闇 14




「最初にシートとミラーの位置合わせて。」
「はい・・・。」

いつも俺のいる場所に座っている彼女が、ぎこちない手つきでシートを前に動かし、不安そうにペダルを覗き込む。
普段はむかつくくらい落ち着いているから、こんな彼女を見るのは新鮮で楽しい。
素直に不安を表に出し、緊張する。
この子でも経験のないものに対しては戸惑うんだな。
俺も素直に愛しさを覚え、つい、その頬に手が伸びる。
さらりと肩から流れる髪を除けて触れようとすると、彼女は、俺がその髪を運転に邪魔だと思ったと勘違いしたのか、ポケットからゴムを取り出して後ろで一つに縛ってしまった。さらさらして綺麗な髪が纏められてしまって残念に思うのと同時に、簡単に首筋に触れられる状況が出来上がってほくそ笑んだりする。

公園の広い駐車場で、俺とちゃんは席を交替した。
結局、免許を取って以来殆ど車を運転したことがないと言う彼女のペーパードライバー化を防ぐための練習。
我ながら、彼女を連れ出すいいアイデアを思いついたと思う。

単に会いたいと言ったとしても、別にすぐ断ってくるとは思わない。
嫌悪を抱かれていないのは分かっているし、第一、彼女自身が俺と会わないと決めたら、どんな誘い方をしても無駄だろう。
ただ、もっともらしい真面目な理由をつければ、お互いに、いろいろと猶予が出来る、と言うだけのことだ。

「そんな緊張しないで、肩の力抜いて?」

そう言って笑いながら彼女の肩に手をかければ、僅かにその素肌にも触れる。
やっぱ猶予とか何とか言ってないで、さっさと押し倒しちゃおうかな、なんて考えが一瞬頭をよぎるけれど、お兄さん然とした笑みでそれを打ち消す。

「ほんとに運転したことないんだ?でも家には車あるんだろ?」
「あるんですけど・・・左ハンドルで。」
「・・・ははぁ、しかもデカくて?」

サイドを下ろしながら、彼女はこくりと頷く。
なるほどね、と俺も苦笑い。
自宅にあるのは大きな外車で、幼なじみの乗っているのはバリバリ走り屋仕様の車。
見事に乗りづらい車が集まっている。
どうせなら買ってもらっちゃえばいいのに、と思ったけど、それだと彼女は納得いかないのか、それとも車なんて運転しない方がいいと止められてるのか。


誰に?


面白くない顔が思い浮かびそうになって、俺は思考を中断する。
恐る恐ると言った感じで駐車場から車を出す彼女。
結構慎重派だな。
まあ、思い切りがよすぎても困るけど。

「どっちに行きますか?」
「そうだな、いきなり市街地は怖いだろうから、比較的車の少ない場所走ろうか。」

どこがいいだろう、いくら車の通りが少ないからっていきなり山道は怖いかな。
そんなことを考えながら横の彼女に目を向ければ、あからさまに緊張した顔つき。
でも怖がっている割には運転はしっかりしてる。
曲がるときにちゃんと目視確認してるし、車の動きも安定してる。そのギャップが可笑しい。

「・・・何かおかしいですか?」
「いや、その気持ちを忘れずにね。」

つい笑い出してしまった俺に、彼女は首を傾げ少し口を尖らせる。
可愛いね、ちゃん。
何てことない他愛ない日常の仕草では、こんなに可愛いのに。

「片桐さんも、やっぱり車が好きですか?」
「ん?」
「え、と・・・男の人って、車が好きな人多いから・・・。」

手だけじゃなくて、声までぎこちない。
本当は運転だけに集中したいだろうに、そんなにまでして会話をしようと言うのは―――沈黙が怖いのかな。
わざと会話を途切れさせて不安にさせるのも楽しそうだけど、ちょっと可哀想だから普通に返事をする。

「まあ、好きか嫌いかって聞かれれば、好きだよ。意味もなく一人でドライブに行ったりもするし。でもちゃんと止まって曲がって、それなりに中が快適で、ストレスない位にパワーがあればオートマで十分って言う方だけどね。」
「速く走るってことにはあまり興味がない?」
「速さを追求するためだけに走る気はないな。命惜しいし。」

冗談めかして言えば、彼女も小さく笑う。
だんだん緊張も解れて来たんだろうか。それはいいことなんだけど、でもちょっと勿体ない気もする。

「自分はそう言う世界に行きたいと思わないけど、興味は、あるよ。それなりにね。」
「そう、ですか。」
ちゃんは?興味ない?」
「・・・よく、分かりません。」

少しだけ笑みを口元に残してそう曖昧に答える。
でもその答えが一番的確なんだろう。
自分自身には決して身近な世界とは言えないけれど、興味がないわけじゃない。
でも「何に」興味がないわけじゃないのか、分からない。

可愛いね、ちゃん。
本当に素直で可愛いよ。

「片桐さん?」

前に続くいくつかの信号はどれも青に変わったばかりで、ちゃんは横を向くことが出来ない。
黙ってしまった俺の気配を探ろうと、視覚以外の全ての感覚をこちら側に向けて来るのが分かる。
その感覚を一つ一つ絡め取りたくてそんな彼女に手を伸ばしかけるけど―――どう考えてもこの先健全な方向には行かないだろうと、辛うじて思いとどまる。
今、そんなことをしてもつまらないから。
薄っぺらい欲望だけを満たしても、後で虚しさばかり残ってしまうのは分かりきってる。
でも、そんな吹いたら飛んで行ってしまいそうな欲望でも、とりあえず満たすことが出来るのなら、それでもいいんじゃないか?

「片桐さん?」

もう一度、さっきと同じように繰り返す。

「寝ちゃった?」

そんなわけないだろうに、俺を明るい場所に戻そうとくだらない冗談を言う。
ちょっと笑って、俺は大人しく引き戻されることにする。

「ん、ちゃん可愛いなぁと思って。」

思ったことを素直に言うと、ちゃんは勘違いしたのか―――勘違いした振りをしたのか―――少し怒ったような顔をした。
そうやって、必死に健全な空気を作ろうとする彼女が健気で可愛い。

「何だか、弱みを握られた気がします。」
「いいじゃない、弱みの一つや二つ握られときなよ。それくらいの方が人間可愛げがあるでしょ。」

そう言う意味では、あいつも可愛いんだけどな。
―――て、ああ、結局俺はあいつを思い出しちまう。

「じゃあ片桐さんは可愛げがないんですね。」
「え?俺?」
「だって、弱みなんて思いつきません。」
「俺にだって弱みぐらいあるよ、きみとか。」
「咄嗟にそう言う言葉が思いつくところがすごいですよね。」

あながち嘘でもないんだけど、彼女はいつもの冗談だと笑った。
俺も笑っておいた。
嘘じゃないよ。
今きみにもう俺とは会わないって言われたら―――どうするか、分からないくらいには。

「ただ走るより何か目的があった方がいいよね。今度どこかドライブ行こうか。」
「ドライブ、ですか?」

きみはどうしたいんだろう。
―――いや、どうもしたくないのか。

「軽井沢とか結構近いんじゃない?」
「そこに私の運転で行くんですか?」

「お兄さんだと思って」適当に甘えよう、なんてつもりはないだろう。
俺の気持ちを知って弄ぼうなんて気は毛頭ないよね。

「何事も練習、練習。」
「最初はもっと近い所にしてください。」
「近いって・・・どこだ?妙義とか?」

―――俺の気持ち。
それって、どんなだろう?

「どうしても山になるんですか。」
「そう言うわけじゃないけど、この辺山しかないでしょ。」

俺はどうしたいんだろう。
俺にとってどうなるのがハッピーエンドなのかな。

「じゃあ、赤城にする?」

とりあえず、きみがそんな顔を見せる間はエンディングなんて迎えられないけど。

「妙義より遠いと思いますよ。」
「そうだっけ?」

どんなに落ち着いて見せても、やっぱりまだ可愛い。
経験のないものにはちゃんと戸惑う。

きみのその感覚を麻痺させることが出来れば―――満足、だろうか。

「そろそろ交替しませんか?」
「もう?」
「いきなり長距離は無理ですよ。」
「ああ、そうだね。急には、無理か。」

慣れないことはゆっくり覚えさせるしかない。
ゆっくり。
俺が「じゃあ、止めやすい所で止めて。」と笑いかけると、彼女はほっとした顔を見せた。
ウィンカーを出して左に寄ろうとするけれど、まだ車体感覚が掴めていないから寄り切れない。

「もっと左切っていいよ。」
「え、はい。」

でも怖くてちゃんと寄り切れない。
「もっとだよ。」と俺は横からステアリングを握る。わざと彼女の手の上から。


赤城か。
悪くないな。