしなかった。

の部屋の前を通りかかる。
日曜のこの時間、彼女はまだ夢の中なので奥からは物音一つしない。

昨日の夜、自分が一番最初にお祝いするのだと遅くまで起きていようとしたが、跡部はそんな彼女を「無茶をするな」と無理やり寝かせた。
不満そうな顔でベッドに潜っていたが、跡部が見守る中あっという間に寝付いて、すうすうと寝息を立てる彼女がおかしかった。
日付が変わるまでその様子を見ていようかと、ふと思ったが、さすがに女性の寝顔をじっと眺めているのは失礼だろうと、おでこにキスだけ残して部屋を後にして。
そんな、昨夜の光景をふと思い出しながら跡部は笑みを漏らしつつ、そこを通り過ぎる。

跡部は毎朝トレーニングを欠かさない。
それは平日、朝練のある日でもそうだし、誕生日でも変わらない。
まず軽くストレッチをしようと、中庭に出る。
まるで空も彼の誕生日を祝っているかの様に朝から良い天気で日差しは眩しかったが、空気は少しひんやりとして爽やかだった。

ガラス張りの扉を閉めかけた時、一瞬、ピアノの音がポンと鳴ったような気がして、手を止める。
この家でピアノが弾けるのはと祖母だけだ。

母親も昔は弾いていたことがあったらしいが、跡部は今までに聴いたことがないし、第一、今はまだ日本に着いていないはずだ。
両親は仕事の都合でニューヨークに行っていたが、一人息子の誕生日の為に、今は飛行機で日本に向かっているはずだった。
実は父親も子供の頃はほんの少しだけピアノを習っていたらしいが、早々に見切りを付けたらしく、跡部は生まれてから一度も彼が弾いているところを見たことがない。
それに前述の通り、彼もまた母親と一緒に機上の人だ。
祖母のピアノは時々聴く機会はあったが、それはもっぱら離れの古いこじんまりとしたピアノに向かい、母屋のグランドピアノを弾いているところは、見たことがない。

そう、あのグランドピアノを弾くのは、しかいない。
しかし、彼女はまだベッドの中にいるのではなかったか?
使用人が掃除の時に誤って鳴らすと言うことは考えられない。

風が吹く。
それに誘われるように、再びピアノの音色が流れる。
気が付けば、跡部は扉をそのままに、広間へと足が向かっていた。

朝の少し冷たい空気が、その軽やかな音によって優しく温かいものに変わっていく。
数年前の同じ日、跡部はロンドンの家で同じ曲を聴いたことがある。
その時に比べると、曲としては不完全なはずなのだが、音の深みが増して、柔らかく感じた。
廊下ですれ違う人々は、足を止め、広間のピアノに耳を傾ける。
窓の外に目を遣れば、庭師が帽子を脱ぎ目を閉じて広間の方を向いてじっと聴き入っていた。
最近では特に珍しくないのピアノ。
だが、今朝の演奏はいつも以上に優しく――温かい。

開け放たれた扉。
その広い空間の中央で、こちらに背を向ける形でピアノに向かっている
小さな後ろ姿に、跡部は一瞬足を止め、目を細めた。

ドビュッシーの「ピアノのために」。
まだロンドンに暮らしていた時、誕生日の朝に寮から自宅に戻ると、やはりこの音楽が流れていた。
それは、が彼の誕生日のお祝いのために準備していた曲。

「ケイゴのために」

今ではいつも一緒にいて沢山会話もするけれど、まだ向こうに住んでいた時は、それほど頻繁に話をするわけではなかったし、顔を合わせる機会も多かったわけでもない。
その彼女が少し恥ずかしそうにそう言いながら自分の為に演奏をしてくれたことは、彼にとってとても印象深かった。

跡部が部屋に入って来ても、のピアノは流れ続ける。
邪魔をしない様にと壁際のソファに腰を下ろし、目を閉じる。
その一音一音すべてを逃さないかのように、跡部は深く息を吸い込んだ。
軽快で色鮮やかな第一曲が終わる。
跡部が名残惜し気に目を開くと、がこちらを振り返って微笑っていた。

「おはよう、ケイゴ」

以前のロンドンでの演奏を意識してか、軽やかな英語でそう挨拶する。
跡部の口からも自然と英語が出た。

「ああ、おはよう、

は嬉しそうに笑ったまま、ぱたぱたと彼の元に走って来て、その前にしゃがみ込む。

「お誕生日おめでとう」

もう皆に先に言われちゃったかな。
ちょっと眉尻を下げてそう聞いて来るに、跡部は黙ったまま笑って、その頭を撫でた。
実は一番にその言葉を贈って来たのは、もちろんではなく、また先ほどの執事でもない。
昨夜、日付が変わると同時にメールを送って来たのは、忍足だった。

お姫さんとどっちが早かった?

そんな本文からは、あの忍足のいやらしい顔が思い浮かぶ様で、思わず跡部は渋面になった。
お前が一番だ。光栄に思えよ。
そう返した跡部のメールに、忍足も思わず苦笑を漏らしたのだから、お互い様なのかもしれないが。

「ドビュッシーか」
「うん。憶えててくれた?」
「忘れるわけねぇだろうが」

が立ち上がり、再びピアノの前へ。
跡部もそれに続いてピアノの脇に立った。
すると、は何かを思い出したように奥の方へと走り出す。
何事かとその行動を見守っていると、少し離れた所に置かれていた一人掛けの椅子を持ち上げた。
よろよろと危なっかしい足取りでそれを運ぼうとしている彼女の方へ、足早に駆け寄る。
代わりに運ぼうとする跡部の手を、大丈夫と言って頑なに拒み、結局彼女がそれをピアノの椅子の横に置いた。

「今日はケイゴが主役だもの」

そう言って微笑いながら、座ってとクッションの部分をポンポンと手で叩く。
色々言いたかった跡部だが、苦笑いだけにして、そこに大人しく腰掛けた。

「特等席だな」
「朝一番にケイゴに聴いて貰うんだって、すごく早起きしちゃった」
「夜寝るのが早かったからじゃねぇの」

意地悪くにやりと笑ってそう言うと、頬をぱんぱんに膨らませたの顔が帰って来る。
でもすぐに表情を明るいものに戻して、ピアノに手を乗せた。

「榊先生に、ちゃんと見てもらったんだよ?」
「ふぅん?」

跡部が首を傾げて口の端を少し上げる。
も口の両端を引き上げるように笑うと、ピアノに向き直り、すぅと息を吸い込んだ。
続くのは第二楽章の緩やかな音楽かと思いきや、彼女の細い指は重音を一度鳴らしただけ。
目を見開く跡部の前で、の口がゆっくりと開く。
綺麗なイタリア語で詩を謳うかのようなそれは、ヘンデルの有名な曲のレチタチティーヴォだった。

音程の動きの少ない叙唱を淡々と、しかし丁寧に歌い上げる。
短いレチタチティーヴォが終わると、静かな伴奏が始まりアリアへと移る。

ヘンデルのOmbra mi fu。

今までにもの歌声は聞いたことがあって、その声ももちろん跡部は好きだったが、それとはまた違う艶やかさと、力強さ。
驚くとともに、その心地よい声に目を閉じる。
有名な曲、単純に見える曲だからこそ、余計に難しい。
けれど、はその音の高低にぶれることなく、一音一音を丁寧に、ろうろうと歌い上げた。

しかし短い曲だ。
あっという間に終わってしまい、跡部は名残惜しさを抱きつつ、静かに目を開いた。
胸の辺りが温かいものに満たされると同時に、微かな枯渇を覚え、それを誤魔化すように微笑った。

「本当はケイゴの好きなアリアを贈りたかったんだけど、まだちょっと難しかったの」
「Ombra mi fuも好きだぜ?お前に合ってる」

跡部は彼女の髪にそっと手をやり、額に口付けた。
そのキスにか、短いお礼の言葉にか、はくすぐったそうに目を細めた。

「来年までにはヴェルディとかたくさん覚えて、たくさんプレゼントするね?」
「ああ、楽しみにしてるよ」

そうだな、じゃあ今度本場へ観に行くか。
そんな跡部の提案に、は微笑って頷く。

その時、ふわり、と柔らかい風が入り込み、二人は揺れるカーテンの方を見て目を細めた。
跡部もも、今初めてそれに気付いた様に。
このままずっとここにとどまりたい衝動に駆られるが、そんな自分を自嘲しながら何とか椅子から立ち上がる。

「走りに行くのね?」
「ああ、お前も行くか?」

意地悪く笑いながら跡部がそう問えば、は肩を竦めることで返す。
予想通りの反応に跡部はククと笑いつつ、彼女の頭を撫でた。

「後でまた聞かせてくれ」
「うん。行ってらっしゃい」
「ああ――行って来る」

今までだって何度も聞いている言葉。
また、のもとに戻って来る、そんな意味を含んでいる言葉。
改めてそのことに幸福感を抱くのは、誕生日のせいなのだろうか?

「ここで待ってるね」

立ち上がりそう言ってにっこりと笑みを見せるに、跡部はいつもとは違う照れくささを隠す様に口の端だけを上げ、その部屋を後にした。