闇 12
カーテンを退けて窓を開ける。
冷たい風は、熱いシャワーを浴びた体に心地よかった。
片桐があいつの肩を抱いたとき―――鳥肌が、たった。
本能的に嫌悪感が走って、酔いが一気に体中に回る気がした。
当然のように、あいつを連れて行く片桐。
当然のように、片桐に連れて行かれるあいつ。
肩を抱いた片桐を見て、なのか、それを許容するあいつを見て、なのか、どちらなのかは分からない。
あいつに、片桐を拒絶して欲しかったのか。
もし拒絶したからと言って、あいつが俺を選ぶことなんてあり得ないと言うのに。
―――あいつが、俺を選ぶ?
違う。
俺はそんなことを望んでなんかいない。
俺だって―――あいつを選ばなかった。
あいつは、危険だ。
片桐はそれにまだ気付かないのか。それともそれは俺だけ、なのか。
の前に立ち、その目を見る。そうすると自分の足元にある砂がどんどん削られていくような錯覚を覚える。
そしてその代わりに、ひたひたと水が満ちてくる。
深い深い青のそれは、月も星もない夜の闇に似ている。ちょうどこの空のような。
ただ、ここには庭で揺れる木々の音があるが、あの闇には音がない。
暗くて、深くて、静かで、溺れそうな気がしてもがくけれど―――逃げることは出来ない。
逃げようと足掻いても周りの人間を傷つけるだけだ、今日のように。
あいつの友達の子を家の前で下ろしたとき、戸惑いがちに、でも素直にありがとうと言われて、楽しかったと言われて、俺は激しい罪悪感に襲われた。彼女を利用した、と言う自覚は最初からないことはなかったが、その瞬間まで敢えて無視していた分、その重苦しさは甚だしかった。
分からない。
俺は、どうしたら満足なんだろうか。
あいつを、俺の全く知らない場所に追いやれば気が済むのか。
それとも―――逆に、あいつを他の人間の目に触れない場所に閉じ込めればいいのか。
どちらにしても、薄汚いエゴ。
バルコニーに出て木の葉の隙間から遠くを見る。
隣りの家にも、そのまた隣りにも、特に高い木が植えられていないから数軒先まで見渡せる。あいつの家まで。
このバルコニーの端からはあいつの部屋の窓が見えるから、子供の頃は啓介が面白がって手旗信号の真似事のようなことをよくしたものだった。
何とはなしにその端へと向かう。
別に何かを期待しているわけでもない。ただ、何となく懐古主義的な気分で自然と足が向かっただけだった。
視線を数軒先に向ける。
当然だがそこに明かりはない。
門限までにだってまだ時間がある。不思議なことじゃない。
それにあいつだってもう大学生だ、親に連絡を入れさえすれば外泊するくらいの自由もある。
片桐を受け入れる自由も、拒絶する自由も、迷う自由も。
風で木の葉が揺れる。
ざわざわと耳に付く。
体が震えるのは、風が冷たくなってきたせいか。
寒ければ部屋に戻ればいい、そう思って体を捩るが足が動かない。まるで風が俺の足を絡め取るように。
俺は一体どうしたいんだ?
バルコニーの柵に手をつき、風を避けるように顔を俯かせる。
嘲笑うように冷たい風が自分の髪の間をすり抜ける。
俺はあいつをどうしたいんだ?
目の端に、オレンジ色の明かりが映る。
今まで暗闇が覆っていた場所に微かな光が灯るだけで、風が柔らかくなったように錯覚する。単純だ。
カーテンが開いて影が見えたような気がして、つい、目を細める。
探しているわけじゃない。出てきて欲しいわけじゃない。
選んで欲しいわけじゃ―――ないはずだ。
そこにいて欲しい。
明かりの中で笑っていて欲しい。
でも、それと同時に全く逆の欲求も湧き起こる。
暗闇の中で苦しんで欲しいと。俺と、同じように。
窓が開かれて、人影の色が一層濃くなったような気がした。
その影がこっちを向いている―――なんて、そんなこと分かるわけもない。俺はかなりの自意識過剰らしい。
あまりに馬鹿馬鹿しくて、笑いが漏れる。
「―――。」
影が揺れる。
消えそうになる。
一人この闇に取り残されそうな、埋もれてしまいそうな気がして、思わず声を上げる。
消えないでくれ。
いや、違う。
消えて、くれ。
俺を、元に戻してくれ。
「―――くだらない・・・。」
「もと」とは、何だ。何が「もとの状態」だと言うんだ。
こんなくだらないことを考えるなんて、まだ酒が抜けきっていないのか。
あの程度のシャワーの熱では、流せるものではないのか。
ゆらりと、影が揺れて薄くなる。
再び冷たい風が頬を掠めた。