variationen 5






音楽室の鍵を開け、ゆっくりと扉を開ける。
そして部屋に入り後ろ手に扉を閉めると、瞬く間に静寂がの周りを取り囲む。
音と隔てられた空間で、はそっと深呼吸し、奥にあるグランドピアノの方へと向かった。

早く弾きたいと言う気持ちを敢えて抑えて、慎重な手つきで大屋根を半分開く。
次に鍵盤の蓋を開き、音が出ない程度の強さでそろりと撫でる。
それから漸く椅子を引き、浅く腰掛けた。
この前と同じように、右手を鍵盤の上に載せ、高音域へと走らせる。
その鮮やかな音にもう一度深呼吸をして、今度は左手も鍵盤に載せた。

一瞬迷った後、奏で始めたのはバッハのイタリア協奏曲。
数年前、が参加したピアノコンクールの二次予選の課題曲だった。
上位入賞は適わなかったけれど、国外のコンクールに参加したのは初めてで、印象に残っている。
バッハの曲をあんなに長期間真剣に練習したのも初めてだったので、そう言う意味でも思い出深い。
決していい思い出ばかりではない。
寧ろつらい記憶の方が真っ先に思い出される。
どんなに練習しても、なかなか先生の言うとおりに弾けなくて、バッハが嫌いになりかけたほどだ。

僅かに左手の薬指が邪魔をして縺れたようになり、は目を細める。
けれど気にしないようにして引き続けた。

素晴らしい演奏だった。

さきほどの榊の言葉が不意に頭の中によみがえる。
バッハは一音欠けただけでもバッハでなくなってしまう。そんなことをよく言われる。
やはり今の自分のバッハは―――バッハではないんだろうか?
彼が今聴くとがっかりするのだろうか。
あの幼なじみは―――?

目を閉じる。

「―――でも、私は今もバッハが好き」

小さく呟く。
声に出して言葉にすると、一層その感情が湧き上がってくる気がした。
第二楽章から第三楽章へ。
落ち着いた緩やかなテンポから一変、一気に加速する。
音が指から零れ落ちるように、口元にも笑みが零れ出す。




鳳は一瞬空耳かと思った。
部室で彼女の映像を見て以来、気が付くと彼女とピアノのことばかりを考えていたから幻聴が聞こえたのではないか?そんなことを思い、廊下の真ん中で目を瞑る。
しかし、それは幻ではなく、ほんの微かな音ではあるけれど確かにピアノのメロディが聞こえてきた。
音楽室だろうか?
恐らく締め切られているだろう部屋から漏れ聞こえるほんの少しの音を頼りにするしかなく、この前程の確信もないまま、隣りの建物を見る。
今は職員会議のはずで、榊が弾いているとは考えられない。
とすると―――

落ち着かない手つきで、制服のポケットから携帯を取り出す。
ディスプレイに呼び出したのは、この後一緒にテニスの練習をする約束をしていた宍戸の番号だった。
いつもと様子が違って、何だか忙しない口調の後輩を訝しげに思いながらも、宍戸はキャンセルの申し出を黙って承諾した。

「すみません……すごく、大事な用事が出来てしまったんです」
「ああ、気にするな」

何も聞かずそう言ってくれる先輩に感謝しつつ、鳳は通話を切る。
そして一回、大きく息を吸って―――音楽室へと向かった。



扉の前まで来ると、はっきりとバッハの溌剌とした演奏が聞こえてくる。
この前聞いたドビュッシーとは少し雰囲気が違ったけれど、きっとに違いない。
思い切ってその扉を静かに開けた。

途端、全身を取り囲むピアノの音色に、鳳は目眩のようなクラクラとする感覚に襲われて自分の身体を抱きしめる。
目を閉じると、心臓が高鳴っていることに気づく。
ドキドキと少し苦しくて―――でも、心地よい。

は前から歩いて来る鳳にも気付かず、ただただ夢中になって音を紡いでいた。
時折目を閉じて。
僅かに眉根を寄せて。

鳳の目の前で、この前感じた違和感が、確信に変わる。
左手で奏でられる音の一部が、綺麗に抜けていた。
しかしそれに気づいても、胸に痛みは感じずに鼓動は大きいまま。
そんな自分を少し意外に思いながら、から少し離れた場所で立ち止まった。
大屋根から覗き見えるハンマーの動き。
小さい頃はこの動きを見ているだけで、何となくワクワクしたものだった。

そんな昔の記憶と共に目で追い続けていると、不意にその動きが止まる。
その音と動作がずっと続くような錯覚を感じていた鳳は、ちょっと驚いた顔をして、の方を見た。
すると彼と同じようにちょっと目を大きく開いている彼女の姿。

「チョタロウ?いつからいたの?」
「あ、ご、ごめん……えっと、三楽章が始まった辺りから……」
「そうだったんだ。全然気がつかなかった」

そう言って、大きく開いていた目を今度は細めてニコリと笑った。
無意識にか、膝の上に置かれた左手を庇うように右手が添えられている。
でも表情は穏やかで、鳳は小さく息を吐き、彼女の元へと歩み寄る。

「"Concerto nach Italienischem Gusto"―――だね」
「うん。昔ね、コンクールで弾いたことがあるの。チョタロウは弾いたことある?」
「イタリア協奏曲はないんだ……フーガとか……ゴルトベルク変奏曲なら練習したことあるかな」
「Goldberg!」

鳳の口にした曲名に、は嬉しそうに目を輝かせる。
そしてゴルトベルクの初めの数小節を右手で奏でた後、再び鳳の方を見た。
少し躊躇ったけれど、その彼女の笑顔に促されて後ろに回りこみ、椅子に腰を下ろした。

は、どのヴァリエーションが好き?」
「うーんと、たくさんあるけど―――これが一番好き」

軽快に奏でられたのは、第六変奏。
予想通りの返答に、鳳は思わず笑みを漏らす。

は速いから、俺、ついて行けるかな」
「速い?そう?」
「ドビュッシーの"Pour le piano"のトッカータもジェットコースターみたいだったよ」

何のことだろう?とキョトンとした目をするに構わず、鳳は鍵盤に左手を置いて数小節弾いてみる。
その鮮やかなピアノの音色にちょっと驚いて、彼もまた目を見開く。

「この曲はもう少しゆっくりめが好き」

鳳の表情に笑みを浮かべるは、手を鍵盤から少し離して上に持ち上げる。
そして隣りの鳳を見て、彼が同じように鍵盤に手を置き直し小さく頷くのを確認すると、すうと大きく息を吸った。

「やっぱり速いよ!」
「あれれ?そう?」

弾き始めてすぐ、その音の響きに感嘆する間もなくテンポの速さに抗議する鳳。
は首を傾げて笑いながらも、それを落とす様子はない。
彼女のその歯切れのよい音に合わせようと、鳳は必死について行く。
一方、の方も初めて二人で奏でる音に夢中になって行く。
あっと言う間に第六変奏が終わってしまうと、何も言わずに続けて次のヴァリエーションを弾き始める。

、ちょっと待って!」

次々と続くヴァリエーションに移って行く彼女に鳳は根を上げる。
けれどは可笑しそうに笑うばかり。
そんな彼女はいたずらっ子のようで、一生懸命につかまえようと追いかける。
追いつきそうで追いつかない。
鳳もまた夢中になりながら、今までに味わったことのないような感覚を楽しんでいた。

そして、いくつか弾き終えた時、鳳がふと顔を上げると、入口近くに見える人影。

「―――あれ」

思わず言葉を発すると、も手を止めて顔を上げた。

「ユウシ!」

がそこに立っていた忍足の名を口にすると、その彼の背後から向日の声。

「あ、見つかっちった」
「別に隠れてたわけじゃねーだろ」

続く声に、鳳は慌てて椅子から立ち上がった。

「あっ、すっ、すみませんっ!宍戸さん、俺……っ」
「ああ、いいって。気にするな」
「穴戸が鳳にドタキャンされたって聞いてな。もしかしてここにおるんやないか思て来てみたんや」

そう言って忍足の見せる笑みは、少しだけ意地悪そうに見える。
赤くなって俯く鳳を、隣りのは不思議そうに見上げた。

「ピアノ、が弾いてたんだね」

少し離れて後ろに立っていた滝が、の隣りまで来て彼女の頭を撫でる。
すると彼女は少しくすぐったそうに目を細めて頷いた。

「ワカシと話をしていたら弾きたくなって、先生にお願いしたの」
「そう。綺麗な曲だね、ゴルトベルク変奏曲―――だっけ」
「あー……なんか聞いたことある。でももっと眠くなる感じじゃなかった?」
「そう言えばこの前授業でアリアの部分だけ聴いたな。でもジローにとったらどれも眠くなるやろ」

そんなことないよと芥川は反論するが、欠伸をしながらでは説得力がない。
やれやれと肩を竦める忍足を宥めるように、滝が微笑った。

「鳳は何だか引っ張り回されて目が回ったみたいだね」
「はい……何だか普通の4倍くらいの速さのメリーゴーランドに乗ったような感じです」
「そんなに速くないもん」
「鳳はどちらかと言うとゆったりした曲が得意だったよね」
「そうなの?」

滝の言葉に、はちょっとシュンとした顔つきで鳳を見上げる。
そんな彼女を安心させるように鳳は微笑を浮かべた。

「ゴルトベルクは好きだよ。今度弾くまでにはもうちょっと練習してくるから」
「じゃあ、私も、チョタロウの好きな曲を練習してくる」
「うん」
「俺もゆったりした曲が好きー」
「それは子守唄になるからやないんか」

シシと笑う芥川にため息をつきながら、忍足ものもとへ。
自分をじっと見上げて来るを、忍足も見下ろす。
鳳との連弾の興奮が冷めきらないのか、僅かに紅潮した頬。
転校初日に見た翳りは殆ど窺えない。
―――けれど、その翳りが完全に取り払われることはないのだろう。

「―――、ピアノは好きか?」

優しい、低い声。
はその短い問いに、すぐに答えることが出来なかった。
一瞬、音楽室に広がる沈黙。
自分の目をじっと見つめたまま口を噤む少女に、忍足は問い掛けるように少しだけ首を傾げて見せる。
誰も、口を開かず、彼女を見つめる。
一つの答えを期待しながら。
の視線が、ゆっくりと忍足から手元の鍵盤へと移される。

「―――すき」

微かに震えた指が、白鍵と黒鍵をなぞる。
瞼を閉じ、深呼吸して―――再び静かに目を開く。

「ときどき、痛むときがあるけど―――私、ピアノが好きよ」
「そうか」

また自分の方を見上げ、微笑む
忍足は、よく出来ました、とばかりに彼女の頭を撫でた。

「好きなもんは止められんよな―――跡部」

ドアの脇に立ち、さっきから一言も言葉を口にせず、腕を前で組んだまま微動だにしなかった彼女の幼なじみ。
忍足の問いかけにも暫く反応を返さなかったが、ふんと小さく息を吐き、壁から身を起こした。

「そうやろ?」

だめ押しのように跡部を見て微笑う忍足。
その友人を睨みつつ眉根を寄せて、今度は遠慮せずに盛大なため息をつく。
そして観念したかのように組んでいた手をほどき、の方へとゆっくりと歩み寄る。
じっと自分を見上げる
いつもとはちょっと違い、恐る恐ると言った感じで口を開く。

「―――ケイゴは、私のピアノ、好き?」

不安げに瞳を揺らして。

馬鹿なことを聞く。
の台詞にすぐにそんなことを思う跡部。
でも、自分が彼女にそんなことを言わせているのだろう。
チラリと忍足の方を見れば、予想通りの意地悪そうに上げられた口角。

が傷つく所を見たくない。
そんなエゴが、彼女を殺そうとする。自分の意思にかかわらず。

傷ついてもいいのだ。
その手を自分さえ離さなければ。
あの時そう思ったはずなのに、いつの間にか、彼女の笑顔だけが見たいと言う欲求にそれを忘れかけていた。
ふと、笑みを漏らす。

「ばーか。当たり前だろ」

跡部は、やや乱暴にの頭をぐしゃぐしゃと撫でた。




「―――の出たピアノコンクールで審査員やってたらしいぜ」

不意に口を開いた跡部に、忍足は文庫本から目を上げて彼の方を見る。
しかし跡部の方は手元の書類から目を外さないまま言葉を続けた。

「榊監督。……もう何年も前の話だが」
「そうなん?」
「今度、ショパンの練習曲を教わるらしい。そのコンクールでショパンは下手くそだったらしいな」

確かに、あいつは昔から何故かショパンはあんまり得意じゃねぇんだよ。
跡部はフンと息をつき、持っていた書類を脇にあった箱に投げ入れる。
面倒くさそうにも見えるそんな彼の動作に忍足は肩を竦め、再び文庫本の方に視線を戻した。
放課後の生徒会室。
部活がオフだったので忍足はHRが終わってすぐに帰ろうと思ったのだが、途中で生徒会室に向かう跡部に会い、気まぐれでついて来た。
来客用のソファに座る頻度が一番高いのは、実はこの男かもしれない。

「そんで?姫さんは今日はもう帰ったん?」
「ああ―――今日はうちのお袋と買い物の約束してたからな」
「普通の女の子みたいやな」
は普通の女だ」
「そうか?」

ジロリと睨むが、忍足の方は文庫本から目を離さず小さく肩を竦めるだけ。
跡部は不満げな顔つきのまま頬杖をつき、次の書類を手に取った。

「―――一応、礼を言っとく」

独り言のような、小さな呟き。
忍足は視線だけを僅かに上げたが、跡部が自分の方を見ているわけもない。
すぐに視線を戻す。

「どういたしまして」

眼鏡を指で押し上げて、やっぱり呟くような声。

「ガキ、だよな」

言葉を続ける友人をちょっと意外に思いながら、忍足は少しだけ口の端を上げる。

「当たり前や。自分、いくつや思てんねん」

その言葉に、自嘲気味に笑う跡部。

「ガキになりたくなくて、余計ガキになってりゃ世話ねぇな」
「そう言うお前も、まあ可愛くてええけどな」
「気色悪い言い方すんじゃねぇよ」

その内容とは裏腹に、浮かべた笑みを楽しげな、少し清々したようなものに変えて。
跡部は最後の書類を箱に投げ入れた。