variationen 4




HRが終わり、皆が教室を出て行く中、は椅子に座り直して鞄から本を取り出した。
薄いハードカバーの恋愛小説。
この前クラスの女子が貸してくれたものだ。
日吉はパラパラとページを捲る彼女を見ながら、その女子が「表現が綺麗で、難しい漢字とかも出てこないから日本語の入門にはちょうどいいんじゃないか」と話していたのを思い出す。

「――まだ帰らないのか」

今までの常として、HRが終わると早々に迎えの車が来てだけ先に帰る。
部活がオフの日でも跡部がすぐに帰る日は稀なので例外ではない。
机の前に立つ日吉を見上げちょっと嬉しそうに笑い、は小さく頷く。

「今日はケイゴも早く帰れるみたいだから待っているの」
「そうか」
「今日はブカツないのね。ワカシはもう帰るの?」

首を傾げつつ聞いてくるに、今度は日吉が頷く。

「今日は稽古がある」
「ケイコ?」
「家が古武術の道場をやってるんだ。それで親父に稽古をつけてもらう」
「コブジュツ?ドウジョウ?」

明らかにの頭の中がハテナマークでいっぱいになっているのが見てとれる。
目をパチパチさせたかと思うと、次の瞬間には難しそうな顔で眉間に皺を寄せた。
そのコロコロと変わる表情に日吉は思わず苦笑い。

「まあ……合気道とかは聞いたことあるだろ?ああ言った種類の先生を親父がやってて、教えてもらうんだ」
「ふうん?」

まだ納得のいかないような顔つきで日吉を見る
「今度見にくるか?」と聞くと、ようやくスッキリしたような顔で大きく頷いた。
その笑顔を見ていると、あと少しだけここに残っていたい――そんな気になってしまう。
日吉は小さく息を吐き傍にあった机に寄りかかる。

「お前は家に帰ると、いつも何をやってるんだ?」
「うんと、おばさまに刺繍を習ったり……昨日は一緒にお菓子を作ったよ。葛餅。最近和菓子に凝ってるんだって」
「ふーん」
「あとは……本を読んだり、とか」
「ピアノは弾かないのか?」
「え――」

彼女からなかなか出てこない単語を、日吉はサラリと聞いてきた。
結局日吉がのピアノを聞いたのはあの転校初日の昼休みの一瞬だけだ。
けれど、もう一度聞きたいと思わせるには十分なものであったし、そんな風に自分を思わせるほどの彼女が家で全くピアノを弾かないというのは違和感があった。
もちろんあのときの跡部との様子は尋常でなかったのは気付いている。
でも自分の中にある曖昧なモヤモヤしたものを適当に流したくはなかった。

キョトンとする
それから少しだけ困ったように眉根を寄せて、俯く。
そして暫くののち、ちょっとだけ首を傾げて唇を尖らせ――微笑った。

「わかんないの」
「は?わかんない?」
「うん」

はコクリと頷き、開いていた本を静かに閉じる。
そして小さく唸った後ゆっくりと続けた。

「ピアノを弾くとね――はじめ、痛かったの」

この辺りが。
そんな風な仕草で胸に両手で触れる。

「その後は、何も感じなくなってしまって――チョタロウのピアノ聞いた後、また弾いたらね、やっぱり痛かったの。でもちょっと嬉しかったの」

だけど――
言いかけて止め、浮かべた微笑はさっきまで見せていた子供らしい可愛い笑みとは違って。
やけに大人びて見えて、日吉は一瞬どきりと胸を鳴らす。

「だけどね――よく、分かんなくなっちゃった」

がフイと視線を上げる。
何気なく向いた先には、ふざけ合う同級生たちの姿。
日吉もその視線を追って彼らの方を見たが、ほんの数メートル先の同じ空間で騒いでいるはずなのにまるで見えない厚い壁にでも隔てられているように錯覚しかけて――舌打ちした。

「お前は、嫌いなのか?」
「え?」
「ピアノだ」
「え――」

日吉も、彼女の笑みに混乱しかけ、跡部のあの表情に、何か、混沌としたモノへ引き込まれそうな気がしてしまう。
けれど寸でのところで踏みとどまり、はぁと深いため息を吐いた。

「好きなら、それでいいんじゃないのか」
「スキナラ?」
「そう。もし好きなら」

うん、と小さく言って戸惑い気味に頷く。

「――ちゃんと、弾けなくても?」

そして頷いた顔を戻さず、日吉の目を見ずに手に持っていた本の表紙をじっと見つめる
その手が僅かに震えていたが、日吉は敢えて気付かないふりをした。

「俺にはその『ちゃんと』って言うのが、どういうもんだかよく分からないが――少なくとも……」

何気なく言いかけて、止まる。
こんなことをクラスメイトの女子に言うのは、らしくない。
そんなことを思い顔を微かに赤らめ彼女から視線を逸らしたが、やはり、これもこのまま曖昧に流してはいけない。
そう思い、声のトーンを落とし、言葉を途切らせながら、続けた。

「……俺はお前のピアノは……嫌いじゃ、ない。……たぶん」
「たぶん?」
「『たぶん』は『たぶん』だ。仕方ないだろ、ほんのちょっとしか聴いてないんだから」

たった今抑えたはずの日吉の声量が、気恥かしさのために瞬く間に上昇する。
頬の赤い彼を見上げ、は何度か瞬きを繰り返した後、目を細めて口元を綻ばせた。

「じゃあ――今度、聴いてみて?」
「……ああ。気が向いたらな」

さっき見せていた戸惑いの表情が薄らぎ、嬉しそうに照れくさそうに微笑う
その表情の変化に、日吉はやれやれと安心したように目を伏せた。

「私はね――好きだよ」
「うん?」
「ピアノ」
「ああ――そうだろうな」

日吉の相槌に、はちょっとビックリしたような顔をして、すぐにまた笑みを浮かべる。

「ありがとう、ワカシ」

そして本を鞄に入れ、何かを思い出したように少し慌て気味に立ち上がった。

「……どうしたんだ?」
「うーんとね、今すぐ、すごく弾きたくなっちゃったの。だから、音楽室に行って来る」
「はぁっ?」
「音楽室のピアノってすごくいい音するの。昔ケイゴの家にあったピアノと同じなの」

そう言って鞄を掴み、嬉しそうに一層笑みを深くしてドアの方へとパタパタと駆けて行く。
「じゃあまた明日ね、ワカシ!」と忙しなく手を振る彼女は、普段教室で見る、どちらかと言うとどこかの国の王女のような威容を誇る姿とは打って変わって、落ち着きなくチョコマカと動き回る小鳥か小動物のようで、日吉は思わず目を白黒させる。

どっちが本当のこいつなんだ?

ふとそんなことを思うが――たぶん、どちらも彼女なのだ。
いつもの彼女には周囲の誰もが圧倒され、魅了されずにはいられない。
あの、彼女の幼なじみに対するのと同様に。
けれど今のような彼女も同じように輝いていて、惹きつけられてしまう。

「――あれで『わからない』なんて、よく言うよな」

廊下を出て、特別教室棟の方へと消えて行く
その後ろ姿にそんな言葉を吐きながら、跡部に彼女が音楽室へ行ったと伝えておくべきだろうかと一瞬考える。
が、そんな必要はないだろうとすぐに思い直した。
彼ならすぐにの居場所が分かるだろう。
少しだけ何かが焦げ付くような感覚を覚えながら、日吉もその教室を後にした。




「――

渡り廊下を横切る早歩きのを、前から歩いて来た榊の声が引きとめる。
彼女は胸の前で抱えていた鞄を下におろし、ぺこりとお辞儀をした。
は授業で音楽を選択しているが、直接榊に教わることはないので普段話をする機会もなかった。
面と向って言葉を交わしたのは、あの転校初日だけだ。

「どこに行く?」

顔を上げたに、いつもの淡々とした口調で聞いて来る榊。
二人の周りを興味深げに、けれど遠巻きに何人かの生徒が通り過ぎた。

「音楽室に行こうと思ってたんです。あの――ピアノを、弾かせて貰いたくて」
「……」

だめですか?と窺う目を向けて来るに、榊は一瞬だけ考えるような間をおいたが、すぐに頷いた。
そして手に持っていたキーホルダー付きの鍵を彼女に渡す。

「私はこれから職員会議だ。戻るまで好きなだけ弾きなさい」

この前滝が話していたように、榊がいつもいる音楽室のピアノを生徒に触らせることは珍しい。
ましてや音楽室の鍵を一生徒に託して、好きに弾いていいと言うことなど滅多にない。
けれどそんなことはに知る由などなく、その鍵を受け取り「ありがとうございます」と嬉しそうに笑った。

「――は、もうバッハは弾かないのか」

そしていそいそと音楽室へ向かおうとする彼女を、再び榊の低い声が呼びとめる。
思いもよらない作曲家の名前に、は戸惑いがちに彼を振り返った。

「以前、プラハで聴いたイタリア協奏曲――」

じっと見上げて来る彼女に向かって、榊は一瞬、懐かしそうに目を細め――すぐにいつもの表情へ。
そして職員室へ向かおうと彼女に背を向けた。

「あのバッハは、素晴らしかった」

そんな言葉を残して。