ondine 3
彼女のことは特に気にするな。
翌日の朝食の後、跡部から皆にそう伝えられたが、誰ひとりその言葉を守れる者はいなかった。
積極的に声を掛けるのは忍足くらいだったが、彼女を見つけると、つい、その姿を目で追ってしまう。
早朝に宍戸がランニングをしていると中庭を散歩している彼女が目に入って、思わず足が止まる。
芥川がテニスコート近くの大きな木の下で昼寝をしていると、不意に通り過ぎる花のような甘い香りに目を覚ます。
休憩時間に滝が書庫で本を探していると、少し離れたところにあるカウチの上で大きな古めかしい本をパラパラと捲っている彼女に目がとまって、暫くその様子を眺めてしまう。
昔何度かロンドンの跡部の家で会ったことがあるという樺地は、皆の中でも特に彼女を気にかけているようだった。
「―――きみも、やってみる?」
昼食の後、一足先にと滝と鳳がコートに出たが、それよりもの方が早かったらしい。
仕舞い忘れたテニスボールを手元でいじりながら、一番端のベンチに腰かけていた。
彼女のいる場所から一番離れた、手前のベンチにバッグを立てかけてラケットを取り出す二人。
やっぱり気にしないで練習しなきゃいけないんだよな……。
ボールをポケットに入れながら鳳が顔を上げると、いつの間にか滝がスタスタと彼女の方へ歩いて行っていた。
「た、滝さんっ?」
鳳も慌ててその後を追う。
まずいんじゃないですか?
目でそう訴える鳳に、滝はまったく意に介さないとばかりに微笑う。
「気にするなとは言われてるけど、相手にしちゃいけないとは言われてないよ」
「そ、それはそうですけど……っ」
「第一、気にしない方が無理だよ。逆に気が散る。だって俺達、バカみたいに皆のことが気になってるじゃないか」
「そ、そうですけど……」
だんだん弱気になっていく鳳。
声をかけられたはボールを握ったまま滝を見上げる。
びっくりしたような顔をするでもなく、不審そうな顔をするでもなく、綺麗な透き通った目を向けるだけ。
「テニスは嫌い?」
すぐに首を横に振るに、「そうだよね、いつも俺達の練習を見てるくらいだ」と優しく笑う滝。
その笑顔につられて、の目も少しだけ細められる。
手元のボールに視線を落とし一瞬小さく首を傾げた後、ゆっくりと立ち上がった。
「やったことはある?」
「少し……。学校で」
ちょっと握りづらいかもしれないけど。
そう言って滝に差し出されたラケットを両手で受け取ると、少しだけ嬉しそうに微笑んだ気がした。
鳳が見守る中、二人はコートに立つ。
「行くよ」
の返しやすい場所に、普段の3割程度の強さのアンダーサーブ。
別に滝も鳳も見くびっていた、と言う訳ではない。
けれど、返されたボールの速さと綺麗なフォームに、二人はちょっと意外そうに目を見開いた。
どことなく誰かのフォームに似ている。
基本に忠実なフォーム。
けれど何となく、どこかで見たことがあるような気がする。
ラリーを続けながら、滝はそんなことを思う。
「へー、結構やるじゃん!」
いつの間にか、午後の練習のために皆がコートに集まっていた。
向日が楽しそうに笑って言う。
その横で感心したような顔で腕組みする忍足。
「お姫さん、スポーツとか出来なさそうに見えるけどなぁ。人は見かけによらないっちゅうこっちゃ」
「―――お前ら何してる。練習時間はとっくに過ぎてるぞ」
背後から跡部の低い声。
それに驚く芥川の声で、長い間続いていた達のラリーも途切れた。
「さっさとコートに入れ!」
ギャラリーをしていた皆が一斉にコートの中へと入るのと入れ替わりに、はコートを出る。
「ごめんなさい……ありがとう」と目を伏せてラケットを差し出してくる彼女に、滝は「こちらこそ、ありがとう」と微笑みを返す。
そして、じろりと視線を投げつけてくる跡部に肩を竦めて、すぐコートに戻った。
「邪魔して、ごめん、なさい」
最後にコートに入ろうとする跡部に、は申し訳なさそうに俯いて言う。
別にそんなに怒っているわけじゃない。
自分の知らないを、自分以外の誰かが先に目にしたことに対する嫉妬、と言うのが今の自分の中を占めている感情の大半だろう。
昔から、跡部がテニスをしている傍でじっと見ていることはあったが、彼女自身がラケットを握っている姿を見ることはなかった。
いつの間にやるようになったのだろうか。
俺も案外小せぇ男だな。
心の中で自分に毒づきながら、の頭に手を置く。
「―――練習の後で相手してやるから」
感情を殺すように低い声で言うと、はちょっと首を傾げながらも、コクンと頷いた。
この出来事以来、皆、普通に彼女に声をかけるようになった。
彼女の方からも、徐々に距離を縮めつつある。
まだどことなく雰囲気に不自然さは残るし―――笑顔は殆ど見せないけれど。
早朝に中庭で見かけた彼女に、宍戸が「よぉ」と声をかければ、「おはよう」と返ってくる。
練習時間中、たまにが芥川を起こしにやって来る。
書庫で立ったまま本を読んでいる彼女に「何を読んでいるの?」と滝が聞くと、その本の表紙を見せながら簡単なあらすじを話す。
何故か暇つぶしにやっているレース編みが上手く出来ると樺地に見せに行く。
忍足が、自分で持ち込んだ恋愛もののDVDをリビングで見ていると、知らぬ間に隣りに座っていたりする。
そして忍足と一緒にクライマックスで涙を流している彼女を見て、ティッシュボックス片手に奔走する向日。
その様子を、本を片手に少し離れたソファに腰かけて、呆れた顔をして見ている跡部。
本に視線を落とし、暫くして横を見ると猫のように隣りで凭れかかっている彼女。
その重みを心地よく感じていると、ピアノの音が聞こえてきて、ふと肩が軽くなった。
その音に吸い寄せられるように部屋を出て行くに、僅かに眉根を寄せる。
このピアノの音の主は鳳。
ホールにあるグランドピアノは彼のお気に入りで、時間があると弾いている。
彼女がこの家に来た時、跡部は敢えて彼にピアノを禁じることをしなかった。
ある種賭けに近いとは思ったけれど、この音を彼女から遠ざけてはいけない―――と妙な直感めいたものがあった。
はピアノの音が聞こえだすと、いつもそのホールの前まで行き、壁際に立ったままでじっと聴いてる。
そして、跡部もその様子を少し離れたところで見ていた。
彼女がその跡部の存在に気づいているのかどうかは分からない。
けれど、少なくとも鳳はがいつも聴いていることは知っていた。
短い曲を弾き終わり、鳳は意を決するかのように深呼吸する。
そして、クルリとの方へ向き直った。
「―――こっちに来ない?」
ビクリと大きく肩を揺らす。
そんなふうに反応する彼女を見るのは初めてで、鳳まで一緒に動揺してしまう。
じっと立ったままの彼女。
少し照れながらも、安心させるように笑う鳳。
暫く二人の距離はそのままだったが、彼女の方がおずおずと足を進め始めた。
「―――は、ピアノ好き?」
鳳は近くにあった椅子を持って来て、をそこに座らせる。
彼の質問に困ったような目をしたが、暫くの沈黙の後、呟くように言った。
「チョタロウのピアノは、好き」
廊下にいた跡部はその返事に眉を寄せたが、当然のことながら鳳は単純に自分のピアノを褒められたと嬉しくなる。
「どんな曲が好き?リクエストがあれば弾くよ?」
「……きょ、く」
「うん。……あ、『曲』って分かる?」
彼女の反応がおかしかったので、「曲」という日本語が分からなかったのかな?とそんな質問をする。
は頷いたけれど、黙ったまま。
うーん、困ったな。
返事の返ってこない彼女に不自然なものを感じながらも、とにかく何かを弾こうと鍵盤に手を置く。
―――と、の口が開いた。
「Gaspard de la Nuit―――」
「え?あ、ラヴェルの?」
「Ondine―――が、好き」
「オンディーヌ、か……ええと、まいったな……さすがにあれは楽譜がないと―――」
そう言いかけると、はホールの奥にあったカウチソファーのサイドテーブル上にいくつか積み上げられていた冊子から一冊を抜き出す。
それは書庫から自身が持ち出した「夜のガスパール」の楽譜だった。
ピアノを見るのもつらいのかもしれない。
彼女の母親の話を聞いてそんなふうに思っていた跡部は、ちょっと意外に思う。
鳳は差し出された楽譜を受け取り、ぱらぱらと捲る。
まさかこんな難曲がリクエストに上がるとは予想外だったけれど、練習したことはあるし何とかなるだろう。
せっかく彼女が自ら選んでくれた曲。
そして彼女の好きな曲だ。
やっぱり弾きたい。
そして1ページ目を開き、譜面台の上に置いた。
「久し振りだから、つっかえちゃうかもしれないけど……」
「―――うん」
頷いて、また椅子に浅く腰をかける。
両手を膝の上に置き、目を閉じる。
そんな彼女の顔に、鳳はついさっきまでのとはちょっと違う緊張を感じて深呼吸した。
鍵盤の上に両手を乗せて、もう一度深く息を吸う。
やわらかいアルペジオ。
水の精―――オンディーヌが湖面で戯れるように軽やかに―――でも丁寧に音を紡ぐ。
その旋律の中で踊る水の精に魅入られ、鳳はいつの間にか隣りにいたのことを忘れてそのハープのような音色だけに集中していた。
途中、少しだけつかえながらも最後まで弾き終え、水の精が去っていく。
ふう―――と大きく息を吐き、ようやく思い出したように隣りのを見た。
そして、その頬を伝うものを目にして、反射的にガタンと大きな音を立てて椅子から立ち上がる。
「!?」
声もなく、ただただ目から流れ出る涙。
何かまずいことをしてしまったんだろうか?
鳳はオロオロしながら、とにかく涙を拭かなくては、とポケットからハンカチを取り出す。
そしてそれを差し出しかけたとき、跡部が中に入って来た。
「あ、跡部部長……」
「別にお前が悪いんじゃない。気にするな」
跡部は口の端を僅かに歪めてそれだけ言い、に向き直る。
椅子に座り膝に手を置いたまま、涙を拭うこともせずに跡部を見上げる。
跡部もそれを拭ってやることをせず、ただじっと見下ろす。
「自分でそこから這い出てこい、」
静かな、何かの宣告であるかのような跡部の低い声に、の拳がぎゅっと握られる。
その後ろで、訳も分からぬままただならぬ雰囲気に鳳が唾を飲み込む。
「お前の中でピアノがどれだけの存在だったか―――少しは分かってるつもりだ」
けどな、。
そこまで言い、何かを覚悟するかのように息を吐く跡部。
「残念ながら、ここでお前の人生は終わっちゃくれない。ピアノが弾けなくても―――お前は生きなきゃいけねぇんだよ」
力の入った彼女の両手が白くなる。
ぎゅっと目を瞑るけれど、涙は止まるどころか止めどなく零れては彼女の服を濡らす。
「俺の言ってること、分かるか」
コクリと頷くの頭を、自分の方へと引き寄せる。
膝の上で、爪が食い込むほどに握られていた手は、跡部のシャツを掴む。
すると堪えていたものが一気に解き放たれたように―――声を上げて泣き始めた。
一体どれ位の時間そうしていたのか。
跡部は自分のシャツが彼女の涙でヒヤリと熱を奪われていくのを感じ、鳳は小さな子供のように泣き続けるの細い肩をじっと見つめる。
いつの間にか、ホールの外に他のメンバーも集まって来ていた。
「這い上がって来い、。そうしたら俺がその手を掴んでやる」
落ち着きを取り戻し、涙が乾いて来る。
それとともにシャツを握る手の力を緩めたに、跡部は髪を撫でながら言う。
「俺だけじゃねぇ。こいつだって引っ張り上げてくれるさ」
「そそそ、そうですよっ!僕でよければいつでも力になりますっ!!」
いきなり自分に向けられた跡部の視線に鳳は慌てながらも、力いっぱいそう答える。
事情はもちろんよく分からないけれど、彼女の力になりたいのは確かだ。
「それに、何だか知らねーけど、ここにはお前を気にしてる奴ばかりだ。鳳で頼りなきゃ他の奴がいる」
「そんなっ……!」
「そうだね、ちょっと鳳だと頼りないかも」
「そんなことないですっ!!」
滝のからかうような口調に、鳳は真っ赤な顔で大真面目に反論する。
相変わらずだな、と苦笑する宍戸。
そこがこいつのいいトコや、と言いながら笑いを堪え切れない忍足。
特に堪えることもせず大笑いする向日と芥川。
どことなく安心したような目でを見る樺地。
「―――まあ、俺様一人で十分だろうけどな」
にやり、と笑う跡部。
顔を上げたの目は真っ赤。
目だけでなく鼻も赤く、思わず跡部も「ひでぇ顔だな」なんて言って額を小突く。
けれどその時見せた笑みは、この別荘に来てから見せた顔の中で一番可愛い―――と、そこにいた誰もが思った。
「ケイゴ、変わらないね」
「うわ、やっぱり昔からこんな奴やったんか!」
思わず口に出た忍足の台詞もまた、そこにいたメンバーの誰もが思ったこと―――かもしれない。
「―――じゃあね、ケイゴ」
「ああ。帰ってくるときは連絡しろよ」
合宿の最終日。
は皆と別れて、両親の待つロンドンへ戻ることにした。
とはいえ一時的な渡英で、またすぐに戻ってくることになるだろう。
跡部たちと同じ中学に通うために。
「お嬢さま、そろそろ行きませんと新幹線の時間が……」
後ろで待っていた管理人の男が、遠慮がちに声を掛ける。
は彼を振り返って「今行くから」とだけ言い、もう一度跡部の方に向き直る。
「……私、軽井沢に来てよかった」
「あん?」
「ケイゴに会えるとは、思ってなかった」
ケイゴと話そうと思って日本語の勉強したから。
ちょっと照れたように笑って、逃げるように車の方へ駆けて行く。
「まさか、テニスも俺とするために練習したんじゃねぇよな?」
逃がすか、とばかりにその背中に向かって言う。
けれどはその問いに答えず、振り返って最後の一言。
「また、テニス一緒にやってね、ケイゴ」
の乗り込んだ車のドアが閉められる。
手を振る姿をまともに見せる間もなく、車は別荘を後にする。
「ばーか。100年早ぇんだよ」
聞こえるはずもない台詞を呟き、跡部は口元を緩ませた。