闇 1
今日最後の講義が終わり、建物の外に出る。
春になり、だいぶ日が長くなってきたと言っても、さすがにこの時間になると太陽も沈みきり、深い青い闇の中に、外灯が点々と灯る。
「こんな暗くなるまで講義なんか受けてると寂しくなるよなぁ。」
まだ四月に入ったばかりなんだから、少しは早く帰してくれりゃあいいものを。
そう隣りでぶつぶつ言っているのは、同じクラスの片桐。
館林の方で大きな個人病院を経営している家の次男。
今まで殆ど勉学に関して苦労を知らずに過ごしてきたこいつは、医学部に入った理由を、単なる兄への嫌がらせだと言い切る。
似たような、似てないような境遇で育った男。
お互い毒舌を吐きながら、何だかんだ言ってもう今年で三年の付き合いだ。
「今からそんなことを言っていて、こらから実習が増えてきたらどうするんだ?」
「あ、嫌だねぇ、その優等生くさい発言。」
こいつはいつも面白がって、俺を優等生の枠にはめたがる。
一年のときに初めて会ったときも、いきなり「外面のいい優等生。」と面と向かって言われた。
一瞬、何だこいつは、と思ったが。
押し付けがましい好意よりも、敵意の方が寧ろ心地いいと思ってしまう自分は、相当ひねくれているのか。
あの当時は多分に敵意、悪意のようなものが含まれていたようだが、最近はその単語を使うことそのものをただ単に楽しんでいるように見える。
「なあ、腹減らねぇ?飯食って帰ろうぜ。」
「生憎と今日は弟と一緒に食う約束をしているんだ。」
「うわ、ブラコン。」
「ブラコンで結構。お前も面倒くさがってないで、たまにはちゃんと自炊しろよ。」
「よけいなオ、セ、ワ。ならお前が作ってくれよ。」
いつもと大して変わらない会話を交わしながら、二人の車が置いてある駐車場へと向かう。
途中の道には桜の花びら。
昨晩降った雨の水分を含んだそれらが、靴に貼り付いて来る。
見上げれば、もう、葉ばかりになった木々が続く。
結局、今年も咲いている桜を楽しむことなく終わってしまったな。
そんなことを思いながら、前に視線を戻す。
俺たちの同じように、講義を終えて、楽しそうに会話をしながら歩く学生たち。
薄暗い外灯に照らされるその影の一つに、俺は違和感を覚え、思わず立ち止まった。
「高橋?」
突然歩を止めた俺を不審に思い、半歩前を歩いていた片桐が振り返って訝しげな顔をする。
俺は慌てて、いつも通りの笑顔を作った。つもりだ。
「何でもない、ちょっと知り合いがいて、な。」
「へ?」
片桐をそのままに、再び、しかしさっきよりも幾分早い歩調で歩き始め、そいつのもとへと近づく。
それまでぼんやりと周りを眺めて歩いていたそいつが、前から歩いてくる俺に気づき、足を止めた。
そして、何となく気まずそうな顔をして、近づいてくるのをじっと待つ。
俺自身は、どんな表情を作るべきなのか分からないまま、そいつの前に立って口を開いた。
そこから出た声は、自分でも少し驚くくらい、不機嫌なものだった。
「―――お前、いつからここの学生になったんだ。」
「病院の方に用があったの。友達が入院してて。」
「病院は向こうだろ。」
「バスまで時間もあったし、ちょっと歩いてたの。自分の大学以外ってあんまり来る機会ないから。」
淡々と答えながらも、僅かに口を尖らせる。
確かに、訳も分からず不機嫌な態度を取られたら誰でも不愉快だろう。
俺自身も、何故こんなに苛々しているのか分からない。
いや―――後で、ずっとずっと後で、何となく、その理由は分かったのだけれど。
「なになに、高橋の彼女?」
ゆっくり近づいてきて、にやりと、弱みを握ったとばかりに笑って見せる片桐。
俺はいつものペースを取り戻そうと深く息を吸い込んだ。
「ただの幼なじみだ。」
「ふーん。」
いかにも信じてませんと言う目をし、それをそのままに向ける。
あからさまな好奇心を含んだ視線を受け、彼女はちょっとだけ肩を竦める。
が、さして動揺も見せずに、そいつに軽く頭を下げた。
「こんな奴の幼なじみなんて、苦労してんでしょ。」
いつもの軽い口調で、からからと笑いながら言う片桐に、もちょっと笑みを浮かべる。
「そうですね。」
「だよなぁ。俺なんてまだ二年ちょっとの付き合いだけど苦労しっぱなしだもん。」
目の前で、二人が笑う。
苛々した。
が他の人間に対してそう言う笑顔を向けるところくらい、今まで何度も見てきた。
それこそ幼なじみだ、そんなことは腐るほどあった。
片桐が笑うところだって、もちろん、ある。
もともとこいつは啓介と似たタイプで、どんな奴とでもすぐに仲良くなれる方だ。
その本心はどんなだか、それは知らないが。
だから、この目の前のシーンは何ら不自然な所のないもの。
いや―――まったく違和感がないからこそ、苛立ったのかもしれない。
こういうとき、俺はどうする?
どうするのが自然なんだ?
ただ一緒に笑っていればいいだけなのに、冷静な判断力が失われて、辛うじて口元を歪めるだけ。
本当は、今すぐにでもの手を引っつかんでこの場を去りたかった。
何故か?
こいつは、ここにいるべき奴じゃないからだ。
それだけだ。
「ああ、そうだ。一緒に飯でもどう?ついさっき、こいつにふられちゃったんだよね。」
「ごめんなさい、今日は母に早く帰ってくるよう言われているんです。」
嘘をつけ。
お前の両親は9月までシンガポールに行っているはずだろう。
心の中でそんな突込みを入れながら―――ほっとしていることには気づかない振り。
「―――帰るぞ。」
二人の間をすり抜け、再び駐車場の方へと歩き始める。
後ろから冷やかすような片桐の声。
「あら、送ってあげるんだ。優しーい。」
「家がすぐ近くなんだから普通だろう。」
何馬鹿なことを言ってるんだ、と足は止めずに振り返る。
呆れたようなため息は、ちゃんと出せたはずだ。
「どうか、した?」
片桐と別れてすぐ。にしては珍しく戸惑ったような声色。
そんな彼女に、急に自分が恥ずかしくなる。
「いや―――悪い。ただ疲れてるだけだ。」
そんな適当に作った理由、こいつには嘘だと見抜かれているだろう。
何も言わないけれど。
でも、本当の理由も分からないはずだ。
俺自身、分からないのだから。