闇 10




「これだけは勝ったな。」

内臓学の実習の後、俺のスケッチブックを取り上げてパラパラとめくっていた片桐が、満足そうにニヤリと笑った。
俺はくだらない、とばかりにため息をつき、そいつからスケッチブックを取り上げる。

「こう言うのは特徴を的確に捉えるのが目的だろう。別に芸術的センスは必要ない。」
「あ、芸術的センスがないことは認めるんだ?」

ああ言えばこう言う。
そんなに自信があるなら見てやろうと、俺もそいつの持っていたスケッチブックを取り上げる。
パラリとめくってみれば、確かに自信満々に「勝った」と言うだけあって、綺麗なスケッチだった。
もちろん、その的確さは言うまでもない。

「―――お前にこんな才能があるとは知らなかったな。」
「お、素直に負けを認めるんだ?」
「こんなのに勝ち負けは関係ないだろう。」
「可愛くなぁい。」

気色の悪い声を出しながら、ひょいと、俺からスケッチブックを奪い返す。
そして、また意味深な笑み。

「何でも素直に認めた方がいいんじゃない?」
「余計なお世話だ。」
「もう、ほんと可愛くないんだからぁ。」

悪乗りする片桐をジロリと睨む。
こいつは啓介と違って、言葉の裏に意味を含みすぎだ。

「あー、腹減ったなぁ。何か食って帰ろうぜ、俺が奢るからさぁ。」
「そこまでして俺と飯が食いたいのか。」
「いや、いつも誘いに乗って来ないのは、やっぱ金がないせいなのかなぁと思ってさ。」
「お前に奢ってもらうほど貧乏じゃない。」
「じゃあ、高橋の奢りで。」
「・・・どうしてそうなる。」

くだらない会話が延々と続きそうで、俺は片桐を放って駐車場へと歩き出す。

「あまり酒は飲めないからな。」
「だいじょーぶ。飯の旨い店に連れてってやるよ。」

そんな調子のいいことを言いながら片桐は俺の肩を思い切り叩いて来た。
目を細めて睨みつけても、こいつはわざと気づかない振り。
こうやってこいつと他愛ない会話を交わすのは、嫌いじゃない。
こう言う会話は。




大学のそばか片桐のマンションのそばか、その辺の適当な食堂にでも入るんだろうと思っていたら、意外にも随分と洒落た感じの店に連れて行かれた。カップル向け、とは言わないが、それなりに落ち着いた感じの店だ。

「―――何だ、こんな所に連れて来て口説くつもりか?」
「ふーん、高橋は女口説く時にこう言う店に連れて来るんだ?」

入口に立つ女性店員にサービス満点の笑顔を作って見せた片桐は、わざとそのままの顔をこっちに向けて言い返してくる。
大方、女を連れてくるための下見か。
そのふざけた顔のままの片桐に敢えてまともに返事をしてやる。嫌味をこめて。

「お前と違って滅多にないけどな。」
「ああ、お前はわざわざ自分から口説かなくても女の方から寄って来るもんなぁ。」

人のことを言えた義理かと冷ややかな目をすると、隣りの男は今度は企むように笑う。
「俺は必死だけど?」と言って。
必死ね。一体「何」に対して必死なんだか。

「まあ、こんな店で絆される女なら楽でいいんだけどねぇ。」
「・・・でもそれじゃ、つまらないんだろ。」
「よくお分かりで。」

お互い頭に思い描いた女は―――同じなのか、まったく別なのか。
やけに挑戦的な目を向けてくるから、つい、俺も同じように返してしまった。
が、別にこいつがあいつとどこに行こうが関係ないのだと、すぐに、目を逸らす。

店の奥のテーブル席に案内される。
片桐の後に続いた俺は、そこに行くまでの間に何気なく、窓際の席に目をやった。
そのとき、目の端に、何かが引っかかる。
気にせずにそのまま通り過ぎようかとも思ったが、何故かすごく気になって、振り返らずにいられなかった。
通り過ぎればよかった。
せめて、視線の先の相手が俺に気づかなければよかった。
目が合った瞬間、二人とも慌てて目を逸らす。

「何だよ、どうかした?」

でもそれは手遅れで、片桐が、窓際に視線を向ける。
こいつが、あいつを無視するわけがない。

「あれ、ちゃんじゃないか?」

友人らしき女の子と二人で食事をしているに気づいた片桐は、迷うことなくそいつの方へと近づいていく。
俺は舌打ちしたい気分で、その後に続いた。

「すっごい偶然だね、何、お友達とご飯?」
「片桐さんは涼介さんとご飯ですか?」
「そ、デート。」

そう言って冗談めかして笑い、俺の肩に手を回す片桐。
その様子を見て小さく笑う
初めて二人が会ったときと変わらないような会話。
だが確実に、その間の空気は変わっている気がした。
いや、気のせい、か?

「デートって言うんなら、さっさと向こうに行くぞ。」
「あら、高橋ってばヤキモチ?」

こいつらが話をしているところなんて、見たくもなかった。
ましてや、二人が一緒に飯を食ってるところなんて。

「いいじゃん、一緒に飯食おうよ。ダブルデート。」

興味がないから。
二人のことになんか、興味がないからだ。

「お前一人で一緒に食え。俺は帰る。」
「何だよ、感じわるぅい。」

確かに、これでは俺は駄々を捏ねるガキと同じだった。
分かってる。分かってるけど、余裕が、ない。さっさと立ち去りたい。
―――の目を、見たくない。
深呼吸する。
こいつらの視線を避けるために、ふと、の向かいに座っていた女の子に視線を向けた。
突然の見知らぬ男たちの乱入と、決して友好的とはいえない俺の雰囲気に、不安げな目をする彼女。
それを見て、俺は少しだけ、冷静さを取り戻す。
深呼吸する。
彼女に、安心させるように、微笑って見せる。
その微かに赤らめた顔を見て、漸く、普段の自分を取り戻した。