闇 9




朝起きたら頭痛がした。
せっかくの彼女との一日デート。あんな男のことなんか考えないでさっさと寝ちまおうと、強い酒を一気に飲んだのが逆効果だったらしい。熱いシャワーを浴びて、煙草を吸う。でも今いちすっきりしない。
だけど、顔色はそんなに悪くない。
会ってしまえば何とかなるだろうと思って家を出た。

実際、途中までは何とかなっていた。

「あー、何かずっと座っててケツが痛い。」
「映画が終わって第一声がそれですか?」

隣りで伸びをする俺に、彼女が呆れたように笑ってそう言った。
おそらく彼女は、待ち合わせ場所に現れた俺を見た瞬間に、あまり調子がよくないことに気づいていた。
でも敢えて、それには触れないようにしているようだった。
心配する素振りを見せてもどうせ俺は空とぼけるだろうし、今日はやめておこうと言ったとしても俺がそんなの聞くわけないだろうし。それなら最低限気遣って予定通り映画に行った方がいいと思ったんだろう。

そう。
この子は、すべてを知ってて、そして気づかない振りをすることが多い。
それは意識してやる思いやり、と言うよりは、彼女の性質なんだろう。

「じゃあ、お茶でもしよっか。」
「はい。」

今日はそれに助けられた。けど、同時に苛々した。
どこまで知ってるの。
何を分かってるの。
でも、そんな苛立ちはたぶん、軽い二日酔いのせいで、あの男のことを考えてしまったせいで。
この子のせいじゃない。
―――たぶん、だけど。

この子と一緒にいて楽しいのは事実。
気が付くと何もかも忘れて、素で笑っている自分がいたりする。

そんな彼女とやっとまともなデートだ。彼女も何となくいつもよりお洒落をして来てくれたような気がするし、気分もいい。
くだらないことは考えないようにしようと思った。
楽しい気分のままでいようと思って、なるべく、明るい話題を選んだ。
あいつの名前も口にしないようにした。
今日、あんな顔をされたら、自分が何をするか分からないから。

それが、癖って言うのは恐ろしいもんだ。

映画館近くの店でお茶をして、少しドライブしようと秋名へと向かった。
彼女は俺に無理をさせたくないと思ったんだろう、あまりいい返事をしなかったけれど、最後はやや強引な俺に大人しくついて来た。人ごみの中にいるより今日は車で走ってた方がいいと、彼女に言った台詞は嘘じゃなくて、出来れば雑音の少ない場所に行きたかった。
観光シーズンを過ぎた秋名湖は人影もまばら。
湖畔に打ち寄せる水音を聞きながら、ちゃんは深呼吸して、俺はその横で思い切り伸びをした。

「またお尻痛くなっちゃいましたか?」
「ついでに腰もヤラれた感じ。」
「大丈夫ですか?」
「帰りはちゃんが運転して。あ、どっかで休んでってもいいけど。」
「タクシー呼びましょうか。」

どこまでが冗談で本気なんだか、よく分からない会話をしながら二人で笑った。
こういう空気は、嫌いじゃない。
明るくて、楽しくて、健全な空気。

ちゃん、免許は持ってないの?」
「一応、持ってます。」
「へぇ、そうなんだ?車乗らないの?バスや電車だと不便じゃない?」

迂闊、だった。
―――いや、心の奥底では、望んでいたのかな。

「ああ、運転の上手い幼なじみがいるから、別にいいのか。」

不健全な空気を。
彼女の、あの顔を。

空気が微かに変わる。
けど慌てて取り繕うのもおかしい。
俺は湖面をぼんやりと眺めながら、彼女の反応を待った。
暫くして、なるべくさっきと変わらないような調子で答えようとする彼女の声。

「あの二人の車には、殆ど乗ったことはありません。」
「・・・そうなの?何で?」
「何でって・・・幼なじみなんて、そう言うものじゃないんですか?」
「ふぅん。」

無性に、煙草が吸いたくなった。
こんな空気のいい場所なのに。

「あいつとあんまり仲良くないわけ?」

自分でも、意地の悪そうな口調だと思った。
くだらないことに食って掛かる子供みたいな心境。馬鹿馬鹿しいと思う。分かってる。
ったく、さっきまでの健全な明るい気分はどうしちまったんだよ?
何だろう、徹底的に、追い込みたくなる。


俺を?
彼女を?


口に咥える。
火をつける。
煙を吸い込む。
吐き出す。
一瞬は満たされる。ほんの一瞬は満たされるけど、何だか落ち着かない。

「たぶん、仲良くは・・・ありません。」

彼女も俺のいつもとちょっと違う雰囲気を察したんだろう。僅かに目を細めて見上げてくる。
でも、なるべくいつもと同じように、言葉を返して来た。

「君はさ、あいつのこと、どう思ってんの?」

彼女が、俺をじっと見る。
笑ってなくて、口を閉じてるから、怒ってんのかなとも思った。
確かに、俺に聞かれる筋合いのことじゃないし、余計なお世話だと突っ撥ねるべきことだろう。
それが普通の反応だ。
俺も、煙草を咥えたまま彼女をじっと見る。

「―――片桐さんは?」
「は?」
「片桐さんは、どう、思ってますか。」

それは、きみのこと?
あいつのこと?
きみと、あいつのこと?
どうとでも取れる質問。たぶん、わざと。
ずるいね。

どうしたい、なんて、今さら聞くまでもないじゃん。

いつもの俺なら、そうやって笑って言うだろう。
これだけきみを誘ってるんだから、今さらそんなこと聞かなくても分かってるでしょ?
なのに、今日はそのタイミングを逃した。
軽口って言うのは「テンポ」がなきゃ発せられない。

これは、考えようによっては、絶好の告白タイムってヤツだろう。
でも、目の前で俺を見てる子は、とても男の告白を待ってるような顔つきじゃない。
そんなものを待ってる目じゃない。

きみと付き合いたい。
きみを、自分のものにしたい。
きみを傷つけたい。
あいつを、傷つけたい。

どれも、当たってるけど、十分じゃない。
かと言って、これらに付け足そうとすればするほど、何だか欠けていくような気がする。
答えられないのを分かっていて、聞いてきたような、目。
見透かしたような。
―――なんて、二つも年下の女の子に、何をうろたえてんだ?

「きみは?」

殆ど灰になりかけた煙草を、近くの灰皿に押し付けて、彼女の顔を覗き込むように見る。
少し見開いた彼女の目に、俺は少しだけ余裕を取り戻す。

「きみは、どうしたい?例えばさ、俺とこうやって一緒にいるのって、どうなの?」
「片桐さんと一緒にいるのは、楽しいです。」

彼女は迷うことなくそう言った。
それは嘘じゃないだろう。
でも、あまり『幸せ』には見えない顔。

「じゃあ、あいつと一緒にいるのは?」

わざと、余裕の振りして、お兄さんらしく、優しい声を出した。
彼女は、少し迷った。

「涼介さんと一緒にいるのは―――つらい、です。」

僅かに、痛みに歪んだ顔。
でも、『不幸せ』じゃない顔。


壊したくなる。


これ以上彼女を見ていたら、何かが暴走しそうで、俺はまた煙草を取り出す振りをして目を逸らした。

「俺も、きみといると、楽しいよ。」

これも嘘じゃない。

「いいんじゃない?楽しければ。今は、さ。」

これも本心。
彼女に何も言い返す隙を与えないようにと、多少の威圧をこめて、笑顔を作る。

もう、楽しいだけじゃないし、きっと、楽しければいい訳でもない。
それでも、手放したくない。
けど、苛々する。
少しだけ、あいつの気持ちが、分かる気がしてくる。



この子は、ちょっと、まずい。