闇 6




たいしたもんだな、と思った。

あいつは「何でもない」なんて言ったけど、絶対、気が付いたんだ。
特別強い香水なんか使ってない、変わった銘柄のものをつけてるわけじゃない、彼女の匂い。
俺でさえ、あいつが変な顔をしなければ忘れていたような、微かなそれに。

たいしたもんだよ。
ただの幼なじみなんだろ?
それなのに、そいつの匂いが、分かっちまうもんなんだ?

種を明かせば何てことはない。
彼女の大学の近くで一緒に昼飯を食べて、その後お互い少し時間が余ったから近くの公園をぶらぶら歩いてて。ちょっと風が冷たくて薄着の彼女が寒そうだったから、俺の上着を貸しただけのこと。
で、うっかり時間を忘れてたら講義に遅刻しそうになったわけだけど。
そんなの、特別な相手じゃなくたって誰に対してでもやるようなことだ。お前だって俺のそんな行動をいつも「似非フェミニスト」と言ってたじゃないか。
ちょっと考えればすぐに分かりそうなこと。お前みたいに頭の回転が速いやつじゃなくても。
でも、今のお前は、その「ちょっと考える」ことが出来なくなってるだろ。
いつも以上に講義に集中して―――余裕のない高橋。
どこまで勘違いしてくれてるか、想像すると楽しい。
そしてその想像が現実になるように、俺も頑張るかな、なんて思ってしまう。



「映画の招待券貰ったからさ、一緒に行こうよ。」

その日の夜、大学の友人から貰ったと言うよりは強引に奪ったに近い、その映画のチケットを自分の目の前でヒラヒラとさせながら、電話の向こうの彼女にお伺いを立てる。
最近テレビでも頻繁に宣伝しているような有名な映画。CGを多用したファンタジー物。彼女がこう言うのを好むのかどうかは怪しいが、無難な選択だろうとは思う。ベタな恋愛物は俺自身が勘弁して欲しいし、派手なアクション物はどう考えても彼女の趣味じゃないだろう。いや、もし好きだったとしてもそれはそれで意外性があって楽しいけれど。

「映画、ですか。」
「そう。たまには一日デートしようよ。もうムチャクチャ楽しいデートプランとか考えてあげるから。」
「片桐さん、そう言うの苦手そうですけど。」

ああ、何だ、よく分かってるね。
いつもデートなんて行き当たりばったり。って言うか、女の方が色々行きたいって場所を言ってくるからそれに付き合うだけでよかった。本来の俺はかなり面倒くさがり。
でもたまにはそう言うのを考えてみるのも楽しいかなぁと思ったんだけど。
高橋の前でわざとそのテの情報誌を広げて見せるとか。って、それはちょっとわざとらしすぎるか。だけどあいつはどんな反応見せるかなぁ。まあ、どうせ相手にされないんだろうな。

「いや、ちゃんがデートしてくれるんなら俺頑張っちゃうよ?」
「それは楽しみですね。」

冗談めかして笑って言えば彼女も同じように笑って、意外にもすんなりとOKが出た。
彼女と知り合って二ヶ月ちょっと。これでやっとまともなデートが出来ることになったわけか。
長い長い道のり。
先が見えない。ゴールが見えない。
でも、不思議とそれに苦痛は感じない。
それは、彼女のせいなのか。それとも、自分の、ある種の自衛本能が働いているせいなのか。

最初よりは彼女も大分懐いてきてくれたように思う。
けど、どちらかと言えば「兄」とかそう言う感覚なんだろう。
あいつのことに触れたときの表情は相変わらずだし。
壊したくなるし。





「相変わらずお前は煙草くさいな。」

喫煙所から教室に戻って高橋の隣りに座ると、思い切り顰め面をされた。
何を今さらと思ったけど、喫煙所がやたらと混んでたから他の奴の煙もいつもより多く服に染み付いちまったんだろう。
でも俺は「そうかぁ?」なんて空とぼけて自分の服をくんくんと嗅いでみる。

「これでも最近軽めのやつに変えたんだけどねー。」
「それで本数が増えてたら意味ないだろう。煙草は周りの奴の健康を害するんだから、ほどほどにしとけよ。」

周りの奴、ねぇ。具体的に誰のことを考えてるのか教えてほしいね。

「でも、お前だって最近煙草の本数増えてるんじゃない?」
「・・・俺はお前と違って滅多に吸わない。」
「そう?でもこの前学食前の自販機で買ってなかった?」
「それが即煙草の本数が増えたことにはならないだろう。」
「まぁそうだけどー。」

素直じゃないなぁ。
お前が大学で煙草買うとこなんて俺初めて見たのに。
高橋でもそう言う「物」に頼ることなんてあるんだな。

お前も人間なんだよな。
彼女が絡むと、特に、さ。

「片桐、お前、次の時間の試験は大丈夫なのか。」
「ま、一応。そう言うお前は・・・って聞くまでもねーか。」

俺の前では『謙遜』って言葉を知らない高橋は、当然だろうとでも言いたげに小さく肩を竦める。
後ろに座ってる、何も知らないこいつの取り巻き連中に、この図々しい面を見せてやりたいもんだ。
クルクルとシャーペンを回していると、高橋のからかうような声。

「相変わらず、いつも忙しい割には抜かりないな。」
「毎晩峠を走り回ってる高橋に言われたくないね。」

俺も同じような口調で返してやる。
周りには遊んでばかりいるように言われてるけど、一応これでも真面目にやることはやってる。
こんなヘボい口述試験で失敗したりしたら、ほら見ろと、鬼の首でも取ったかのように言われるだろう。

あの男に。

首席はこいつに譲るにしても、意地でも次席にはなってやる。

「・・・ったく、嫌なこと思い出させるなよ。」

最近はあの男も忙しくて滅多に連絡も来ないから、ずっと忘れてたって言うのに。
何のことだ、なんて白々しく聞く高橋をジロリと睨む。
あの男のことを思い出したら、また煙草が吸いたくなってきた。

ちらりとドアの方に目を向ければ、高橋に「もう講義が始まるぜ」と素早く釘を刺される。
「分かってるよ」とすぐに視線を手元のシャーペンに戻したけど、どうも落ち着かなかった。


久しぶりの毒は、回りが速い。