闇 8




何かを紛らわすために物に頼るのは、決していいことじゃない。
いや、でも、物で簡単に紛らわすことが出来ると言うのなら、それはそれでいいのかもしれない。
普段なら月に、いや、二、三ヶ月に数本しか減らない煙草の箱が、気が付いたら空になっていた。
なければ困る、と言うものではない。
俺は啓介や片桐のように、吸わずにはいられないというわけではない。
けれど、そのときは一本もないと言う事実に、無性に焦燥感に駆られて、手近な自販機で購入した。
それを片桐に見られていたのは、不本意だったが。

「アニキ、よくこんな軽いの吸ってられんね。」
「そう言いながらさっきから何本吸ってるんだ。」
「軽いとついつい物足りなくて吸いすぎちゃうんだよね。」

試験勉強の途中、一休みにとリビングでコーヒーを飲みながら雑誌を読んでいると、啓介が帰ってきた。
大学からの帰りだと言うことは手に持っていたテキストから分からないことはなかったが、あまりに薄っぺらいそれに、少し、弟の進級が心配になる。
この前見かけたの荷物の4分の1もなさそうだ。
あいつはあいつで、ちょっと普通じゃないかもしれないが。
テーブルの上に放っておいた煙草の箱とライターを手に取り、「一本いい?」と言って俺の返事を待つことなく一本取り出して火をつける。それから結局何本減ったことか。俺はそいつの手元から煙草の箱を奪い返した。

「なら、自分のを吸えばいいだろう。」
「ちょうど切らしちゃってさ。」
「部屋に行けば1カートンくらいあるんじゃないのか。」

こいつは俺と違って毎日一箱以上吸うから買い置きしてあるはずだった。
―――一応未成年ではあるのだか、そんなことを今さら言っても仕方がないだろう。
啓介は「ちぇ」と拗ねた顔をして、プカプカと煙を上に吐き出した。

「アニキも強いヤツに変えれば?一本ガンと来るの吸ってスッキリした方が効率いいんじゃねぇ?」
「・・・どう言うことだ?」
「別に。言ったまんまの意味。」

つい、雑誌から顔を上げて向けた目が、きつくなってしまったのか。
啓介は少し慌てたように目を泳がせ、短くなった煙草を灰皿に置いた。
こいつが裏に何か意味を含んで物を言うことは滅多にない。特に兄の俺に対してはそんなことはしない。
それは分かっているつもりだったのだが、不意に、俺は勘繰られているような気がしてしまったのだ。

「・・・つーか、これじゃ、俺がスッキリしねぇ。」
「人のものを奪っておいて随分と勝手な言い草だな。」

相変わらずの弟の勝手な台詞に、俺はいつもの自分を取り戻し、ため息をつきながらも口元は緩む。
そんな俺の様子に啓介もほっとしたのか、目を細めて笑った。
でも、それは一瞬。

「今日、見た。」

啓介は、なるべくいつも通りの口調を壊さずに言おうとした。でも、それが逆に意識しすぎて不自然で、動揺していることを物語ってる。
俺も、さっきと何も変わらないように、雑誌に視線を落とす。
何のことだ、と聞くために声を出すのは、やめておいた。

「友達・・・かな、と思ったんだけどさ。あの人、アニキと同じ大学の人だよな。」
「・・・・・・。」
と一緒にいた男。前、会ったことある人だよな、確か・・・。」
「・・・片桐。」
「ああ、やっぱ、そうだよな。」

隣りから、天井に向けられた啓介のため息が聞こえる。
いや、落ち着くための深呼吸か?

と、片桐さんって、付き合ってんの?」
「そんなこと、俺に聞くな。」
「まさか、アニキが紹介したんじゃないよな?」
「俺がそんなことすると思うか。」
「・・・だよ、な。」

また、深く息を吸う音。
それを聞きながら、俺も、小さく、息を吸い込んだ。
啓介は疑問に思ったことをストレートに口にする。

「まだあいつのことに干渉する気なのか?」
「そう言うわけじゃないけど・・・別に、あいつが誰と付き合おうが、もう構うつもりねぇよ。」
「ならいちいちそんなことを言ってるな。あいつには、あいつの生活があるんだ。」

頭に入るどころか、目にもまともに映らない雑誌の記事を眺めたまま、言い聞かせるようにゆっくりと言う。
それが、自分に対してなのか、啓介に対してなのかは分からないけれど。

「俺たちが、とやかく言うことじゃない。」

一瞬、隣りで啓介がムッとしたのは、空気で感じた。そして、その後に続いた低い声からも。

「でも、あいつの生活と俺たちの生活は全くの別もんってわけじゃないだろ。」
「ただの幼なじみだ。」
「そうだよ、幼なじみだよ。ガキの頃からずーっと繋がってんだ。心配する権利くらいあるだろ。
アニキだって、あいつのことは大事だろ?幸せでいて欲しいって、笑ってて欲しいって、思うだろ!?」

こいつが、こんなふうに俺に畳み掛けるように言ってくるなんて珍しかった。
俺の目をまっすぐに見据えて。
それだけ、が片桐と一緒にいたことに動揺していると言うことなのか。

幸せでいて欲しい。
笑っていて欲しい。

啓介の言った言葉を、心の中で繰り返した。
違和感があった。
落ち着かなかった。
苛立ちさえ、覚えた。

「―――あいつらのことは、放っておけ。」

違う。
放っておいて欲しいのは、俺の方だった。
それでも、苛立ちを誤魔化すには、こう言うしかなかった。
飽くまで自分の考えを譲らずに淡々と答える俺が気に入らなかったか。
啓介は全身にまわった怒りを持て余すかのようにソファから立ち上がり、近くにあった俺の煙草の箱をグシャリと潰した。

「こんな生ぬるいの吸ってっから、おかしくなってくんだよ。」

無残な姿になったそれを再びテーブルに放り投げ、大股で俺の前をすり抜けてリビングを出て行く。
久々に聞く、家が揺れそうな程の、ドアの閉まる大きな音。
その音に、漸く解放されたと、目を閉じた。




自分は、気持ちの切り替えは早いほうだと思っている。
実際、啓介との言い合いが試験勉強に影響することはなかったし―――あいつのことを考えて集中力を失うようなこともなかった。
しかし、それでも、どことなくすっきりとしないまま翌日を迎えて。
自分らしくもなく、そいつに八つ当たりをした。本人は気づいているかどうかは分からないが。

「相変わらずお前は煙草くさいな。」

いつもより、少し強めだった片桐のその煙草の匂いが、どうしようもなく、不快に思えた。
たいしたことじゃない。
だが、ついこの前あいつの匂いをつけていたその上着から、まったく違う匂いがして、不意にそう感じたのだ。

「これでも最近軽めのやつに変えたんだけどねー。」
「それで本数が増えてたら意味ないだろう。煙草は周りの奴の健康を害するんだから、ほどほどにしとけよ。」

別に、「周りの奴」であいつのことを考えたわけじゃない。
いつもと変わらず、暢気に受け答えする片桐。
普段はそのマイペースさに助けられているくせに、今日は、やけに苛々した。

「片桐、お前、次の時間の試験は大丈夫なのか。」

我ながら、いやらしい性格だとは思った。
こいつが試験の準備に抜かりないのは、分かりきっていた。
ふらふらと、いつも遊んでいるように見せかけて、実はその辺の奴らよりもよっぽど勉強している。

自分の兄に、負けないように。
自分の兄より、常に優秀であるように。
そうして、兄の関心を自分に向けられるように。

「・・・ったく、嫌なこと思い出させるなよ。」

さっきまで冗談めかした笑いを浮かべていた顔が、瞬く間に険しくなる。
何のことだ、と肩を竦めて見せたけれど、内心、期待通りの反応に満足していた。



そう、お前が執着すべきなのは自分の兄だ。
あいつじゃない。



別にこれくらいのささやかな仕返し、させてもらってもいいだろう。