variationen 2




教室に戻ろうと鳳たちが学食から廊下に出ると、珍しくピアノの音が聞こえてきた。
いくつかあるピアノ室は密閉されていて窓やドアが開け放しになることは殆どなく、音が漏れ聞こえてくることはまずない。
それに、この音は音楽室にあるグランドピアノのものだ。
そのことには鳳だけでなく、滝も気づいたらしく、「あれ?休み時間に榊先生がピアノ弾いてるなんて珍しいね」と音楽室のある特別教室棟の方を見る。
でも鳳はその滝の言葉に小さく首を振った。

「いえ―――たぶん、先生じゃありませんよ」
「え?でもあのピアノって、あまり生徒には触らせてくれないよね?」
「せやなぁ。……でも確かに、この音は榊先生とちゃうわ」
「そうかぁ?俺には全然分かんねーけど」

何となく難しい顔つきをする忍足を横目で見て、向日は暢気に伸びをする。
忍足も気づいているのだろうか。
鳳はいつになく真面目な顔つきをしてきる忍足の方をチラリと見る。
そんな彼と目が合うと、忍足はいつもの表情に戻って口元を緩ませ、何も言わずに鳳の肩をポンポンと叩いた。

聞いたことのない音色。
柔らかくて、優しくて。

きっと―――だ。

鳳は春の風の入り込んで来る窓から、ピアノの音の止んだ音楽室の方を見上げた。




放課後、忍足が少し遅れて部室へ行くと、まだ跡部も着替えている最中だった。
どうせ委員会で遅れた自分と同じく、生徒会か何かで遅くなったのだろう。
いつもと変わらない短い挨拶だけを済ませ、忍足も着替え始める。
最後にロッカーをバタンと閉じた跡部に、忍足はふと思い出したように口を開いた。

「―――そや、お姫さん先に帰ってたで」
「……ああ、先帰るように言ってある」
「昼休みの最後に会ったときはちょっと元気なかったようだけど、さっき会ったら普通やったわ」

ジャージの上着を着て淡々と話す忍足に、跡部は呆れたような顔をして睨む。

「てめぇは、そんなにしょっちゅうの所に行ってんのか?」
「まあ初日やし。気になるやんか」
「あいつだって何も出来ないガキじゃねーんだ。少しはほっとけよ」
「せやなぁ。……でも、放っといて取り返しつかないことになるとも限らんしなぁ」
「……」

ロッカーの前に立ったまま、ラケットを玩ぶ跡部。
着替えが終わり追いついてしまった忍足も、自分のラケットを掴む。

「まあ―――日吉を信頼しているのは分かるけどな。でも、あいつにはお姫さんのこと何も話してへんのやろ?そんなら『今』お姫さん救えるんはお前だけやないんか?」
「何のことだ」
「白ばくれるんやったら、それでもえぇけど」

忍足は肩を竦めつつ部室を出ようとする。
が、跡部の呟くような言葉に、少しだけ、足を止めた。

「別に白ばくれてるわけじゃねぇ。……どうしたらいいか、俺にも分かんねぇんだよ」

彼らしくもない弱音。
表情は弱っているというよりも、苛ついている。
どちらにしろ、彼が「分からない」と言う単語を使うなんて珍しいことに変わりない。
チラリと振り返ると、跡部はロッカーの方を向いたまま問いかける。

「―――お前は、あいつのピアノを聴いたか?」
「あの昼休みに聴こえてきた音か?やっぱりお姫さんやったんか」
「あれを聴いて―――何か気付いたか」
「まあ、ほんの数小節やったからなぁ……。ただ、その辺のお嬢さんの音と違うことは分かった。あと―――」
「あと?」
「最後に違和感があったなぁ……何やろ……」

忍足が少しだけ眉根を寄せて首を傾げると、ようやく跡部は彼の方に顔を向けた。
目元にも、口元にも、どんな感情も窺わせない顔つきで。
唾を飲み込み、忍足は一瞬言葉を失いかけたが、敢えて変わらない口調で続ける。

「俺はハッキリ分からんかったけど、たぶん―――鳳は気付いてたで」

その言葉にも一切表情は変わらず、ただ「そうか」と小さく言うだけ。
きっと跡部自身でもそれ位は予測していたのだろう。

「あいつは―――」

はぁ、とため息のような吐息。
それを吐き出すと同時に少しだけ跡部の表情が変化する。

「あいつはピアノを前にすると、すげぇ嬉しそうな顔をする。でも、それは長くは続かない」

ぐっと拳を握って。
痛みに耐えるように歯を食いしばって。

「俺は―――あいつのあんな顔を見たくねぇんだ」




跡部が部活を終えて家に戻ると、屋敷の中はいつものようにシンと静まり返っていた。
中にいる人間の数は多いはずなのに、あまり人の気配はしない。
その静寂に、僅かに落胆している自分に気付く。
既に帰宅しているはずのに、何かを期待していたのかもしれない。
―――まさか、まだ帰っていないと言うことはあるまい。
ふと、不安が過って跡部は傍に立っていた執事の方を見る。

はもう帰ってるか?」
「はい。もうお帰りです。今温室の方にいらっしゃいますよ」
「温室に?」
「ええ、帰宅なさってから、ずっと」

執事はいつもと変わらない調子でニコニコと言う。
温室は、この屋敷の中でのお気に入りの場所の一つだ。
ここに来てから半日以上そこに入り浸っていたこともあるので、特に不思議なことではない。
きっと彼女の様子もそれ程おかしくはなかったのだろう。
彼の表情がそれを物語っている。
跡部はほっと息をつきつつも、やはり実際にその顔を見るまで落ち着かない。
着替えを済ませるなり、温室へと向かった。

母屋から中庭に伸びている短い小路を抜けると、すぐそこにガラス張りの温室がある。
陽が落ち切ると、外はまだ肌寒い。
冷たい風の抜けるその道を通り過ぎ、跡部は温室のドアを開けた。
小さなモーター音と、水のサラサラ流れる音。
祖母が大事に育てている数々のバラの香りが鼻腔を擽る。



音量を抑えた声で名を呼び、温室の中央の方へと向かう。
そこは広い空間が広がっていて、高い天井には、この時間であれば月や星がよく見える。
もともと鉄製の椅子やテーブルが置かれていて祖母たちが時折そこでお茶をしていたが、が来てから小さいものではあるけれどソファも運び込まれた。
きっと今日もそこに座って空を見上げているのだろう。
そう思いまっすぐそこへ足を進める。
一瞬、あの別荘で久しぶりに会った彼女の姿が頭に過ったが、敢えて気付かないふりをして。
しかし、彼女が跡部の予想通りにソファにチョコンと座り、顔を天井に向けているのを見て、つい安堵のため息をついてしまうことは抑えられなかった。

「ケイゴ。おかえりなさい」
「―――ずっとここにいたのか?」
「うん。おばあ様と一緒にお茶をしたの」
「そうか」

跡部が隣りに座ると、はその肩に寄りかかる。
その温かさに、何故かまたほっとして、そしてもっと温かさを実感したくて彼女の肩に手を回す。
ゆっくりと目を閉じる
その表情は、朝見たものとは変らない。
少なくとも昼間に音楽室で見せた無表情ではない。

「今日は、どうだった」

核心を突いた問いを投げることが出来ない。
俺は一体何を恐れてるって言うんだ?
自分で自分を嘲笑いながら、の髪を撫でる。

「忍足とかが教室に行ってたみてぇだな」
「うん。みんな来てくれた」
「……そうか」
「クラスの子とも、話したよ。でも、ちょっと緊張した」
「ふぅん?」
「私、ちゃんと日本語喋れてるかな」
「ああ、全然違和感ないぜ」
「よかった。一日でこんなに日本語喋ったのって初めて」
「授業は大丈夫か?」
「うん……ちょっと教科書で分からない言葉があったりするけど、隣りの子とか、ワカシが教えてくれる」

の話に、微笑を零す跡部。
その彼を見上げても嬉しそうに目を細めた―――が、少しだけ疲れたような吐息。

「流石に疲れたか」
「うん。ちょっとだけ……」
「やっぱり家では英語で話すか?」
「ううん。大丈夫」

もう日常会話なら支障がない位に日本語をマスターしているとは言え、やはり慣れ親しんだ言葉ではないのでずっと使っていると疲れるだろう。
暫くこちらの生活に慣れるまでは家族皆で日本語を話そうと言うことに決まったが、そんな彼女の顔を見ると甘い言葉がついて出てしまう。
けれど、の方はそんな彼の言葉に小さく首を振った。
そしてまた目を瞑る。

「あの―――ピアノ」
「あん?」
「音楽室の、ピアノ。昔、ケイゴの家にあったのと同じだね?スタインウェイの―――」
「ああ、そう言えば、そうだな」

そう言えば跡部も入学して間もない時に音楽室のピアノを見てそんなことを思ったことがあったが、すっかり忘れていた。
なるほど、だからこそあんなに目を輝かせていたのか。
心の中で頷く跡部の隣りで、は懐かしそうに微笑い、彼の肩から頭をするすると滑らせて膝の上に落ちる。

「あのピアノ、好きだったんだ」
「お前にやるって言ったら、断ったじゃねーか」
「だって、大きくって家に入らないもん」
「そんなことねぇだろ。お前の家にだってグランドピアノ置いてあったじゃねーか」
「ケイゴの家のピアノはホール用だもん。もっと大きかったよ」
「そうだっけか?」

まあ確かにコンパクトとは言えない大きさだった。
跡部が肩を竦めると、背中を向けているはその仕草が見えているかのように、クスクスと笑う。

「ケイゴの家のピアノも綺麗な音がしたけど―――今日のピアノも、すごく、いい音―――した」

相槌を打つ代わりに、跡部はの髪をゆっくりと撫でる。
も甘えるように気持よさそうに膝の上に頬を寄せる。

「どきどき、したの」

言葉が切られ、膝の上に置かれたの手が、少しだけ強く握られる。

「―――私、弾いちゃ、だめなのかな」

背を向けているの表情を見ることは出来ない。
穏やかな声色。
けれど、微かに掠れているようにも思える。

跡部はその呟きのような問いに答えを返すことはせず、ただ髪を撫でるだけだった。