variationen 3




部活の練習がオフの放課後、鳳が部室に行くと机の上にDVDやテープが何本も積まれているのが目に入った。

「―――あれ」

ふと視線を脇に移すと、樺地のものと思われる荷物が置いてある。
資料の整理をしている最中だろうか。
言ってくれれば手伝うのに。
そんなことを思いながら、山積みになっているうちの1本を取り上げる。
ケースのラベルには、数週間前の日付と神奈川のテニス強豪校の名前。
どうやらこの前行われた練習試合のものらしい。
鳳はそれを元の位置に戻し、ロッカーの扉を開いた。

が氷帝に転入して来て二週間。
相変わらずテニス部のレギュラー陣は時間があると彼女の様子を見に行っているが、特に大きな混乱と呼べるものもなく、彼女も徐々に学校に慣れつつある。
「跡部の幼なじみ」と言うことで何か良くないいざこざに巻き込まれたりしないかと、滝たちは密かに心配していたが今のところそう言う問題も聞かない。
初めから跡部が根回ししたのか。
もしかしたら些細な嫌がらせは彼らの気付かないところで行われているのかもしれない。
ふとそんなことを思うと鳳は不安になるが―――彼女なら、大丈夫かもしれない、そんな風に楽観的に考えてしまう部分もある。
まだほんの少しの期間ではあるが、一緒に彼女と過ごして、その「しなやかさ」や「強かさ」みたいなものを感じていた。
単に可愛がられて甘やかされて育てられたお嬢様じゃない。
が転入してきたとき、とにかく彼女を守らなくては。
あの別荘での彼女を見ていたこともあって、鳳はそればかりを考えていた。
けれど、それはちょっと違うのかもしれない。
そう思うと少しだけ寂しさのようなものも感じるのだが、彼女の笑顔を見るためにもっと何かを「一緒に」したい。同時にそんな欲求も湧いてきてわくわくしたりもするのだ。

「あれ。鳳じゃん。お前も自主練?」

鳳がジャージに着替え終わりロッカーを閉める音と、部室のドアが開かれる音が重なる。
その声に鳳が振り向くと、そこには鞄を肩に担いだ向日が立っていた。

「ええ。俺は奥でちょっと自主トレをと思って。向日さんもですか?」
「俺は侑士と約束してんだ。―――って、何だ、このテープ?」

賑やかに部室に入って来た向日は、手前にあった机の上のテープ類に怪訝な顔つきをし、さっき鳳がしたようにその中の1本を掴み上げた。

「樺地が整理してるんじゃないですか?……あんまりいじると怒られますよ」

ただ、向日は1本だけじゃ物足りなかったらしい。
手に取ったそれを戻したかと思うと、別の何か面白い物を見つけだそうとゴソゴソと漁り出す。

「へー、あ、これ、俺たちが1年の頃の試合じゃん!ホント、この頃から跡部は偉そうだったぜ」

掴んだDVDケースのラベルを見て楽しそうにそう言い、もう一方の手で別のDVDケースを掴む。
そしてそれを覗き込んで、首を傾げる向日。

「どうかしたんですか?」
「いや、これ、何も書いてねーなーと思って」
「まだ整理中でラベル付けてないんじゃないですか」
「ふーん、でもさー、これだけちょっと綺麗なディスクじゃねぇ?他のは白くて色気もなんもねぇのに、これだけ色つき」
「それは……たまたまじゃないですかね……」

ため息交じりに言う鳳の言葉など、全く聞こえないかのように向日は「なんかアヤシー」とか言い出す。
そして次の瞬間にはニヤリと企むような笑い。
そのままDVDプレーヤーの方へ行き、電源を入れた。

「ちょっと見てみようぜ」
「えっ!でも―――」
「別に、この辺の資料なら俺たちが見てもいいはずだろ?」
「それはそうかもしれませんけど……」
「でもさ、どうする?樺地の秘蔵品とかだったら」
「な―――っ!」
「あ、また鳳ヤラシイこと想像しただろ」

チロリと冷たい視線を鳳に向け、向日はディスクを挿入する。
彼に抗議しようと鳳は口を大きく開きかけ―――大きなディスプレイに映った映像に、動きが止まった。

それは、どう見てもテニスの試合会場なんかではない。
目の前で淡い色のカーテンがゆっくりと靡いている。

「何だ?どっかの家か?」

向日の声は耳に入らず、鳳はその画面を食い入るように見る。
カーテンの先に、小さな人影。
撮影者のものらしき手が、その視界を遮るカーテンを除けると―――大きなピアノの本を抱えた少女が立っていた。
それはついさっきまで一緒にいた少女の小さい頃の姿だと、二人ともすぐに分かる。

「ムネヒロ!まだ駄目だよ!」
「……むねひろ?」
「樺地の下の名前ですよ」

少女が―――が頬を膨らませて近づいて来る。
そしてカメラを奪おうとして、ヒョイとかわされたらしい。天井に下がったシャンデリアが映し出される。
部屋の感じがこの前の跡部の別荘に似ていたが、微妙に違う。
たぶんロンドンにあった跡部の家なのだろう。

「もうちょっと練習してから撮って!」
「もう……大丈夫、です」
「ダメよ、だってケイゴへの誕生日プレゼントなんだから」

そう言って膨らませた頬を赤くしながら、撮影者の樺地の服を掴む
無邪気なその様子に、思わず鳳は目を細めてしまう。

「今、バースデープレゼントとか言ったか?」
「ええ……跡部さんへのプレゼントに、練習してから撮ってって言ってましたね」
「練習?」
「たぶん、ピアノ―――じゃないでしょうか」

彼女が大事そうに抱えていた本の表紙が目に入る。
ドビュッシーの「ピアノのために」。

「もうっ、ダメだったら!ムネヒロ!」

後ろに見えていた大きなグランドピアノの方に向き直り、は抱えていた本をそこに立てかける。
そして椅子に腰掛けるが、尚もカメラを回し続ける樺地をキッと睨む。
でも次の瞬間には楽しそうに目を細めて笑った。
鍵盤に手を乗せて。
鳳も向日も見たことのない彼女の明るい笑顔に、何となく二人とも照れくささのようなものを感じて顔を見合せる。
樺地は昔、彼女のこんな笑顔をよく見ていたのだろうか。
それを羨ましく感じると同時に―――殆ど笑みを見せることのない今の彼女をどう思っているのか、その痛みを思うと遣り切れなくもなる。

「私ね、この曲の中でも最後のトッカータが好き」

カメラの少し上、おそらく樺地の顔を見ながら、は鍵盤に指を滑らせる。
歯切れのよいスタッカート。
流れるように、落ちるように、指が自在に動き回り、音を紡ぐ。
繊細で、華麗で、時折その力強さにはっとさせられる。

「ここはね、アクセントをつけて、強く―――」

そう言いながら、その細い腕から、目の覚めるような音。

「でね、ここは和音を感じながら―――レガートで」

かと思えば、柔らかく綺麗な音。
クラシック音楽には殆ど興味のない向日にも、彼女の作りだす音が「特別」なものだということは感じることが出来た。

「……なんか、すげぇな……」

思わず零れる呟き。
カメラの向こうの少女は、ピアノに合わせてメロディを歌い出す。
でも自分の指の動きにその歌声が付いて行けず「あれれ?」と言って首を傾げて笑い出してしまう。
映像も少し揺れて、たぶん樺地も笑ったのだ。
が「もー!」と頬を赤くしながらこちらを見ている。
コロコロとした、耳に心地よいピアノ。
そして耳を擽るような笑い声。
鳳の見ている映像がぼやける。

「お、おいっ、鳳!?」

見上げる向日のぎょっとしたような顔で、鳳は自分が涙を流していることに気が付いた。

「あ―――」

顔に触れると、指に涙が絡まる。
ひんやりとした感覚はあるけれど、自分のものとは思えなくて手の平を眺めたまま、ただ立ち尽くす。

「どうしたんだよ!」
「す、すいません……」

慌てて椅子から立ちあがる向日の姿に、ようやく鳳はジャージの袖で頬を拭った。

「大丈夫かよ?」
「はい……何か自分でもよく分からないんですけど……」

本当によく分からなかった。
ただ、現在の彼女に同情したわけではない。
自分よりも遥かにレベルの高いそのピアノの技術に対する嫉妬と言うわけでもない。
温かい気持ち。
でも、痛い。
鳳はツキリと小さく傷んだ胸を手で押さえる。

「すまん、岳人、遅なった―――」

そのとき、部室入口のドアが勢いよく開いて―――向日と練習の約束をしていた忍足が入って来た。
間の悪い、と言うべきか。
目の前の光景に、忍足は一瞬動きを止めて目を大きく開いたが、すぐにハァと息を吐いて静かにドアを閉める。

「―――なんや、岳人、後輩イジメか?」
「な―――っ!んなワケないだろっ!!」

違うと分かっていて、わざと親友に冷たい目を向ける。
そしてその視線をそのまま大画面の方へ。
そこには相変わらず楽しそうに笑いながらピアノを弾き続ける少女の姿。
忍足が一瞬で悟るのと同時に、またドアが開いた。
今度は樺地だった。

「あ―――」

部屋に流れるピアノの音に、樺地も画面の方を見る。
普段感情の窺い知れない彼の表情が少し曇った。

「これ、樺地が持って来たんか?あかんよ、こんなんここに置きっ放しにしちゃ、岳人がすぐ見るから」
「わっ、悪かったな!」
「すいません……」

顔を真っ赤にする向日の横を通り過ぎ、樺地はDVDを止めようとする。
そしてまたふと画面に映るを見て、手を止めた。

「跡部さんに……渡そうと、思って……」
「跡部に?」
「家にあったのを、思い出して―――」

彼らの声が途切れると、ピアノの軽やかな響きが再び部屋の中を走り出す。

「こんなん、跡部に見せたら号泣やな」

忍足が肩を竦め、樺地の代わりにDVDを停止させる。
あっけなく途切れる音。
「まっさかー」と空笑いする向日の声が部屋に虚しく響いた。

「もしそうなら、そんな跡部見てみたいぜ」
「そうか?」

冗談めかして言う向日に、忍足も振り返って微笑を返す。
が、すぐにその口元が僅かに歪んだ。

「―――俺は、見たないわ」

そんな言葉を吐き出しながら。