ondine 2




車内では、は一言も口をきかなかった。
跡部の方も特に話しかけることをしなかった。
窓の外をぼんやりと眺める彼女の顔を、じっと見るだけ。


はピアノが弾けなくなった。


彼女の母親からその台詞を聞いたとき、耳を疑った。
嘘を言うはずもないのに、思わず「嘘でしょう?」と言う言葉がこぼれた。

ある事故で、左手の薬指がうまく動かなくなってしまったのだ―――と母親は話す。
10本あるうちの1本。
自分よりも落胆している両親を前に、はそう笑って言ったらしい。
そして変わらずピアノを弾き続けた。
―――けれど、弾けば弾くほど彼女の中にジワリと絶望が広がっていく。
気がつけば、笑顔どころか悲しむ涙さえも奪われていた。

まったく環境の違う場所へ行けば気分が変わるかもしれない、と日本に戻り静かな軽井沢の別荘へ。
けれど、それくらいで何かが変わるわけもない。

「―――あ」

車が跡部の別荘の敷地内に入り、テニスコートが現れる。
そこには打ち合いをしている宍戸と滝の姿があった。
何にも反応を示さないのかと思ったが、テニスをする二人を目で追う。
表情は変わらなかったけれど、それでもその彼女の様子に、跡部は微かな光のようなものを感じた。

車から降りると、宍戸たちとの練習を一足早く切り上げたらしい鳳がドアのところに立っていた。
跡部に手を引かれている少女を見て、なぜか落ち着かない様子を見せる。
の方はと言えば、鳳自身よりもその手に持っていたラケットに視線を向けている。

、こいつは中学のテニス部の後輩の鳳長太郎だ」
「テニス部・・・・・・」

跡部が英語で話し出したので、鳳は一瞬ぎょっとした顔をする。
黒髪の綺麗な少女は、誰が見てもフランス人形ではなく日本人形のようだと思うだろう。
思わず彼女をじっと見てしまうが、慌てて手を差し出す。
そして照れくさそうな英語。

「あの……初めまして」

は少しだけ首を傾げ、目の前の大きな手をじっと見る。
何も言葉を発しない彼女の様子を訝しく思いながらも、手を引っ込めるにも引っ込めることが出来ない鳳。
どうしようかと、隣りの跡部に目で助けを求めようとしたとき、が彼の手を両手で包むように握った。
さっきとは比較にならないくらいの、鳳のびっくりした表情。

「……ケイゴと、同じ、手」
「あん?」
「テニスしてる……手、だね」

その形や固さを確かめるかのように触れてくるの温かさと柔らかさに、鳳の顔はどんどん赤く染まっていく。
おろおろと跡部を見るけれど、跡部の目は彼女の方にしか向けられていない。
何だか、こんな跡部部長を見るのは―――珍しいかもしれない。
ふと、そんなことを思う。

「ケイゴ、テニス続けてるんだ」

よかった。
そう呟くように言うの口元には、僅かにだけれど笑みが浮かんでいるように見えた。




「そんなトコで何してんだ?」
「む、向日さんっ」

リビングの前。
入口の大きな扉は開かれているというのに、その前でウロウロ怪しい動きをしている鳳を見て、向日が呆れた声を出す。
広いリビングはいつも開放されていて、夕食後、皆それぞれ用を済ませると大体ここに集まってくる。
いつもと同じように、向日は読書中の忍足を引っ張ってきたところだった。

「入んないのかよ?」
「あ、いえ、あの……」

顔を赤くする鳳を不審に思いながら、向日はその背中越しに部屋を覗き込む。
中にはソファに座る跡部と、その横で床に敷かれた高級そうな絨毯の上に直接座ってソファに背を凭れる少女。

「誰だ、あの子?」

膝に置かれた小さな箱をじっと見つめている少女を目にし、向日は鳳と同じように慌てて中にいる二人から身を隠した。
そして顔の色まで鳳と同じくなる。

「何や、あいつ、ほんまに女に会いに行っとったんか」

鳳と向日とは対照的に、部屋の中を面白そうに眺めてニヤニヤする忍足。
しかも家に連れ込むなんて、さすがやなぁ。
そう続ける忍足の台詞に、鳳はさらに真っ赤になる。

「な……っ、や、やらしいこと言わないでくださいっ!あの子はそんな子じゃありませんっ」
「やらしいって、俺は何も言ってへんで?お前が勝手にやらしいこと想像したんちゃうんか?」
「しっ、してませんっっ!」
「鳳ってムッツリだよな」
「違います!」



「―――うるせぇ奴らだな」

部屋の入口でチラチラと見え隠れする三人に、跡部は舌打ちする。
こっそりと隠れていたはずの彼らは、いつの間にかいつも以上に大きな声で言い合いになっていた。
その「大きな声」の主は専ら鳳だけなのだが。
も、手元の小さな箱―――オルゴールから三人へと視線を移している。

「チョタロウ?」
「ああ。あと、もう二人は俺と同じ学年の奴だ」
「テニス部……?」
「レギュラーメンバーだけで合宿してるんだ。―――会えるか?」

跡部の問いに、一瞬の視線が揺れる。
けれどじっと見下ろしてくる彼の目を見返し、暫くして小さく頷いた。

「おい、お前ら。そんなところでコソコソしてねぇで出て来い」

ピタリと聞こえなくなる三人の声。
そしてボソボソと何やら言い合う小さな声が聞こえた後、他の二人に押し出されるようにして忍足が顔を出した。

「あー……悪いな、跡部。別に邪魔するつもりはなかったんやけど……」
「何の邪魔だ。いいからさっさと入れ。」

顔に張り付けた笑いを引き攣らせながら、忍足が部屋の中に足を踏み入れる。
向日と鳳も気まずそうに顔を俯かせて後に続いた。
やれやれとため息をつく跡部を不思議そうに見つめながら、はオルゴールの蓋を閉じる。
そして先に立ちあがった跡部に差し出された手を取り、ゆっくりと立ち上がった。
その様子がまるで騎士とどこかのお姫様か何かのようで、明らかに普段周りにいる少女達と違う雰囲気に、三人は妙な緊張を覚えた。

「こいつは忍足侑士。テニスは上手いんだが、見ての通り性格に難ありだ」
「お前に言われたないわ!英語で変な紹介すなや!」
「ってか、何で英語なんだよ!?」

向日が、鳳の聞きたかったことを叫ぶ。
英語の何が悪い?とばかりに口の端を上げる跡部に、隣りに立っていたから少し自信のなさそうな声。

「大丈夫、だよ。日本語でも」
「何だ。お前、話せるようになったのか?」
「うん……勉強、した」

彼女はロンドン生まれロンドン育ちで、両親が生粋の日本人にもかかわらず教育方針か何かなのか、家では全く日本語を使わなかったらしい。
学校も日本人スクールではなかったため、日本語と触れる機会がほとんどなく、跡部と知り合ったときには英語しか話せなかった。
だから二人の会話でも日本語が出てきたことは今まで一度もない。
自分がいなくなってから、この二年間の間に勉強したのだろうか?
特に変な癖のないイントネーション。
跡部は彼女の頭をぽんぽんと撫でる。

「で、こいつは向日岳人だ」
「ユウシと、ガクト……」
「こいつは、イギリスに住んでた頃からの知り合いだ。合宿中はここで一緒に過ごすことになると思う」
って呼んでいいんか?」
「勝手にしろ」
「よろしくな、

向日がの顔を覗き込むように見て、ニカッと笑う。
しかし、彼女も同じように笑みを返そうと思ったけれど、上手く笑えなくて逆に泣きそうな顔になる。
予想もしなかった彼女の表情に、「えっ、お、おい……っ!」と向日は慌てて手をばたばたさせた。

「ばーか、無理に笑わなくていい」

ため息をつきながらクシャリと髪をかき回すように撫でる跡部の手に、もほぅと息をついて元の顔に戻る。
戻る―――と言っても、それはまるで何も感じていないかのような無表情。
前に立っていた三人は、何か深い事情を感じ取りながらも何も聞くことが出来ず、戸惑いの表情の上に貼りつかせる曖昧な笑い。

きっと笑ったら、もっと可愛いのに。

三人とも同じことを考えながら。