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「―――部。跡部」

自分の名を呼ぶ声に、跡部はゆっくりと目を開く。
ソファに寝そべっていた彼を覗き込んでいるのは、何故か眼鏡を外している忍足。

「……お前の声は寝覚めが悪い」
「起きた早々なんちゅう言い草や」

だるそうに起き上がり、眉間を手で押さえる。
ほんの少し出来た空き時間に目を瞑ったら、どうやら本当に寝てしまったらしい。
忍足が部屋に入ってきたことに全く気がつかなかった。
ソファの背もたれに手を掛けていた忍足は、ポケットに挿していた眼鏡を取り出して掛ける。
そして少し意地悪い笑み。

「のんびり寝てると、お姫さん取られてまうで」
「あん?」

跡部が睨むと、その視線をかわすように忍足は部屋の外に顔を向ける。
訝しげに思う跡部の耳に入ってきたのはピアノの音色。
それは聞きなれたのものと―――おそらく鳳のもの。

学校の音楽室や跡部の家のこのピアノで、と鳳はよく連弾する。
は右手のパート、鳳は左手のパートを。

の音色はコロコロとしていて特に今弾いているモーツァルトのような曲では音が踊っているようで、でも彼女の手から離れずに繊細で。
鳳もその体に似合わず繊細な音を出すけれど、に比べればやはり豪快な感じで華やかだ。
二人の音は決して似ているとは言えないのだけど、今のように連弾をするとお互いの良いところが絶妙なバランスで融合して鮮やかな音色になる。
跡部もピアノが弾けないことはないが、これはあの二人にしか出来ない。
その音に聞き惚れるのと同時に、滅多に感じない感情が跡部の中に湧き上がることが常だった。

「奥の控え室は二人のリサイタル状態や」
「ふん」

きっとこの男はそんな跡部のことを知っていて敢えて意地悪な台詞を吐く。
近くにあった椅子の背に掛けられていたネクタイを手渡してくる忍足に向かって、わざとらしく鼻で笑ってみせる。
シャツのボタンを閉め、ネクタイを首に回す。
その、誰でもする何気ない行動が、どことなく洗練されて見えるのは、やはり育ちのせいだろうか。
今さらながらそんなことを思いつつ、忍足はさっきまで跡部が横になっていたソファに腰を下ろした。

「もう皆揃ってるのか」
「ああ、テニス部の連中は全員来てたみたいやけど。しかし今年も盛大やなぁ、不景気って言葉はこの屋敷には関係ないんやな」
「イヤーエンドパーティーくらい景気よくやらねぇと、来年までしみったれちまうだろうが」
「そんなモンか?ま、うちらは美味い料理と別嬪さんが拝めてありがたいけど」
「後者はてめぇだけだろうがな」

呆れ顔の跡部のことなど気にならない様子で、忍足は笑みを浮かべたままジャケットを手渡す。
全部忍足が手伝ってしまうので、後ろに控えていた執事は仕事を奪われて苦笑い。

ピアノの音が止み、拍手が聞こえてくる。
確かに、すっかりリサイタルになってしまっているらしい。
ジャケットに袖を通し苦笑する跡部は、忍足とともにそのリサイタル会場へと向かった。

パーティー会場だと言われても不思議でないほどの豪奢な控え室の主役となっていたのは、思ったとおりだった。
もちろん先ほどまで弾いていたピアノが素晴らしかったということもあるだろうが、おそらく客の関心は彼女自身にあるのではないだろうか。
クリーム色のふんわりとしたドレスに身を包んだ彼女。
この姿に一瞬でも目を奪われない人間がいるのならば、一度会ってみたいものだ。
思わず目を細める跡部に、が気づく。
途端、多くの大人に囲まれて、鳳の服の袖を掴みながら戸惑いの表情を浮かべていた彼女が、ぱっと目を輝かせる。

「―――忍足、お前の言ってたことは、どうやら杞憂みたいだぜ?」

こちらへ駆けて来るに視線を向けたまま、隣りの忍足にそんな台詞。
その余裕の笑みに「腹立つわ」と呟き、忍足は肩を竦める。

「ケイゴ!」
「そんなに勢いよく抱きついてきたりしたら、せっかくのドレスが皺になるぜ?」

そう言いながらも、自分の背中に手を回すを引き離そうとはせず、その髪を撫でる。
跡部の視線はにばかり向けられて、その目の前にいる鳳の寂しそうな微笑には気づかない。
―――いや、敢えて気づかないふりか。
やれやれとため息をつく忍足は「はいはい、今日は英語禁止や!」と手でバッテンマーク。

「あーん?何だよ、忍足」
「お前らが英語使い出すと、向日に通訳せなならんから面倒なんや」
「お前は向日を甘やかし過ぎだな」
「その台詞、そっくり自分に返したる!」

握りこぶしに力をこめて叫ぶ忍足のもとに、噂をすれば―――と向日と芥川がやって来る。
そして鳳の後ろには、同情するように彼の肩に手を置く宍戸。
着慣れないスーツに、ただでさえ無愛想な顔つきなのに更に不機嫌そうな窮屈そうな表情。
案外タキシードなどを普通に着こなしてしまうのは、いつも跡部と一緒にいる樺地だったりする。
今年初めて跡部家のパーティーに参加した日吉は、やはり落ち着かないのか宍戸の不機嫌顔といい勝負。

「せっかくいい機会なんだから、向日も英語で話してみたら?」
「むちゃくちゃ言うなよ、滝!」
「これからの世の中英語くらい出来んとなぁ」

明らかに嫌がらせとしか思えない滝と忍足の言葉に、そっと鳳の影に隠れる宍戸。
彼は英語が嫌いと言うわけではないが、英会話はどうも苦手で、授業でも無駄に緊張してしまう。
ただでさえ居心地がいいとは言いがたい空間で、この上英語で話せなんて言われてはたまらない。

「それよりの日本語覚えるほうが先だろ!こいつまだ漢字とか全然ダメじゃん!」
「そうか?岳人とええ勝負ちゃう?」
「んなワケねーだろ!俺は『大安』とか知ってるぜ」
「……どんな自慢や」
「でもそう言う言葉とか、あと四字熟語なんかは僕達でもそんなに知らないよね」
「馬耳東風とか」
「それは自分のことか、ジロー」

良く言えば子供らしい、悪く言えば氷帝のレベルを疑われそうな会話をする彼らに、跡部の表情が引き攣りかける。
その彼の腕に手を添えていたが、「四字熟語」と言う言葉にちょっと嬉しそうな顔をする。

「あの、私、この前新しい四字熟語覚えた」
「ほう?何や?」
「ユイガドクソン」
「……誰に教わったん?」
「ワカシだよ?」
「何か悪意を感じるな」
「考えすぎですよ、忍足さん」

忍足の疑いの眼差しに、しれっとした顔の日吉。
跡部、実は気をつけなならんのは、鳳よりもこの日吉の方かもしれへん。
そんな忍足の心の呟きなど跡部に聞こえるはずもなく「わかったわかった」と手を上げて降参のポーズ。

「今日は日本語だけにしてやるよ、のためって言われたら仕方ねぇからな。その代わり忍足、てめぇも関西弁は禁止だ」
「はぁっ!?」
「てめぇが似非関西弁でべらべら喋ると、まで真似し始めんだよ」
「ええやんか!女の子の関西弁は可愛いで?なあ?」

ニッコリ忍足に微笑まれて、もつられて同じように「なあ?」と言って首を傾げる。

「―――てめぇは学内でも関西弁禁止にしてやる」
「それは職権濫用やろ!」
「じゃなかったら、と口きくんじゃねぇ」

本当に、のこととなると、いつにも増して無茶苦茶なことを言う。
そして、たちの悪いことに跡部自身にそんな自覚など全くないのだ。
そんな跡部に肩を竦めつつ、滝はうーんと唸りながら腕組み。

「でも忍足が標準語話してるところって見たことないな」
「馬鹿にするな。俺だって標準語くらい話せる」

眼鏡を指で持ち上げ、無駄にカッコつけて話す忍足に、向日は大げさに「へーっ!」と感心してみせる。

「じゃあ、今から関西弁喋ったら罰ゲームってどうよ?」
「あかん!そんなん無理や!」
「あーあ、もう罰ゲーム決定じゃん」

そんな漫才のようなやり取りに、クスクスと可笑しそうに笑う
はこの家にやって来てから随分と笑うようになった。
それはもっぱらこのテニス部のメンバーのおかげだろう。
他愛ないこんな会話にまざり、可笑しそうに笑ったり、驚いた顔をしたり、呆れた顔をしたり、時たま怒って頬を膨らませたり。
きっとまた年明けに彼女の母親が会いに来たとき、自分の娘の変化に喜ぶだろう。
ほんの少しの嫉妬とともに。
跡部も彼一人ではこんなに早く彼女の笑顔を取り戻すことは出来なかっただろうと思う。
だからその母親の嫉妬は、彼にも少し理解できる。

「景吾さま、皆さんお揃いになりましたので、そろそろ会場の方へ―――」

その執事の言葉に短く返事をし、軽く肘を曲げて腕を差し出せば、ごく自然な仕草でその腕に手を添える
普段はどちらかと言えば可愛らしい印象ばかりの彼女だが、こんなときはその優雅な立ち振る舞いに皆が目を奪われる。
昔からそう言う場に出ることが多かったから場馴れしているだけだと、いつか跡部が話していたが。
それだけにしては、随分と満足そうな彼の笑み。

!あっちに美味そうな料理あるから行こう!」

しかし跡部のエスコートはほんの一瞬で終わってしまい、ホールに入ってすぐ、料理を目ざとく見つけた芥川が彼女の手を引っ張って奥の方へと連れて行ってしまった。
そんな彼の子供っぽい強引な様子は、自分たちとは違う世界に連れ去られそうな彼女を一生懸命自分たちのところに引き留めようとしているようにも見えて、跡部たちは苦笑い。
早速芥川が料理を皿いっぱいに盛り付け、ソファに座らせたのもとに次々と運ぶ。

「あー……、お姫さん、あんなには食い切れんやろ」
「でもはもうちょっと太った方がいいと思うけど。腕とか脚とか細すぎない?」
「せやなぁ。でもきっとこれから女っぽく肉付きよくなっていくんちゃうか?」
「おっ忍足さん!変な表現はやめて下さい!」
「なんや、鳳。またやらしいことでも考えたんか?」
「―――てめぇら、好き勝手言ってんじゃねぇよ」

跡部がジロリと睨むと、三人はそそくさとたちのもとへ。
「とりあえず俺たちも食うか!」と言う向日の声に、他の者たちも動き出す。
やれやれと深いため息を吐きだした後の跡部の口元にも、やはり笑みは零れてしまう。
毎年開かれるイヤーエンド・パーティーに、テニス部のメンバーを招待するのはこれで三度目。
この、妙に気取って畏まった空間が、彼らによって居心地の悪くないものへと変えられる。
またきっと来年も彼らと一緒に過ごすことになるだろう。
そんなことを考えてしまう跡部は、自分の気の早さに呆れてしまう。

父親たちと共に、来賓と挨拶を交わす。
その合間にチラリと皆の姿を探すと、がソファの肘掛にしがみつくような恰好で可笑しそうに笑っていた。
どうせ後ろに立っている忍足と、隣りに大股で座っている向日が変なことを言ってるんだろう。
ソファの横で呆れた顔をしながら腕組みをしている宍戸と、苦笑いをしている滝の表情から想像はつく。
そしてあの日吉の顔は、きっとまた向日たちに毒舌を吐いているに違いない。
その少し後ろで、にデザートを渡すタイミングを計っている樺地。
ジュースを飲みながらにこにことを見ている鳳。
隣りの小さなソファで、もう居眠りしている芥川。
彼らを一度見つけてしまうと、跡部は目の前の人々と会話をしながら、どことなくソワソワと落ち着かなくなる。

「日本に戻って来てからの景吾は、とても楽しそうよね」
が来てからは特にね」

そんな跡部に気づいている母親と祖母は、最後に自分たちのもとへやってきた彼に、そう言ってふふ、と笑う。

「ほらほら、早く行かないと、あの背の高い彼に取られちゃうわよ?」
「―――忍足みたいなことを言わないで下さい」

二人は、最近よくピアノを弾きにこの家に来る鳳を知っていて、彼がに好意を抱いていることも当然のように知っている。
鳳は自分ではそんなつもりはないようだが、その態度から周囲の人間にすぐ気持がばれてしまう。
まさかこんな所で自分の名前が出ているとは思いも寄らないだろう鳳は、今もの傍で幸福そうな笑顔。
その彼を見て「可愛いわねえ」と微笑みあう婦人たち。
少しだけ鳳が気の毒に思いながら、跡部は二人のもとを後にする。

「あ、跡部ー、この肉美味しいよ」
「目が覚めたのか、ジロー」

いつの間にか目の覚めた芥川が、青いリボンの付いた骨付き肉を頬張っている。
どうやら樺地は無事にデザートを渡せたらしい。
の手元には、半分食べかけのショートケーキ。

「ケイゴ、このケーキも美味しいよ?」

そう言ってニコリと微笑むの頭を撫で、跡部は通りかかった給仕から飲み物を受け取る。

「今、に四字熟語を教えてたんやけどな」
「……まだそんなことしてんのか」
「『温厚篤実』の意味で、俺みたいな人のことやって言うたら、こいつら皆非難轟々なんやけど」
「そりゃそうだろ」
「納得いかんわー」

ぶつぶつ言う忍足の横で、日吉がすすっとの傍へ行き耳打ちする。

「尊大不遜って言葉も覚えておくといい」
「ソンダイフソン?」
「温厚篤実と対になってるような言葉で―――この中で誰とは言わないけど」
「……やっぱり何か悪意を感じるぜ、日吉」
「向日さんまで、考えすぎですよ」
「ケイゴみたいな人のこと?」
「姫さん、ストレート過ぎやで……」
「尊大不遜のどこが悪いんだ?あーん?」
「じゃあ、オンコウトクジツって、チョタロウみたいな人?」
「……何でそこで俺の名前やないねん」
はストレートだからな」

そんな取り止めのない会話を続けていると、ふと、音楽の生演奏が止む。
途端に会場の雰囲気が、少し浮き足立ったようなものに変わっていく。

「ああ、もうそんな時間か」

時計に視線を落としそう呟く跡部に、はキョトンとした顔。
このパーティーに初参加の日吉も、会場の空気の変化に首を傾げる。

「じゃあ姫さん、俺と手ぇ繋ごか」
「だめー!は俺と繋ぐの!」

に差し出された忍足の手に、噛み付きそうな勢いの芥川。
一体何事だろうとは跡部を見上げる。

「毎年、一緒に新年を迎えたいヤツと手を繋いでカウントダウンをするんだ」
「手を?」

芥川と忍足が言い合いしている隙に差し出された跡部の手を、はあっさりと握ってソファから立ち上がる。
これでの右手は埋まってしまった。

「跡部!それは卑怯やないか!?」
「なにが」
「おいおい、そんなこと言ってっとカウントダウン始まっちまうぜ?」

呆れて言う宍戸に、「でも今のは卑怯やろ!」と尚も食い下がる忍足。
が跡部の腕に着けている時計を見ると、0時まであと5分。

「私、みんなと一緒に迎えたい」

ちょっと困ったような顔をしながらそう言うに、滝は「そうだよね」と微笑う。

「でも全員と手ぇ繋ぐなんて無理だろ?」
「じゃあ、皆で輪になって繋ぐとか」
「……俺、パス」

滝の提案に、そんな恥ずかしいこと出来るかと言わんばかりに宍戸は顔を背ける。
しかしそんな彼に滝は容赦ない突っ込み。

「でも前回はしっかりと鳳の手を握ってなかった?」
「あ、あれは、その場の雰囲気で―――っ!」
「おい、もう時間ないぜ?」
「はいはい、宍戸のことは放っておいて手繋ごっか」

そう言って滝は鳳の腕を掴み、と手を繋がせる。
楽しそうに笑って、きゅっと握り返してくるに顔を真っ赤にする鳳。
滝も別に誰の応援をしようと言うわけではないけれど、彼のこういう顔を見ると、これくらいはしてもいいんじゃないかと思ってしまう。
「鳳、ずるいー」と言う芥川も、大人しく滝と手を繋ぐ。

「何が悲しくて野郎と手なんか繋がなならんのや……」
「じゃあ、てめぇは外にでも行ってろ」

向日と樺地と手を繋ぎ、往生際悪くぶつぶつと言う忍足に、冷たく言い放つ跡部。
演奏者たちが再び楽器を構え始める様子が、の目に入る。
新しい年を迎えるとき、こんなにわくわくしたことがあっただろうか?

「おっ!始まるぜ!」

思わずが、繋いでいる手に力を込める。
これからもずっと皆と一緒にいられますように。
そんな願いをこめて。

「5!、4!、3―――」

カウントが始まる。
跡部と鳳も同じようにぎゅっと手を握る。

この一年も皆と笑って過ごせるように。
共にそんな願いを抱きながら。