闇 15




峠では自由だった。
俺は俺でいられる。
自分の意思で、本当の自分でいることが出来る。
ここでは、何にも邪魔されることはない。




「昨日はあの後どうだった?本当にお持ち帰りしちゃったりして?」

いつもなら駐車場から教室に向かう間に捕まるのに、今日は俺が先に教室についてから暫くして片桐が入ってきた。
こいつはいい加減なように見えて講義に対しては至極真面目だ。
たまに午後の講義にぎりぎりで入ってくることはあるが、遅刻したことは、たぶんこの約三年で一度もない。もちろん欠席も。
まあ、医学部の授業を休んだり遅刻する奴自体珍しいんだが。
いつの間にか指定席になってしまった俺の隣りに腰掛けて、分かりきったことをわざわざ聞いてくる。

「可愛かったもんなぁ、彼女。お前なら即オッケーなんじゃない?」

俺が無視していると、さらに面白そうに続けてくる。
心にもないことを。
第一、あいつの友達になんか手を出す気にもなれない。
確かに真面目でいい子だった。だから車で家まで送って、礼を言われて、それで終わりだ。

「お前はちゃんとあいつを門限までに送ったんだろうな。」
「そりゃまー、清く正しい交際をしてるんで。」

何が『交際』だ。あの女の子に紹介されたとき『友達』と言われていたくせに。
あいつは、俺のことは迷わず幼なじみと紹介し、こいつのことは、少し迷ってから友達だと言った。
笑いながら手を頭の後ろで組む片桐を冷ややかに見る。

「そんな交際じゃ物足りないんじゃないか。」
「いや、これが結構楽しくてねぇ。」

随分な強がりを言う。
少なくともこのクラスでお前ほど「清く正しい交際」なんてものが似合わない奴はいないだろう。
こいつとが初めて会ってから一体何ヶ月経った?
そんな長い期間こいつが女と何もない関係を続けていられるなんて、驚きだ。
今までなら大概、いや確実に途中で放り出していただろう。その気のない女をオトすのも楽しいと話していたこともあったが、我慢できるのはせいぜい一ヶ月だと言ったのはこいつ自身だ。

あいつとの関係には、そんなに楽しい別の要素があるって言うのか?
俺以外に?
俺を通して自分の兄貴を憎む時期は、もうとっくに過ぎたはずだよな。ただ単に俺自身をからかうためだけにそこまで労力を費やすのは馬鹿馬鹿しいだろう。
単に好きならさっさと口説けばいい。
それがお前のいつものやり方なんだから。

「また四人で飯食いに行こうか。」
「グループ交際、とでも言いたいのか。」
「いいねぇ、俺やったことないな。」

探るように、片桐の顔を見る。
相変わらずの企んだような笑いと、皮肉っぽい口調。
―――でも、どこか、いつもの軽口とは違う―――。


ああ、そうか。


「何だよ?」
「いや。」

眉根を寄せる片桐から視線を前に戻し、俺は口元を片手で押さえる。
ああ、そうか。
教室に入ってきたとき、こいつの雰囲気がいつもと少し違う気がしたのは、決して気のせいじゃない。

こいつ―――余裕が、なくなった?




「涼介、お前、今日あんまり顔色よくないんじゃないか?」

メカニックとの打ち合わせを終えた史浩が戻ってきて、心配そうに眉間に皺を寄せて俺の顔を見た。
こいつは長年の付き合いだから、誤魔化しもきかない。誤魔化す気もない。
何でだろうな、こいつの心配りには素直に甘えることも出来ると言うのに―――。

「ああ、今日は早めに切り上げさせてもらうよ。」
「ちゃんと休むときは休まなきゃだめだぞ。医者の不養生とはよく言ったよな。」
「俺はまだ医者じゃないぜ。」

仕方ないな、と言う顔をする史浩に笑ってみせる。
こいつの前でも、俺は俺でいられる。
俺の意思で。


だが、あいつの前では違う。


あいつは遊びに向かない。
俺は片桐にそう言った。それは確かにそうだ。
あいつで遊ぼうなんて考えれば―――痛い目を見る。
そうだろう、片桐?

遊び程度の距離を保っていられれば、たぶん本当はそれが一番いい。
楽しいと思っていられるうちが、一番いいんだ。
それに気付いたか?
それとも、気付かない振りをし続けるか?

受け入れられるのか?
お前が。

可笑しいな、片桐。
ミイラ取りがミイラになったって訳か。

「―――涼介。」

まだ隣りで俺の顔を覗き込んでいた史浩が、さっきよりも眉間の皺を深くする。

「何だ?」
「本当に早く帰ったほうがいいぞ。お前何だか―――変だぞ。」

ああ、変かもしれないな。可笑しくて仕方がないから。

「珍しく、余裕がなく見える。」

何を言ってるんだ、史浩。
余裕がないのは俺じゃない、あいつだ。
俺は、何も変わらない。

もうやめろ、片桐。
あいつには近付かない方がいい。



―――やけに、なるなよ?