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軽井沢の別荘でレギュラーメンバーのみを集めて行っている合宿。
その午後の練習を終えて跡部が自室に戻ると、暫くして執事が控えめなノックとともに訪れた。

「景吾様、様からお電話が入っております」
「―――?」

その名前を聞いて、思い浮かべた顔は一つ。
小学生の頃、ロンドンの家で何度か会ったことのある少女。

彼女の両親は家を空けることが多くて、そのたびに跡部の家に預けられていた。
けれど、跡部も全寮制の学校に入っていたから、たまに帰る週末や長期休暇の時にしか会う機会はない。
しかも彼女はいつもピアノを弾いていて、それほど会話らしい会話を交わしたことはなかった。
時折、彼の気まぐれで、ピアノを弾く彼女の傍で本を読んだり、もしくは彼女の気まぐれで彼のいるテニスコートを眺めたりするだけ。

訝しく思いながら受話器を取る。
そこから聞こえてきたのは、彼女ではなく母親の声だった。




「なんや、跡部。どこか行くんか?」

跡部が階段を下りて行くと、忍足がちょうどダイニングへ向かうところだった。
上着を羽織っているこの別荘の主を見て、にやりと笑う。
どうせ下世話なことでも考えているのだろう。
跡部は、ふん、と口の端だけ上げてその笑みに応える。

「食事は皆で先に済ませてくれ」
「・・・・・・ま、明日の練習には差し支えん程度にな」
「大きなお世話だ」

どうせ忍足も、跡部が本当に「女」のところに行くとは思っていない。
跡部もそれを分かっていて、特に肯定も否定もせず屋敷を出た。
既に横付けされていた車に乗り込む。
静かにドアが閉められると、前髪をかき上げ、小さく息を吐いた。

車で5分も離れていない場所。
そこに、彼女―――の家の別荘があるなんて初めて知った。
もちろん、そこに本人が滞在していることも。
その敷地の広さは彼のものの10分の1にも満たないだろうが、庭は綺麗に手入れされ、建物の中は明るく清潔感があった。
管理を任されているという年配の夫婦が、穏やかな笑みとともに跡部を建物の奥へと案内する。

ロンドンでは、彼女が家にいると必ずと言っていいほどピアノの音が聞こえていた。
跡部が寮から戻ると、昼夜構わず旋律が流れている。

「また来てるのか」

執事に促されてコートを脱ぎながら、そんな言葉を口にする。
しかし、そのコロコロと転がるような楽しそうな音たちを耳にすると、自然と口元が緩んだものだ。

彼女の演奏は本当に楽しげだった。
ピアノを弾くことを誰に強制されるわけでもない。
週に一度、市内に住む先生のもとへ教わりに行っていたようだが―――そのせいもあって彼女一人ロンドンに残されることが多かったらしい―――「練習」と言うには、随分と楽しそうだった。
そんな楽しそうな彼女の笑顔と、ピアノは嫌いじゃない。
そして、跡部が部屋に入ってきたことに気づいたときに見せる笑顔も―――嫌いじゃなかった。

けれど、この建物は異様なほどの静寂に包まれている。

彼女の母親の話が真実であることを思い知らされるようで、思わず心の中で舌打ちした。

「こちらです」

女の方がそう言って、ある部屋の前で止まる。
ノックしたが返事はない。

お嬢さま、入りますよ?」

そう言ってノブを回すが、やはり反応はなし。
女は諦めたように目を伏せ、そのままドアを開ける。
すると、鼻腔をくすぐる、花のような、微かな柔らかい香り。
そう言えば、彼女のいる部屋はいつもこんな香りがしていたな―――と思い出した。

けれどそんな懐かしさなど、目の前の光景にすぐに打ち砕かれる。

ソファに投げ出されたように横たわる小さな体。
床へとだらしなくたれる細い腕。
豪華な照明の眩しい程の光とは対照的に、まるで何も映していないかのような暗く虚ろな目。

隣りに立つ女は、もうため息をつくことも諦めてしまったらしい。
眉を顰める跡部をそのままに、の方へとゆっくりと歩いて行く。

お嬢さま。さあ、跡部さまがいらっしゃいましたよ」

優しく抱き起こされた彼女は、部屋の入口に立ったままだった跡部の方に顔を向ける。
視線が、絡む。
けれど彼女は表情をまったく変えぬまま、小さな口を開いた。

「―――何で、ケイゴがここにいるの?」

透き通るような声に乗せられたクイーンズ・イングリッシュ。
この声も嫌いじゃなかった。

「……お前はここで何をしているんだ」

近づいて行っても逸らされない瞳。
けれど何も映さないそれを前に、自然と跡部の声に苛立ちが混じる。

「べつに……何も」

落とされた視線の先には、彼女のほっそりとした綺麗な指。
手の大きさとは不釣り合いな程に長い指は昔と変わらなく見える―――のに。
跡部はやや乱暴に彼女の腕を掴んだ。

「行くぞ」

そしてグイと引っ張り無理やり立ち上がらせると、本人よりもその隣りにいた女の方が驚いて跡部を見上げた。

「跡部さま!?一体何を……」
「こいつのことは、こいつの母親から任されてる。俺の別荘に連れて行く」
「いえ、それは……!」

戸惑う女に構わず、の腕を引く。
すると、さすがに掴んだ手に小さな抵抗を感じた。
振り返ると、睨むように見上げて来る二つの目。
さっきまでの何も感じていないような表情よりはマシか。
そんなことを思いながら跡部も同じような目をして見下ろす。

「別にここで何もしてねぇんだろう?なら一緒に来い」

薄く開きかけた彼女の口からは、何も発されないまますぐに閉じられる。
一体何のつもり?
訝しげな眼がそう言っている。

同情ではない。
自分が彼女に何か出来るとも思っていない。
ただ、この場から彼女を連れ出したかった。
別に自分の家に連れて行ったからと言って、何かが変わる―――とは期待していないけれど。

「お前に選択肢はねぇんだよ」

ハッタリをかます。
跡部が彼女の母親に頼まれたのは、ただ娘の様子を見に行って欲しいということだけ。
昔から跡部のことは慕っていたから、もしかしたら少しは何か変化があるかもしれない。
そんな期待を込めて。

なら、その期待に応えてやる。

「あ、跡部さま、少々お待ちを……今奥さまと連絡を取りますので……」
「連絡は俺の方からしておく。こいつの荷物は後で取りに来させるから、用意しておいてくれ」

部屋を出て玄関へと向かう二人を、慌てて引き留めようとする管理人夫婦。
も歩調を狂わせることで抵抗を試みたが、途中からは諦めて跡部に腕を引かれるに任せた。

お嬢さま!」

玄関のドアを開けた時、最後の抵抗とばかりに女が叫ぶ。
それに対して声を掛けたのは、跡部ではなくの方だった。

「……大丈夫よ。心配しないで」

―――これも悪くねぇな。
初めて聞く彼女の日本語に、そんな場違いな感想を抱いた。