s-expedition 2




会議を終えた跡部が携帯を開き、から届いていたメールを見て――血の気が引いた。

一人で、電車で帰る?

一体なぜそんなことになったのか。
眉間に手をやる跡部に、傍にいた樺地は小さく首を傾げる。
ふうとため息を吐き出し、挨拶をして教室を後にする生徒会のメンバーを送り出した後、跡部は再度携帯に目をやった。
とりあえず理由は後だ。
手早くボタンを操作してそれを耳に当てる。

まだ日本に来て数ヶ月、彼女は電車に乗ったことなどあっただろうか。
電車どころか、学校から駅まで一人で歩いたこともないはずだった。
彼女も子供ではない――と気休めを言う気にもならない。
誘拐まではなくても、道に迷ったりしてキョロキョロしている彼女を、変な男が強引に連れて行くことは十分にありうる。
ふとそんな場面が頭に浮かんで、焦燥と怒りに体が震えた。

携帯の呼び出し音。
1コール1コールが気が遠くなるほど長く感じる。
樺地の前で苛立ちを隠そうともせず眉間にしわを寄せて前髪をかき上げた跡部は、思わず3コールを待てず切ろうとする。
が、その瞬間に通話口の向こうから、いつもの柔らかい声が聞こえて来た。

「ケイゴ?」
!」

自分の名を呼ぶ声に、これほど安心したことはない。
普段と変わらない彼女の声のトーンに、跡部は目を閉じて深く息を吐いた。

「お前、無事なのか?」

何で一人で帰ることになったのか、迎えは来なかったのか、思わず色々質問したくなるのを堪えてとにかく彼女の無事を確かめようとする跡部。
そんな彼の言葉には通話口の向こうで「無事?」と不思議そうな声を上げた。
なぜそんな質問がされるのか全く分からないと言った様子。
それが、彼女に何も起きていないことを示す何よりもの証拠で、跡部は密かに安堵した。
しかしそれは少し早かったらしい。

「ちゃんと家に着いたのか?もう家に着いている時間だろ」
「……ううん。あのね……道に迷っちゃった」

安堵したのも束の間、跡部は一気に目の前が暗くなるのを感じる。
飄々とした彼女の声色がせめてもの救いか、跡部は落ち着こうと深呼吸した。

「前に地図を持たせただろ?その通りに行かなかったのか?」
「ごめんなさい……」
「……まあいい。今どこにいるか分かるか?近くに何か目印になるものは?」
「うーんとね……」

目印を探そうとしているらしい彼女に、横から誰かの話しかける男の声。
跡部の眉がピクリと動く。
誰かが一緒にいるのか?

「――、今一人か?」
「ううん。この近くの学校の人と一緒。私の行きたかった駅に行くにはバスに乗った方がいいって教えてくれたんだけど……」
「近くの学校?……お前、今どこにいるんだ?」
「えーと……」

彼女の横からの声が、先ほどよりはっきりと跡部の耳に届く。
そして、聞こえて来た学校名を聞いて跡部は内心頭を抱えた。
一体何をどう間違って、あんな所まで行くのか。
跡部は樺地に目で合図をし、二人で急いで部屋を出る。

「待ってろ、今すぐに行くから。……その一緒にいる奴には、何もされてねーだろうな?」
「うん?さっき助けてくれた」
「助けて?」
「さっき、一緒に遊ぼうって言う男の人がいて困ってたんだけど、助けてくれたの」

自分の不安が的中していたことを知り、跡部は思わず舌打ちする。
が、そんな彼の苛立ちをよそに、は嬉しそうに話した。

「この人たちも、テニスをするみたい。テニスバッグを持ってるもの」
「……テニス?」
「うん」

青学でテニス。
まさかそんな偶然はないだろうと首を小さく横に振る跡部。




さてどうしようか。
日本に来て間もないお嬢様を前に、手塚と不二はチラリと目を見合わせた。

「僕が一緒にバスで彼女を向こうの駅まで送って行くよ」

そう言って少しだけ肩を竦めたのは不二。
表情をそれ程変えない手塚に対して、彼女の方は彼の言葉に大きく目を見開いた。

「大丈夫です。一人で行けます」
「でも君、バスに乗ったことないんでしょう?何か色々と危なっかしいし、一緒に行くよ」

危なっかしい、という言葉に、些かシュンとする
不二は寄り道したりして道に迷うことを差して言ったわけではなく、また先ほどのような男に声を掛けられないとも限らないことを言ったのだが。
無事に着いたか冷や冷やするくらいなら、一緒に行った方がいい。
幸い特に用事もないし。
見ず知らずの女の子に対してここまで心配するのも我ながら可笑しいなと思いながら。

「なら、俺も行こう」
「え?手塚も?」

不二の言葉に、まるで反射的に答える手塚。
まさかそんなことを言い出すとは思わなかったので、不二は素っ頓狂な声を上げてしまった。
そんな彼の声に手塚は我に返ったのか、ややバツの悪そうに目を伏せる。
別に一人でも十分だろう。
不二はそう思ったけれど――手塚もきっとそう思っていただろうが――その言葉は飲み込んだ。

「――じゃあ三人で行こうか」
「でも……」
「気にすることはない」

そんなやり取りをしているときに、彼女の携帯が鳴った。
携帯を鞄から取り出し、ディスプレイに表示されたらしい名前に彼女はパッと表情を輝かせる。
さっき見せた笑顔の何倍も嬉しそうな、輝いた笑顔。
一体どんな奴がこの子にそんな顔をさせるんだろうかと、不二の中に一瞬だけ嫉妬のようなものが走り抜けた。

「ケイゴ?」

彼女が嬉しそうに呼ぶその名前を聞いても、最初二人は誰のことだか分からなかった。
家族――兄や弟か、それとも友達か。
電話の向こうの声に、少しだけ元気をなくしてシュンとする彼女を見て、不二はお兄さんだろうか?などと思う。
きっと一人で歩いて帰ったことを怒られているのだろう。
自分が彼女の兄だったら、やっぱりすごく心配で、声が聞けたら思わず安心して怒ってしまうだろう。
そんなことを思う彼らの前で、携帯から耳を離し、辺りをキョロキョロ見渡す彼女。
近くに何かあるか聞かれているのだろうか?
不二はこの辺りの地名を伝えた。
その彼の声が通話口の向こうの人間に聞こえたのか、誰かと一緒にいるのかと問われたらしい。
彼女は、この近くの学校の人と一緒だと答える。
きっと、知らない男と一緒だと知って相手の男は慌てているだろう、すぐ行くと言っているに違いない。
そんな相手の心配など全く気付かずに、彼女は二人を見て――厳密には二人が肩に掛けているバッグを見て嬉しそうに言った。

「この人たちも、テニスをするみたい。テニスバッグを持ってるもの」

この人たちも?
と言うことは、相手の男もテニスをすると言うことだろうか。
氷帝のテニス部と言えば――有名過ぎるあの男。
いや、でもまさかそんな偶然はないだろうと、互いに顔を見合わせる手塚と不二。

今度はバッグではなくて、二人の顔を見上げる彼女。

「あの――テニス部、ですか?」
「うん。彼は部長だよ」
「ブチョウ?じゃあ、ケイゴと一緒ね?」

どうやらあり得ない偶然が起きたらしい。
もう一度見合わせた二人の顔には苦々しい笑みが浮かんでいた。
とは言え、手塚の方は殆ど表情が変わっていなかったが。
電話の向こうの相手――跡部も彼女の言葉に、一緒にいるのが手塚と分かったのだろう。
先ほどよりも声が荒々しくなったのが分かる。

「部長?、お前今、部長って言ったか?一緒にいるのは手塚なのか?」
「うん?」
「あー……と、眼鏡掛けて老け顔の男か?」
「フケガオ?」

聞いたことのない言葉に、首を傾げる彼女。
彼女の口から繰り返された言葉に、ピクリと反応する手塚。
そんな彼を見て、笑いを堪える不二。

「一緒にいるのは手塚だって伝えてあげて。テニス部の部長の手塚だって。跡部に」




三人は跡部が来る間、近くのファストフード店で待つことにした。
きっと彼は飛んで来るだろうから本当は店に入るまでもないのだろうが、彼女も歩き通しで喉が渇いているだろうと言う配慮と、もしかしたらこう言う店にも入ったことがないんじゃないかと言うお節介からだ。
そして二人の予想通り、彼女はファストフード店に入ったことがなかったらしい。
まあしかし、あの跡部の妹であれば頷ける。
そんな勘違いと共に、妙に納得してしまう二人。
通りからよく見える席に腰掛けると、は改まった様子でペコリと頭を下げた。

「あの、自己紹介がまだでした。遅くなりましたが――です」
……?あれ、君、跡部の妹じゃないんだ」
「ケイゴとは小さい頃からの友達、です」
「幼なじみ?」

コクンと小さく頷き、ストローに口を付ける彼女。
「そっか」と言う不二の顔には、思わず苦笑が浮かんだ。

「僕たちもちゃんと自己紹介してなかったね。僕は不二周助。青春学園中等部の三年」
「――同じく、手塚国光だ」
「シュウスケとクニミツ?」

一瞬動きが止まる二人を見て、慌てては「ごめんなさい」と頭を下げた。

「初めての人を下の名前で呼んじゃいけないって、この前言われたばかりなのに……」

顔を真っ赤にして身を縮こまらせる彼女の様子に、不二は微笑を漏らし、手塚は口元が緩みそうになって咳払いで誤魔化す。
そしてつい、彼女の頭を撫でてしまいたくなる衝動を抑えて、不二も咳払いの真似ごと。

「僕は全然構わないよ。僕も君のことをって呼んでいいのかな」
「はい」

今度は嬉しそうに顔を上げてニッコリ笑うに、不二も同じように笑みを返し、次に手塚をチラと見る。
君はどうなのさ?
そう言いたげに。

「俺も――別に構わない」

その不二の視線に気づかないふりをしながらも、そう言った後、手塚はさっき以上に大きな咳払いをして、ジュースを飲んだ。
手塚がこうやってファストフード店に入るのも珍しいのではないか?
彼のぎこちない様子に不二はふとそんなことを思いながら笑う。

「跡部の幼なじみってことだけど、君はテニスはしないの?」
「ちょっとだけ……お家でケイゴとするだけだけど」
「跡部に教わってるんだ?」
「うーん……話にならないっていつも言われる」
「厳しいんだね」

くすりと笑いながら不二がそう言うと、も目を細めて笑って頷いた。
そんな彼女の笑顔に、隣りにいた手塚も思わず目を細めた。
幸か不幸か手塚と跡部は直接対戦したことがない。
練習試合も数える程度しかなく交流は殆ど無かったため、それ程彼を知っているわけではない。
しかし大会会場などで見るたび、その華やかさ以上に目の奥にある確固たる強さ、厳しさに、いつも自分の何かが刺激された。
200人の頂点に立つ帝王――その呼称をオーバーだとか滑稽だとか思ったことは一度もない。
それは不二も同じだった。
そんな彼が、この少女と一緒にどんなテニスをするのだろうか?
どうも想像が付かない。

「じゃあ、今度僕たちとも一緒にテニスしよう」
「本当?」
「うん、もちろんだよ。ね、手塚?」

テーブルに手を乗せ、手塚の方を見て同意を求めるように首を傾げる不二。
彼がここまで自ら積極的に他人と関わろうとするのも珍しい。
普段から物腰柔らかで人当たりのよい印象があるが、実はそれほど自分から他の人間に興味を持ったり関わったりすることは多くない。
少し意外に思いながら、手塚は不二を見て、そして向かいの席に座るを見る。
初対面の人間を前にして不安を感じながらも、一緒にテニスをすることへの期待に輝いた目で自分を見上げて来る彼女。
ここで「ああ、そうだな」と返事をしている自分も、不二と同じくらい意外だろう。
そう思いながらも、手塚は小さく頷く。
そんな彼らには嬉しそうな笑みを向けたが、次の瞬間店の外を見て「あ……」と小さく声を上げた。
窓ガラスに背を向けていた二人が振り返ると、目の前に大きな黒塗りの車。
まさか――と思えば、運転手が回り込む前に自分でドアを開け、跡部が飛び出してきた。
表情は落ち着いているが、大股で店の入口に向かう様子は彼なりに相当慌てていることを表していた。

「うわ、すごい車だね」

椅子に肘を乗せて半ば呆れた様子でそう言う不二の後ろでガタガタと慌ただしい物音。
二人が振り返ると、が既に店の入口へと駆けていた。

「ケイゴ!」

そして自動ドアが開き目の前に現れた跡部に、躊躇いなく抱きついた。
慣れない光景に思わず唖然とする二人の前で――二人だけでなく周囲にいた客や店員も同じように呆然としていたが――跡部も彼女の背中に手を回し、ふわりと抱きしめる。

――ったく、心配させるな」
「ごめんなさい……」

元気なく答えるに、跡部は「まあ何もなければいい」と言ってその髪を撫で、そして傍に座ったままこちらを見ている手塚と不二の方を見た。
本当に手塚だったのか。そんな驚きのために僅かに目を見開き、その後口角を上げる。

「――こいつが世話になったみたいだな」
「そんな大層なことはしていない」
「一応礼を言っておく」

お前もちゃんと礼を言ったのか?
そう言って髪を撫でて来る跡部にコクンと頷きながらも、は二人に向き直り「ありがとうございました」と丁寧に頭を下げた。
不二は「どういたしまして」と返しながら、何となくそんな彼女の様子に寂しさのようなものを覚える。
それを隠すためにニコニコと笑って見せる不二。

「お前がこんなに方向音痴だとは思わなかったぜ」
「ホウコウオンチ?」
「方向感覚がねぇってことだ」
「そんなことない。ちょっと寄り道しただけだもん」
「言い訳してんじゃねーよ」

ばーか、と手の甲で触れていた彼女の頬を抓る跡部。
試合会場では見ないような、柔らかい表情。
やはり彼にもこう言う「モード」があるのだな。
そんなことを思うと、知らず二人の表情も和らいだ。

「仲がいいんだね」
「普通だろ」

自覚なく少し棘を含んだ口調の不二の台詞に、サラリと一言だけ答える跡部の表情は「普通だろ」と言うより「当然だろ」とでも言いたげだ。
苦笑する不二に構わず、跡部は椅子に置かれていたの鞄を掴んだ。

「じゃあ帰るか。たぶん今頃ばあさんの耳にも入って、心配してる」
「うん」

彼女の背中に背を回した跡部は、同時に手塚と不二の方に向き直る。
にやりと笑った彼の表情は、先ほどまでのものとは違う――試合会場でよく見る顔つき。

「じゃあな、手塚」
「――ああ」
「俺たちと対戦するまで、負けんじゃねーぜ?」

そんな彼の表情は、あまり見たことがなかったのかもしれない。
はちょっと不思議そうな顔で、幼なじみを見上げる。
目をパチパチとする彼女に不二は微笑う。

「じゃあね、。さっきの約束、忘れないで?」

眉がピクリと動いてこちらに視線を向けて来た跡部を可笑しく思いながら、不二は気付かないふりをしてに笑いかけて手を振る。

「うん。シュウスケも、ね?」

同じようにニコニコと笑って手を振るの肩をやや強引に掴み、「ほら、行くぜ」と店の外へと促す跡部。
分かりやすいなぁ。
そう呟きながらクスクスと笑う不二に、隣りの手塚は微かな苦笑い。

運転手が開けた車のドアの前で、もう一度は二人の方を振り返り手を振る。
早くしろとでも言っているのだろう、跡部はそんな彼女の頭を先ほど見た時よりも少し乱暴な手つきで撫でていた。
笑いを堪える不二と、そんな彼の様子に半ば呆れる手塚の前で、彼女は車にスルリと乗り込んだ。
普段何とも思わないようなそんな人の動作に――ドアを開けられた車に人が乗り込む様子を見る機会はそれほど多くないが――綺麗だな、などと感心する二人。
最後にこちらを見て不敵に笑った跡部も、同じようにごく自然な身のこなしで車の中へ消えて行った。

「面白い子だったね」
「――そうか?」
「うん。跡部も、ちょっと面白かったかな」
「……」

クスリと笑いながら、けれどどこか名残惜しそうに、車の去った通りを眺める。
そんな不二の心境も何となく分からなくはない。
手塚は黙ってジュースの残りを飲み干す。

「これから楽しみだね……色々と」

通りを眺めたままの不二の台詞に、手塚は空になったカップを置き、同じように通りを見た。

「――そうだな」