variationen 1
始業式を過ぎてから数日後の朝。
日吉が教室に行くと、理事長室に来いとの伝言。
さすがに理事長室には今まで足を踏み入れたことがない彼は、訝しげな表情をそれを伝えて来た男に向けた。
「お前、何かやらかしたのか?」
そうからかう男に、そんなわけないだろうと、鼻を鳴らす。
一体何事だろうと首を傾げながら机に鞄を置くが、ここでそんなことを考えていても答えなど見つかるはずもない。
日吉はネクタイを締め直し、理事長室へと向かった。
理事長室は、普段生徒たちが行き来するような場所ではなくて、そこへ通じる廊下もどことなく雰囲気が重苦しい。
上に掲げられた「理事長室」と言う札をチラリと確認し、日吉は木製の重厚な扉をノックする。
中から返事が聞こえると自分の名前を告げ、扉を開けた。
そこには理事長だけがいるのかと思ったら、予想外に多くの人間が集まっていた。
その中には見なれた姿も。
こちらを見て口の端を上げる跡部に、日吉は小さく頭を下げる。
そして何気なく視線を移した先には―――少し不安げに瞳を揺らす少女。
パチリと目が合うと、彼女は隣りにいた跡部の服の裾を掴んだ。
こんな子、この学校にいただろうか?
もちろん氷帝ほどの生徒数ならば、全校生徒どころか同じ学年の生徒の顔だって憶えるのは至難の業だ。
けれど彼女のような子なら、どんなに生徒が多くても憶えている気がした。
あの跡部が背中を支えるような子なんてそうそういるものではないし、こんな雰囲気の子なんて―――見たことがない。
彼女はまだ跡部の服を掴んだままだったが、日吉から目を離そうとはしなかった。
でも、その瞳に自分が映っているのかどうか、何故か不安にさせる。
「彼女はさんだ。今日から君のクラスの仲間になる」
理事長がにこにこと微笑みながらそう言うのを聞いて、日吉はなるほどと心の中で頷く。
横を見ると、クラスの担任も彼の方を見て頷いていた。
「日吉は学級委員だから、彼女の面倒を見て欲しいんだ。外国生活が長くて色々戸惑うことも多いと思うから」
「外国、ですか?」
「今までずっとロンドンで暮らしていたそうだ」
―――ああ、彼女か。
日吉はもう一度心の中で頷いた。
春休みにあったレギュラーだけの合宿から戻って来た忍足が、よく「お姫さんはいつ来るん?」と跡部に聞いていたのを思い出す。
ロンドンに住んでいる跡部の幼なじみが日本に来るのだと、鳳が顔を赤くしながら説明していた。
特に自分には関係ないことだと思っていたから、たぶんそのときに彼女の名前を聞いていたはずなのだが、すっかり忘れていたのだ。
「―――」
跡部に促されて、彼女が日吉の前に出る。
まだどことなく不安そうだったけれど、息を吸い、目を細めて、ゆっくりと微笑む彼女。
「はじめまして。、です」
その姿と同じように、透き通った声。
なるほど、確かにお姫様だ。
練習中、忍足の台詞を聞いて「変な呼び方をする」と半ば呆れていたのだが彼女の様子を見て、日吉はそんなことを思い納得する。
「日吉若です」
小さく頭を下げて自分の名前を告げると、彼女は笑みを深くして手を差し出してきた。
日吉は一瞬戸惑ったが、その手を取る。
「―――ワカシも、テニスしてるのね?」
初対面の人間にいきなり下の名前で呼び捨て。
いつもなら不愉快にもなりかねないそれに、何故か彼はくすぐったさを覚えた。
「―――日吉、こいつを頼むぜ」
理事長室を出ると、跡部が彼女の頭を撫でながら改めてそう言って来た。
視線は彼女に向けたまま優しげな声で言う彼に、日吉は些か驚いてしまう。
彼でもこんな顔を―――声をするものなのか。
「こいつはちょっと他の奴と感覚がずれてるかもしれねぇからな」
「……はぁ」
跡部が「感覚がずれてる」と言うのなら逆にマトモなのではないかと思ったが、口には出さないでおく。
「何かあったら、すぐに言ってくれ」
「わかりました」
「じゃあな、」
「うん。ケイゴ、また後でね?」
ポンポンと頭を撫でた後、名残惜しげにその場を去る跡部。
その彼の後ろ姿をじっと見つめる。
そんな二人の様子を見て、不意に襲われたじりじりとした感覚。
それを追い払おうと、日吉は深く息を吐き出した。
「跡部景吾の幼なじみが転入してきた」と言う噂は、あっと言う間に広がった。
休み時間になると、用もないのに他のクラスの人間が入れ替わり立ち替わり現れては、彼女を遠目に眺めて行く。
「休み時間になると人が増えるのね?」という彼女の台詞が、天然なのか皮肉なのか、日吉には判断がつかない。
転入生を遠目に見て行く人間は後を絶たなかったが、直接話しかける者は殆どいなかった。
その原因の大半は、休み時間のたびに現れるテニス部のレギュラー陣のせいではないかと思われる。
まず初めに来たのは忍足。
移動教室の途中で寄ったという彼は、「お姫さん!やっと来たんか!」と言って彼女に抱きつこうとし、すぐ後を追って来た向日に引っ張られて去って行った。
その直後に現れたのは鳳。
傍から見て蕩けてしまうのではないかと思うくらいデレデレとした顔をして、始業ベルに名残惜しそうに自分の教室へと戻って行った。
次の休み時間に現れたのは、滝と、彼に引っ張られて来た宍戸。
昼休みはクラスメイトと仲良くなるいい機会だというのに、しっかりお昼を一緒に食べる約束をして帰って行った。
その後に来たのは芥川と、再び忍足。
彼女にポッキーを手渡し、また抱きつこうとしていた忍足を引っ張って去って行った。
その次は樺地と、これまた再登場の鳳。
鳳はまたデレデレとした顔をしながら「授業はどう?」とか「困ったことがあったら言ってね」とか言い、樺地はその後ろで黙って立っているだけだった。
結局休み時間に現れなかったのは跡部だけだ。
きっと彼が一番彼女の様子が気になって仕方がないだろう。
朝の彼の様子を見て、日吉はそう思う。
けれど、彼女のことを思って敢えて姿を現さなかったに違いない。
そう言うところは、やっぱり―――尊敬するよな。
昼休み、を迎えに来た先輩たちを眺めながらそんなことを思い、日吉は小さくため息をついた。
「、学校の雰囲気には慣れた?」
「こうも入れ替わり立ち替わり先輩たちが来ては、慣れる暇もないと思いますけどね」
学食でを囲んでの昼食。
ニッコリと微笑いながら聞く滝に、日吉は箸の手を休めずに厭味をチクリ。
そう言う彼も、普段はテニス部のレギュラー陣と一緒に昼食を取ることはないのだが、食後、彼女に校内を案内する約束しているのだから仕方がないと自分に言い訳する。
「つい嬉しくなっちゃってね」
「がなかなか日本に来ねぇんだもん」
「ホンマや。もう来ないんやないか思てヒヤヒヤしたわ」
一体この人たちのこのデレデレぶりは何なんだろうか。
普段女の子に優しいタイプとは言えない宍戸まで、紙ナプキンを彼女に差し出したり箸の持ち方をレクチャーしたりしている。
確かに可愛い子だと思う。
跡部の幼なじみと言うだけあってその育ちの良さは疑うべくもない。
彼女の前に立つと自然と手を差し出したくなる―――と言うのは、日吉でも分かる。
けれど全員がここまで彼女を気にかけるのは、それだけが理由なんだろうか?
「―――お前ら、何勢ぞろいで飯なんか食ってんだよ」
内心首を傾げる日吉の背後から、呆れたような声。
振り返るまでもない、それは跡部のものだった。
後ろには樺地と、生徒会のメンバー。
「を囲む会だよ」
肩を竦めつつそう答える滝。
「しょうがねぇ奴らだな」と呟くように言ってはため息をつく跡部。
「跡部も一緒にどう?」
「俺はいい」
あっさりとそう言って跡部は少し離れたテーブルに向かおうとする。
けれどの後ろを通り過ぎるとき、彼女にしか聞こえないような小さい声で、問いかける。
Are you okay?
すぐにコクンと頷く彼女に、ふっと、安心したような笑みを浮かべて何事もなかったように去って行く。
たったそれだけのシーン。
何てことのないはずのそのやり取りを見た日吉は、何故か妙な罪悪感のようなものを抱いた。
食事を終えて一緒に案内すると言い出す忍足たちに「先輩たちと一緒に歩いてたら、目立つんですよ」と冷たく言い放ち、日吉とは校内ツアーに出かけた。
「お姫さん!危ないと思ったら、すぐ叫ぶんやで!」
「……何考えてるんですか、忍足さん」
「学校って危ないの?」
「危ないのは、あの忍足さんの頭の中だけです」
キョトンとするを促し、二人は学食を出る。
職員室や、授業でよく使う特別教室を回り、忍足ではないが、何かあった時に駆け込めるようにと、跡部がよくいる生徒会室の場所も案内した。
廊下ですれ違う生徒の多くが、二人の方を―――正確にはの方を、だろうが―――振り返る。
いつもはそんなに人の視線など気にしない日吉だが、流石に今日はそのあからさまな好奇の視線に辟易してくる。
そんなにあの跡部さんの幼なじみと言うのが珍しいのか?
歩きながら、隣りのをチラリと見る。
―――いや、違うか。
あの跡部景吾の幼なじみと言う肩書きがなくても、たぶん彼女なら皆の視線を集めるだろう。
その容姿はもちろんだけれど、人の目など全く気にする様子なく、ピンと背筋を伸ばして綺麗に歩く姿。
一つ一つの所作が、今まで会ったどんな女子とも違う。
そんなことを思い始めるとつい緊張してしまうのだが、時折見せる彼女の微笑がそれを解く。
「跡部さんの幼なじみって言ってたけど―――近所に住んでたのか?」
廊下の開いた窓から桜の花びらが入り込む。
それを拾おうとしゃがみ込む彼女を見下ろしながら、何となくそんな質問。
「ううん。近所じゃない。でもよくケイゴの家に泊まりに行った」
「ふーん」
「あ、でも、ケイゴは全寮制の学校に行っていたから、実はそんなに沢山会ったことないの」
「……そうなのか?」
花びらを手に載せ、うん、と頷く。
「そうは見えないけど」
「見えない?」
「すごく……仲良さそうに見える」
「うん。ケイゴ好き」
彼女の手の平にあった花びらが風に舞う。
名残惜しそうに窓の外を眺めるに、今の自分の顔が見られなくてよかったと、日吉は後になって思った。
自分でも、どんな表情をしているかは、分からなかったけれど。
「―――最後に、図書室と、あと音楽室に行こう」
そう言って、日吉は彼女の方を振り返らずに歩きだした。
特別教室棟の最上階へ上り、まず図書室へ行こうと日吉は左へ曲がろうとする。
けれど、は何かに誘われるように反対側へと向かった。
「―――おい」
引きとめようとしたけれど、は立ち止まろうとしない。
別にどちらを先に案内しても大差はない。
日吉は小さいため息をつきつつ、彼女の後を追った。
廊下の突き当たり。珍しく扉が開け放しだったその教室に、は躊躇いなく入って行く。
少し緊張しながら日吉がその後に続いたが、教室には誰もいなかった。
壁に掛けられた作曲家たちの肖像画。
何のための教室であるか説明するまでもない。
がまっすぐ向かった先は、教室の前に置かれていたグランドピアノ。
「あ、おい。勝手に触るとまずい」
蓋を開けようとする彼女に、日吉が慌てて駆け寄った。
不思議そうに首を傾げる彼女。
「マズイ?」
「ああ、先生の許可がないと―――」
「構わない」
日吉が言いかけた時、いつの間にか奥の準備室から現れた榊の声が遮った。
「監督」
「カントク?」
「テニス部の顧問なんだよ。あと、音楽の教師。榊先生だ」
「初めまして。、です」
榊は知っている、と言った感じで頷く。
理事長が直接そのクラスの学級委員を呼び出して紹介するくらいだ、教師が知らないはずはないか。
そんなことを思いながら、日吉は緊張を鎮めようと深呼吸する。
「―――好きなだけ弾いて構わない」
いつもと変わらない無表情で榊がそう言うと、は少しだけ戸惑ったような表情をした。
初めてこの男を見て威圧感を抱かない生徒などまずいないだろう。
きっと彼女も例外ではないのだと、日吉は解釈する。
鍵盤の上に掛けられた布を取り、椅子に浅く腰掛ける。
鍵盤を一つ、ぽん、と叩く。
そんなに強く叩いたようには見えなかったのに、思った以上に音が響いて日吉は一瞬驚く。
の方は、両手を膝の上に戻し、目を輝かせている。
少しの間そのまま動かなかったが、ゆっくりと右手を鍵盤の上に載せる。
その手が僅かに震えているのは、日吉にも分かった。
緊張しているのだろうか?
そんなふうに思う彼の前で、は少しだけ顔を上げ、深呼吸する。
片手でさらりと流れるように奏でられるメロディ。
音楽のことはさっぱり分からない日吉だが、その僅かな響きで彼女が「違う」と直感する。
再び鍵盤の上でピタリと止まる右手。
はその音を一つ一つ味わうかのように目を閉じる。
息を吸う。
思わずごくりと唾を飲み込む日吉。
音楽室の入口の扉は開け放たれたままで、所々窓も開いていて、周囲の雑音は遠慮なく入り込んで来ているはずなのに、何故か、静寂に包まれ時の止まったような錯覚を覚える。
鍵盤の上を緩やかに滑り出すの右手。
それを追うように、鍵盤の上に左手が静かに乗せられて動き出す。
―――が、それは僅か数フレーズで途切れた。
クラシック音楽を聴いて胸が高鳴った経験など、日吉は未だかつてしたことはない。
けれど、そのほんの少しのフレーズで永遠にこの時間が続いて欲しい―――などと思ってしまっていた彼は、いきなりすぎるその中断に、一瞬どうしたらよいか分からなくなった。
戸惑いの表情を隠さずと、榊を見る。
普段どんなことがあっても滅多に表情を変えない榊が、僅かに眉根を寄せている。
日吉が榊の視線の先を追うと、そこには膝の上に戻されたの左手。
「―――……?」
表情の消えたはまるで白磁の人形のようで。
声を掛けてはいけない。
そんな雰囲気であるのは十分分かっていたけれど、この沈黙にも耐えられなかった。
日吉は掠れた声での名を呼ぶ。
外の賑やかな話し声が、遠くに遠くに聞こえる。
「……とても、いい音……します」
暫くの沈黙の後、榊を見上げて目を細める。
彼女が微笑おうとしていることは日吉にも分かった。
けれど、微笑おうと思えば思うほど、意志に反して瞳が揺れて―――泣きそうな顔へと変わって行く。
「―――失礼します」
日吉が扉の方を見ると、いつの間にかそこには跡部が立っていた。
まるで彼女と同調するかのような表情のない顔。
訝しげな表情の日吉の耳に、カツカツと跡部の足音が響く。
日吉の前を過ぎ、ピアノの前に立つ跡部。
「―――ケイゴ」
黙ったままじっと自分を見下ろす幼なじみを、ゆっくりと見上げる。
「大丈夫」
彼を安心させるように―――自分に言い聞かせるように、そう言ってそっと右手で左手を押さえる。
跡部の手がピクリと反応する。
そのまま彼女の頭を撫でるかと―――抱きしめるかと思った。
朝、理事長室の前で見たように。
「分かってる」
けれどその手は彼女に触れることなく下ろされ、代わりに握られた拳。
表情は変わることはなかったが、まるで痛みに耐えるかのように、それは小刻みに震えていた。