spite?
跡部が屋敷の中に入った途端、その空気がいつもと違うことに気がついた。
どことなくそわそわとした、楽しげな空気。
最近、屋敷中がこういった雰囲気に包まれることが多くなった。
それはたぶん、少し前から一緒に暮らしている少女のせいだろう。
跡部の両親は1年間の殆どを海外で過ごしているが、たまに日本に戻るときには手に持ちきれないほどのお土産を買ってきた。
そんなものではもう嬉しがらない息子のためにではなく、新しく出来た娘のようなに。
もともと跡部の父親は、ロンドンに住んでいたときから彼女のことを気に入っていた。
―――だからこそよく預かっていたのだが。
普段厳格な父親が、昔のような屈託のない明るい笑顔がなかなか戻らない彼女のために、一生懸命お土産を探している様はなかなか微笑ましい、と母親が楽しそうに話す。
私達には全然買ってきてくれないのにと言ってからかう祖母に、そそくさと書斎へ籠もる父親。
あまりからかうものじゃない、と窘める祖父も、滅多に笑顔を見せることはないがそう言うときの目は優しい。
祖父母は、ここ数年滅多に離れから出てこなかったのに、最近はまたよく母屋で見るようになった。
そしてが外出していたりするとガッカリして帰って行ったりする。
そのあからさまな様子に呆れる跡部も、帰宅したときに彼女が外出していたりすると何となく物足りないような気がしてしまうのだから同類だろう。
跡部は廊下を歩きながら、斜め後ろを歩いていた執事に鞄を渡す。
その時、女中頭の女性が横切る姿。
「お嬢さま、神崎が大きいカボチャを見つけて参りましたよ」
「……かぼちゃ?」
跡部の声に、女中頭が慌てて口を押さえ頭を下げる。
「失礼しました……。おかえりなさいませ」
「今日は一体何の騒ぎだ?」
チラリと振り返る跡部に、執事の男は困ったような、でもどこか楽しそうな笑みを浮かべて話し始めた。
「今日、お嬢さまのおやつに、かぼちゃのプリンをお出ししたんです。今日はハロウィンですからと」
「―――で?」
「はい、その時、お嬢さまがあまりハロウィンの習慣をご存じないと仰りまして―――」
「それで、大きなカボチャでジャック・オ・ランタンか」
「ええ、それと……」
執事が言いかけたとき、今度は黒い影がパタパタと二人の前を横切った。
怪訝な顔をする跡部の前で、その影が後ろを振り返る。
それは黒いフードを被っただった。
「ケイゴ?」
いつもなら彼の帰宅に笑顔を見せる少女が、今日は名前を呼んだかと思ったら逃げるようにと長い廊下を駆けて行ってしまう。
跡部は反射的にその後を追い、捉まえようと手を伸ばす。
「―――こら。何やってんだ、」
腕を掴み、彼女がふらついたところを抱きしめる。
鼻腔をくすぐる、いつもの優しい香り。
その香りに、やっと家に帰ったことを実感した跡部は、ふうと息を吐いた。
「……ケイゴ、今日早かったのね?」
「あん?早くちゃいけないのか?」
耳に心地よいクイーンズ・イングリッシュ。
結局二人で会話をするときは殆ど英語を使っていた。
最初は日本に早く慣れるためにと、誰とでも日本語で会話をしていたが、二人の時くらいは慣れ親しんだ英語でもいいだろうと言うことになった。
そんな、まるで彼女のためだけのような理由を付けているが、ただ単に跡部が彼女の発音する英語を聞きたいという我儘が本当の理由だ。
後ろから抱き締める腕を緩めると、が跡部の方を振り返る。
その上げた顔を見て、跡部は一瞬眉根を寄せた。
白い肌に、鮮やかな程の赤い唇。
一体誰だ、こいつに化粧なんかした奴は?
心の中で舌打ちする跡部。
「お前何だ、そのけばけばしい化粧は?」
「……だって、ハロウィンは仮装するんでしょう?だから、黒いフード被って、魔女になろうと思って……」
「―――ったく、余計な入れ知恵ばっかりしやがって」
隣りにいた執事が跡部の鞄を抱えたまま「申し訳ありません……」と身を小さくした。
そして一緒にも身を縮こまらせる。
「本当はもっとちゃんと準備して、ケイゴを驚かそうと思ったのに」
「当日の夜になって準備なんて遅せぇんだよ、ばーか」
口を尖らせるの頬を軽く抓る。
そんな二人の前に、今度は庭師の神崎が、オレンジ色のカボチャを抱えて現れた。
がたいのいい神崎でも重そうに抱える程の大きさに「それはやり過ぎだ」と跡部は呆れる。
全く、何でこう他愛ないイベントに、屋敷中の人間がこんなに張り切っているのだろう。
その「原因」となっている少女の頭を、コツンと小突く。
「―――大きいのは、だめ?」
「別にいいけどな。おい、ナイフは?」
制服の上着を脱ぎながらそう言う跡部。
執事はその上着を受取り、「では私が持って参ります」と少し嬉しそうな足取りで奥の方へと消えて行った。
神崎にリビングまでカボチャを運ばせた跡部は、ネクタイをやや乱暴に緩めて床に直接座る。
も彼の向かいにペタリと座り、前に置かれたカボチャを興味深げに見る。
「ナイフで、掘るの?」
「底の方を切り抜いて、中身はスプーンで取り出すんだよ」
「ケイゴ、作ったことあるんだ?」
「昔一回くらい作ったんじゃねぇか?もっと小さいヤツだけどな」
意地悪い目をしてを見ると、頬を膨らませる彼女の顔。
迫力のねぇ魔女だな、と跡部が言うと、さらに大きく頬を膨らませる。
そんな彼女の様子に小さく笑いながら、戻って来た執事が「危ないので私が―――」と言うのを制してナイフを受け取り、カボチャひっくり返して足の間にを抱えた。
固くてちょと苦戦する跡部に、心配そうに首を傾ける。
「だいじょうぶ?」
「―――かってーな」
舌打ちしながらも、の見守る横でカボチャにナイフを入れる跡部。
少し離れた所で女中頭と並んで立ち、その様子を眺める執事の口元は自然と綻ぶ。
の前でお兄さんのように振る舞う跡部は、大人びて見えて、それと同時に年相応にも見える。
使用人達が最近どことなく嬉しそうな、浮足立ったような感じになっているのは、何もだけが原因ではないのだ。
「お前には無理だ。よこせ」
中の種を取ろうと、わくわくした顔でスプーンを握る。
そんな彼女の手からあっさりとスプーンを奪い取ってしまう跡部はちょっと過保護だ。
けれど彼女に仕事を与えるのも忘れない。
「顔の下書きはお前がやるか?」
「うん」
すかさず執事から差し出されたペンで、がカボチャの表面にペンで顔を描く。
しかしあまりハロウィンに馴染みのないと言う彼女が描く目や鼻は、どこかいびつで間が抜けている。
思わず声を出して笑ってしまう跡部に、彼女は頬を赤くして睨んだ。
「お前、絵のセンスはねぇんだな」
「だって……曲線だから描きづらいんだもん」
「カボチャのせいにするんじゃねーよ」
意地悪な位に忠実に、の下書きをなぞってナイフで切り込み、跡部はカボチャの上に顔を作り上げていく。
最後に底の部分に釘を刺して蝋燭を立てる。
オレンジ色に光ってちょっと不気味で滑稽な顔をしたジャック・オ・ランタンに目を輝かせるの隣りで、手がカボチャくさいと悪態をつく跡部。
それが照れ隠しだと気付いた執事は、また口元を緩めてしまう。
「ありがとう、ケイゴ」
ジャック・オ・ランタンにくっ付きそうなくらい近づいて、跡部を見上げる彼女の目は蝋燭の灯に揺らめいてキラキラと光る。
真っ黒なフードに、真っ赤な口紅。
でもそんな扮装など、あまりには意味がないらしい。
魔女とは―――正反対だよなぁ?
床に腹ばいになってジャック・オ・ランタンを覗き込む。
跡部がその髪に触れると、フードがパサリと落ちる。
「、魔女の格好なんかして、祖母さんの所にでも行くつもりだったんじゃないのか?」
「お祖母さま?」
「違うのか?菓子貰いに行くんだろ?」
「うん。でも最初にケイゴに言おうと思ってたの」
「俺?」
「うん。ケイゴ、『お菓子をくれなきゃ』……ええと……」
ハロウィンで子供たちが口にする定番の台詞を、日本語で言おうと思ったのだろう。
けれどどうやら忘れてしまったらしく、女中頭の方を見て助けを求める。
呆れたため息と共に、跡部本人が助け舟。
「『いたずらするよ』だ」
「あ、うん、そう。ええと―――」
「Trick or Treat, 」
しかし跡部も意地が悪い。
が言い直す前に、すかさず彼の方が英語で言ってしまう。
キョトンとする。
「どうした、。お菓子がないなら悪戯するぜ?」
「―――ずるい、ケイゴ」
「ずるくねーよ。お前が迂闊なだけだ」
口の端を上げてニヤリと笑い、寝ころんでいるの鼻を摘む。
「Trick or Treat, ケイゴ」
「お前はちゃんと日本語で言えよ」
「『お菓子くれなきゃ、イジワルする』」
「イタズラだ。ばーか」
摘まんだ鼻を引っ張る跡部。
やっぱりそれイジワル!
は跡部の手を掴んで鼻から引き剥がそうとするけれど、面白がって笑う跡部はなかなか放そうとしない。
ようやく解放されたかと思ったら、その鼻は赤くなってしまっていて、思わず「あらあら」と声を上げてしまう女中頭。
勝ち誇った笑みを浮かべる跡部。
その子供っぽい表情に周囲の人間は目を細めたが、だけは例外らしい。
むくりと起き上がり、跡部を睨む。
そして彼の膝の上に手を突き、身を乗り出して、その頬に思い切り唇をくっ付けた。
キスと言うには、あまりにも子供っぽい仕草。
驚いて目を丸くする跡部に、クスクスと笑う。
「お祖母さまの所に行くまで、そのキスマーク取っちゃダメだよ?」
「てめぇ、まさか……」
我に返って頬を押さえる跡部に、わざとらしくも神妙な顔つきで手鏡を手渡す執事。
そこに映し出されたのは、予想通りの見事に真っ赤な口紅の跡。
「……ったく、本当のキスマークつけてやろうか」
跡部の小さな呟きなどには聞こえない。
―――もっとも、聞こえないように言ったのだが。
額に手を当てて深いため息を吐く跡部の腕を、ぐいぐいと引っ張る。
「ケイゴ、早く行こう?」
「分かったから引っ張るな」
きっと祖父母もこの母屋の騒ぎを嗅ぎ付けて、今頃お菓子を用意して待っているだろう。
今か今かと待ちわびている二人の様を想像すると可笑しい。
「行ってらっしゃいませ」と微笑む執事たちを一瞥し、跡部は立ち上がる。
「Happy Halloween, 」
そして自分の腕を抱くように掴むを引き寄せて、その頬にキスをした。