s-expedition 1




最近、跡部が家に戻るとよくショパンが聞こえるようになった。
ほんの少し不格好なショパン――とは言っても、ラヴェルなどに比べれば、の話だが――それが耳に入って来ると、何となくロンドンの家を思い出した。
休暇などに寮から戻ってくると、よくのピアノが聞こえて来たものだ。
やっぱり、あいつはピアノを弾いている方がいい。
執事に鞄を預けながら、跡部はそんなことを思い、口元を綻ばせる。
――しかし、彼女がピアノを弾き始めるようになって、つまらない人間がこの家には若干名いるらしい。
着替えを済ませた彼がのもとへ行く前に寄った居間には、口をへの字に曲げて一人お茶を飲んでいる祖母の姿。

「――今日もこちらにいらしてたんですか」
「あら、おかえりなさい、景吾」

孫の帰宅に嬉しそうに笑みを浮かべるが、すぐに肩を竦めて見せる彼女。
が学校から戻って来て一緒にお茶をしていたのだが、ピアノの練習があるからと早々にふられてしまったらしい。
口を尖らせる祖母は少女のようで、跡部は困った人だなと苦笑を洩らした。
昔は祖父母とも、どちらかと言えば厳格でたまに会うと怖い存在だったはずだが、隠居生活が長くなってきたせいか――それに加えて孫娘のようなが来たせいか、二人とも丸くなってきたように思える。

「では、私がお相手しますよ」
「いいのよ、景吾だってのところに早く行きたいのでしょう?」
「私では不満ですか?」
「そんなわけないでしょう!では、新しいお茶を持って来させましょう」

そう言ってメイドを呼ぶ祖母。
その間も、ずっとショパンの旋律が流れていた。



学校での調子はどうなのかとか、テニスはどうとか、跡部本人の話題を一通り終え、彼女はの様子を聞いて来た。
孫の話を聞いているときはとても誇らしげで楽しそうだったが、彼女の話になると、少し不安そうに眉を寄せる祖母。

「あの子も、何か辛いことがあってもあまり表に出さない子ですからね」

手を怪我してピアノを諦めかけた時には感情を失いかけたが、それ以前から彼女はあまり辛いことや嫌なことを表に出さない。
殊更彼女が大切に思っている人間に対してはそうだった。
昔、もっと嫌なことは嫌って言ったらどうだと跡部がに言ったことがあったが、そんな勿体ないことはしたくないのだと言うのが彼女の答えだった。
忙しい両親とあまり一緒にいられなかった彼女は、泣いたり怒ったりするよりも、笑って楽しい時間を過ごしたかったのだろう。

「何か、気にかかることでもありましたか」
「いいえ。ただ、今までいた環境とは全く違うでしょう?戸惑うことも多いと思って」
「……そうですね」

彼女が転入して来て約一ヵ月、実は問題が全くなかったわけではない。
跡部の幼なじみで、しかも同じ屋根の下に暮らしている。
それだけでも一部の女子の反感を買ってしまいそうなものだが、更に男子テニス部のレギュラーメンバーたちが事あるごとに彼女を構う。
極めつけは榊による特別扱い。
彼は昔の彼女のピアノを知っていて――そしてそのピアノを気に入っていて、そんな彼女に教えたいと言うただ単純な理由からなのだが、それを「ひいき」と言ってやっかむ人間は少なからずいる。
跡部自身は、特別扱いの何が悪いと思っている方だ。
特別扱いされるからには、才能や努力や、それなりの理由があるのだ。
それらを殺して無きものとし皆を平等に扱うことには何の意味もないと言うのが彼の考えだった。

この前、二度ほど女子のグループに呼び出されたと聞いた。
一つは忍足から、一つは滝からの情報だ。
その後日吉に、そんな話を知っているかと問いただしたところ、確かに昼休みと放課後呼び出されたらしいと話した。
どちらも日吉が目を離した隙の出来事だったらしい。
と言うよりも、日吉が離れたのを見計らって呼び出したに違いない。
何かあればすぐに言うようにと伝えてあったのに、日吉が跡部に報告しなかったのは、そこまでおおごとにすべきことじゃないと思ったからと言うことだった。
その判断は正しいと、跡部も思った。

教室に戻って来たは、いつもと変わらない様子で「大丈夫」と微笑って。
呼びだした方の彼女たちは、それ以来一度も彼女に嫌がらせや言いがかりをつけたりはして来ていないらしい。

「――泣くんじゃないかと思ったんで……正直意外でした」

率直な感想を述べた日吉。
そう思うのも無理はない、普段の彼女からはそんな逞しさなど窺うことは出来ないのだから。跡部は苦笑した。

ロンドンに住んでいる時に、も謂れのない中傷や差別は多かれ少なかれ経験して来ていたはずだった。
地元の子供たちと同じ学校に通っていたのだからなおさらのこと。
跡部でさえ、やっかみを多分に含んだ中傷は何度も受けたことはある。
それに対して自分はどんな態度であるべきか――その教育方針は、跡部の家もの家も殆ど変わらない。

「大丈夫です、が一人で解決出来ない問題は、今のところ起きていません」
「そう……ならよいのですが」

何も問題が起きていないとは言わない。
けれど跡部のその偽りのない言葉を聞いて、跡部の祖母はふうと息をついた。
暫くしてピアノの音色が途切れ、二人でおや、とピアノのある方に顔を向けると、ほどなく居間のドアが開いた。

「ケイゴ!お帰りなさい」

スコアを手に跡部のもとへ駆け寄って来るのは、嬉しそうな笑みで顔を輝かせる
わざとらしくも冷たい視線を向けて来る祖母に肩を竦めつつ、跡部は頬を寄せて来るの髪を撫でた。

「練習はもう終わりか?」
「うん、でも夕食の後にまた練習する。明日は榊先生に見てもらう日だから」
「今回は特に苦戦してるようじゃねぇか」
「うーん……あのね、連符をどこに合わせていいのか、よく分からなくなっちゃうの」

眉根を寄せ難しい顔をするに苦笑いし、跡部は再び髪を撫で、隣りの椅子に彼女を促した。
そんな二人を見て笑みを零す祖母。
彼女がもし丸くなったと言うのなら、その理由は何も一人だけではない。




「――今日はこれからピアノか?」

次の日の放課後、日吉が鞄を背に担ぎながらにそう聞くと、彼女は少し残念そうな顔をして首を横に振った。

「榊先生に用事が出来てしまったから、今日のレッスンはなくなっちゃったの」
「ふうん。ちゃんと迎えは来るのか?」
「うん、大丈夫」
「そうか。じゃあな」
「うん、じゃあね」

にっこり笑うに、日吉は小さく手を上げ、教室を出る。
もともと沢山話をする二人ではなかったが、席替えをしてからはもっと会話を交わすことが少なくなった。
けれど、朝だったり移動教室の途中だったり、こんな風にふと目が合ったときは日吉の方から二言三言話しかけた。
別に、最初に跡部や担任から頼まれたから――と言うわけでもない。
何となく彼女の視界に自分がおさまると、暫くそのままそこに留まりたくなる。

――ばかばかしい。

ふとした拍子にそんなことを思うのだが、けれど、本心からそんな風に思っているわけではないと日吉自身も分かっている。
廊下の窓から下を覗き込むと、向日と忍足が一緒に帰って行く姿が目に入って、本当にあの二人は気持ち悪い位に仲がいいな、などと少し毒づいた。

も、日吉に少し遅れて教室を出る。
そして早足で校門まで向かったのだが、いつも来ているはずの迎えの車の姿は見えなかった。
今日のレッスンが中止になったのを聞いた昼休みには、予定が変わったことを伝えたはずだったのだが。
首を傾げつつ携帯を取り出して家に電話をする
すると即座に執事の申し訳なさそうな声が聞こえて来た。
どうやら連絡の行き違いで、まだ迎えの車が屋敷を出ていないらしい。

「申し訳ございません。今からすぐ向かわせます」
「大丈夫よ、後でケイゴと一緒に帰るから」

そう言って携帯の通話を切っただが、校舎に戻ろうと後ろに向き直り掛けて――足を止めた。
電車で帰ってみようかな。
ふと、そんなことを思う。
この学校に入ってからまだ車以外で帰ったことはなかったが、一応万が一の時のためにと電車でのルートは教えられている。
電車自体にも、実は日本に来てから数えるくらいしか乗ったことがなく、しかも乗る時は必ず誰かが一緒についていた。
一人で電車に乗って帰る。
にとっては、ひどく甘美な響き。
彼女は再び携帯を鞄から取り出し、一通メールを送った。
送った相手は生徒会の会議で、そのメールに気づいたのは暫く後だった。




「じゃあ、僕は外で待ってるよ」
「ああ、すまない」

久しぶりに部活が休みの放課後、たまたま帰りが一緒になった不二と手塚は「ちょっと買いたいものがあるから付き合ってよ」と言う不二の方の誘いで駅近くの大型書店に入った。
そこで不二は早々に買い物を済ませたのだが、二人で店を出ようというときに「やはり気になる本があるので、買って来る」と手塚が言い出した。
不二は一人、本の包みを抱えて店の入り口付近に立ち、前の通りを眺める。
暫くぼんやりし見ていると、通りを挟んだ向こう側にキョロキョロとしながら歩いて来る女の子の姿。
様子をうかがう不二の前で立ち止まり、彼女はもう一度辺りをクルリと見渡すと、傍にあった街灯の鉄柱にヨロリといった感じで寄りかかった。

何かを探しているんだろうか?

不二は首を傾げつつ、彼女を観察する。
ブラウンの制服は見たことがある。
遠目なので確証は持てないが、おそらくそれはあのテニスの名門、氷帝のものだ。
綺麗な黒い髪、離れていても分かるくらいの白い肌。
近くを通り過ぎる男たちが、さりげなく彼女の方をチラチラと見る。
時折女の子まで振り返る。
確かに、どこか彼女はこのような駅前の商店街には不似合いな雰囲気を醸し出していた。

ふうと息をつき、柱に寄りかかったまま、周囲を見渡す彼女。
さらりと、黒髪が揺れる。
思わず彼女の姿に見入ってしまった不二は、買い物を終えて後ろに立っていた手塚に気づかなかった。

「――どうしたんだ、不二」
「あ、ああ、手塚。買い物終わったの?」
「ああ。……何か見ていたのか?」
「うん、見てたって程じゃないけど……こんな所に氷帝の子がいるなんて珍しいなと思って」

そう言って通りの向こう側に顔を向ける不二の視線を追い、手塚もそちらを見る。
すると確かにそこには氷帝のものらしき制服を着た少女が柱に寄りかかって立っていた。
その姿は遠くからでも、何か周囲と異なる雰囲気を纏っていることが感じ取れる。

「――確かに、珍しいな」

その手塚の声の調子から、彼がほんの僅かではあるが彼女に興味を抱いたことを感じた不二は、ちょっと驚きながらも「そうだよね」と言って笑った。
しかし二人とも興味を持ったからと言ってどう出来るものでもない。
少し名残惜しく思いながらも、二人は駅の方へと向かおうとした。
が、最後に不二がチラリと後ろを振り返る。
すると、彼女の方へ学ラン姿の男が二人、近づいて行くのが見えた。

「――あれ」
「どうした?」

二人の男に話しかけられて、キョトンとした表情をする彼女。
そして、寄りかかっていた柱から身を起こし、少し困った顔をしながら二人に何かを話している。
あれはどう見ても待ち合わせていた相手に会えたといった感じではない。
不二は立ち止まり、眉間に皺を寄せた。
手塚もそんな不二と同じように後ろを振り返り、彼以上に深い皺を眉間に刻む。
その学ランは自分たちが来ているものと同じものだった。

「ねえ、やっぱりこれは放っておくべきじゃないんじゃないかな。生徒会長としては」

くすりと笑いながらそう言う不二に、視線だけ向ける手塚。
もちろん放っておいたりなんかしないよね?
言外の言葉に、手塚は一層皺を深くしながらも、すぐに来た道を戻り、車の途切れた隙に通りを横切った。
もちろん不二もその後に続く。

断ってもしつこく言い寄っているのだろう、彼女は先ほどよりも困惑の表情を濃くしていた。
――でも、近くで見ると本当に綺麗な子だな。
不二は場違いとは知りながらも、そんなことを思ってしまう。
こんな子を平気な顔でナンパ出来るなんて、ある種尊敬に値するな。
場違いついでに、自分たちに背を向けて尚も少女に言い寄る男二人に、そんな感想。

「何をしている」

手塚のその一言で、ぴん、と空気が張り詰める。
相手に有無を言わせない空気。
手塚がいきなり「そういう」モードになったのを見て、不二は少しだけ意外に思う。
怪訝な表情を浮かべたまま手塚たちの方を振り返る二人の男。
そして自分たちの学校の生徒会長である彼を見て、表情を凍りつかせた。
同時に見上げて来た少女と目の合った不二は、にっこりと安心させるように微笑う。

「て、手塚……」
「彼女は困っているように見えるが?」
「いや、それはその……」

静かに相手を畏怖させるオーラを放つ。
決して実力行使に出たりすることはないのに、こう言う時の手塚には決して誰も逆らえない。可笑しなくらいに。
手塚の前で冷や汗をかきながら何と言い訳しようか必死に考えている二人を見て、不二は不謹慎と思いながらも小さく笑う。

「この子が困ってるみたいだったから……」

そして漸く言い訳を見つけたらしい一方の男が、しどろもどろにそう言うと、不二はあからさまに冷やかに、クスリと笑った。

「ふうん。そうなんだ」

その短い一言が止めとなったのか、それとも彼らに向けた視線が決定的なものとなったのか、二人は最後の悪あがきとばかりに小さく舌打ちし、その場を去って行った。
そんな彼らの逃げて行く様をほんの少し目で追った後、不二はもう一度その目の前にいた少女に笑いかける。
その笑みに応えるように、彼女の方もニコリと微笑んだ。
制服の胸の部分には、氷帝の校章。
資産家の子息子女が多く通うという学校には、やはりこう言う子も多くいるものなんだろうか。
思わず見とれてしまいそうな程のその微笑に不二はそんなことを思う。

「大丈夫?」
「はい。あの、ありがとうございました」

ペコリと頭を下げる彼女。
その声までイメージ通りの「鈴の鳴るような」とでも表現したくなるようなもので、不二は感動を通り越して苦笑を浮かべてしまった。
世の中には実際にこんな子がいるんだな。
チラと見上げた手塚も似たようなことを思ったのか、やや困ったような顔をしていた。

「駅までの道をお聞きしたかったのですが、あの……遊びに行こうとばかり、仰って」

恐らく自分たちよりも年下であろう、少し幼い姿。
何か確かめながら話す言葉はゆっくりだったが、綺麗だった。
しかし、その話の内容に二人は訝しげな顔をする。

「駅?……もしかして、きみ、迷子なの?」
「はい……あの、色々見ながら歩いていたら、いつのまにか知らない所に来てしまっていて……」
「まさか、氷帝からここまで歩いて来たの?」

コクリと小さく頷き、うっすらと頬を赤く染める彼女。
聞けばいつも学校から家までは車を使っているので、初めて歩く街並みが珍しく、色々歩き回っているうちに道に迷ったらしい。
確かに歩けない距離ではない。
彼女の行きたかった駅は全くの反対方向だが。
色々なことに言葉を失う二人。

「さて……そうだな、君の行きたい駅はちょっと遠いから、すぐそこの駅からバスに乗った方がいいかな」
「バス?」
「うん。……バスには乗ったこと、あるよね?」

思わずそんな質問をしてしまう不二。
我ながら馬鹿げた問いだと分かっていながらも、彼女ならありえる気がした。
恐る恐ると言った口調の彼に、彼女もまたどこか恐る恐ると言った感じで頷く。

「ロンドンでは……」

二人は内心頭を抱えた。