闇 2




「昨日のあの子、名前何て言うの?」

大概は俺への皮肉から始まる片桐との会話が、その次の日は違った。
駐車場から教室へ向かう途中、俺を見つけた片桐は開口一番そう聞いてきた。
あまりの予想通りの展開で、笑う気にもなれない。

「女性の連絡先を聞くのは礼儀だと思っているようなお前が、名前も聞かなかったなんて珍しいな。」
「よっく言うよ、『こいつには近づくな』ってオーラむんむん出しときながら。」

教室へ向かう足を止めずに呆れるように言う俺に、負けじと意地悪い笑みを浮かべたまま肩を竦めて見せる片桐。
冷やかして楽しんでいる、と言う雰囲気の中に、何かを探るような響き。
これにまともに言い返したりしたら、こいつの思うつぼだろう。
俺は片桐の顔にちらりと視線を向けただけで、表情は特に変えずに一言だけ返す。

「なら近づくなよ。」

すると苦笑した片桐が俺の肩に手を回して来た。
軽い口調、でも、何か甘い誘惑でもするかのような潜めた低い声。

「いいじゃん、ただの幼なじみなんだろ?紹介してよ。」
「何で幼なじみをお前みたいな男に紹介しなきゃいけないんだ。残念だがあいつは遊びには向かないぜ。」
「ひっでぇ。俺のこと何だと思ってんの?」
「今までの交友関係を見てきての発言だが。」
「今回はちょっと本気なんだけどなぁ。」

たったあれだけしか会話をしていなくて、本気もクソもあるか。

「彼女、友達が入院してるって言ってたっけ?また見舞いに来るかなぁ。
高橋が紹介してくれないんならストーカーになって病院の受付辺りで待ち伏せしちゃおっかなぁ。」
「本気だって言うんなら、それくらいやってみるんだな。」
「高橋こわぁい。」

とは、今はもう仲がいい―――と言うわけじゃない。
しかし、残念ながら、どうなってもいい、と言う存在でもない。
それくらいは自覚している。
傷つこうがどうしようが構わないとは思えない。不幸になって欲しいわけじゃない。
これくらい試させてもらってもいいだろう。
わざとらしく口を押さえて上目遣いに見る片桐をじろりと睨む。

「お前が、ああ言うタイプが好みだとは知らなかったな。」
「そう?俺好きだけど、ああ言う強いタイプ。」
「強い?」
「お前相手に物怖じしないじゃん。」
「小さい頃から一緒なんだ。いちいち物怖じなんかするわけないだろう。」

そう言い返しながら、俺は意味もなく焦燥感にかられる。
物怖じしない、とか、逃げない、とか、そうじゃない。
そんなもんじゃない。


あいつは―――。


口に出そうとして、やめる。
あいつは―――何だと?
自分でも何と言おうとしたのか、よく分からない。

教室のドアに手をかける。
既にいくつかの席は埋まっていたが、いつも座っている席は空いていた。
普段と変わらないものに、ほっとする。
そんな俺の様子なんか気にすることなく、片桐は当然のように俺の定位置の隣りに陣取る。

「あ、もちろん顔も好み。」
「・・・そうか。」

まだその話題で引っ張るのか、とわざと嫌そうな顔を隣りの奴に向ける。
が、今度はそんな俺を気にしないと言うよりは、完全に無視して続ける。

「ああ言う頭がいい感じの子って、弱いんだよねぇ。」
「あいつより頭のいい女ならその辺にごろごろいるぜ。」
「勘弁してよ、エリート意識を前面に押し出してくる女なんて、鬱陶しいだけじゃん。」

鞄からテキストを取り出しながら、片桐が笑って言う。
そういう女と去年付き合っていたんじゃなかったのか?と些か呆れながら、俺も黙ってテキストを机に広げる。
始業のベルが鳴る。

「まあ、それより何より・・・あれだな。」
「・・・何だ?」
「教えてやんない。」

顔を近付けてきて、ニヤリと笑って。
俺に何かを言わせる隙を与えずに、あー、やっぱ始業前に一本吸っときゃよかった、と煙草の入ったポケットに手をやる。

「―――医者になるんなら、いい加減やめるんだな。」
「医者になるんなら、な。」

講師が教室に入って来る。



正直、すぐに諦めると思っていた。
高をくくっていた―――と言う表現は適切ではないかもしれないが、今までの片桐の行動を見てきて、
とてもじゃないが、何か進展があるとは思えなかった。
何かある前に、こいつが匙を投げる。

本人に自覚があるのか怪しいが、こいつは自分の兄に異様なまでの執着を見せている男だ。
確かに、本気になればどうなるか分からない。それこそストーカー行為ぐらい朝飯前かもしれない。
しかし、あいつがや俺に対して執着するような理由は、ないはずだ。
俺への嫌がらせと言っても、三年前ならいざ知らず、今は俺とこいつはそんなに悪い関係じゃない。
周囲の人間が聞けば、会話の内容に多少問題があるかもしれないが、表向きは随分と友好的な関係だ。
他の奴と話しているより、こいつと毒づき合っている方が楽だし、それはたぶん、こいつも同じ。

そして、もし、本当にに惚れたとしても、だ。

そうそう二人が出会うことなんてない。
時間があればまた友人の見舞いに来るとは言っていたけれど、その時に二人が遇うなんて、それこそ待ち伏せでもしなければ滅多にあることじゃない。
万が一、遇ったとしても、には「その気」がない。たぶん。
片桐は、自分に全く気のない女にしつこく付きまとうようなことをするタイプじゃない。
だから、すぐに飽きる。
何も起きない。
始まらない。

実際、あの日以来片桐がのことを話題にすることはなかった。
何だ、結局その程度だったのか、と少し腹立たしく思ったり、やっぱり駄目だったか、と予想通りの結果に―――安堵したり。

一ヶ月近く経って、俺自身、もうと大学で遇ったことなんて記憶の隅に追いやっていたとき、
突然、片桐からあいつの名前を聞いた。


「ああ、そうだ。ちゃんの友達、昨日退院したらしいぜ。」


さも何でもないことのように。
ごく自然に。
昔から、ずっと昔から、知り合いであるかのように。


「よかったよなぁ。」
「・・・ああ、そうだな。」

俺は今、どういう顔をしている?