deception 10




啓介が赤城に行くと、上りの途中での車とすれ違った。
史浩と同じ車とは思えない元気の良さである。

「おお、頑張ってんじゃん。」

啓介からは思わず小さな笑いが漏れる。
が来てから10日。
しかし実際一緒に走れたのは初日だけである。
練習するには明け方がいいからと、は啓介が帰る頃に現れるのだ。
遊べないのはちょっとつまらないが、その意思は尊重しようと啓介もなるべく邪魔をしないようにしてきた。

聞けば、あの田中という男を一か月でぶち抜くと言う。
啓介にとってはそんなに恐れる程じゃないとは思うが、にはやはり少し高いハードルだろう。
涼介から出された課題も、それなりにきついはずだ。
でも今日この時間に来ているって言うことは、少しは一緒に走れるんだろうか?
そんなことを考えると、自然と口の端が緩む。
に言わせると、初めに散々後ろからウロウロ進路を変えて煽っておいて、中盤あっさり抜いて行くその様は「悪趣味」以外の何物でもないらしいが。

「最初から前に行って下さいよ。いつも後ろからワーッて来て、抜ける所をわざわざ後ろからプレッシャーかけるのやめて下さい!」
「んだよ?俺は邪魔しねーように、ちょっと間隔空けてからスタートしてるんだぜ?けどお前遅ぇんだもん。ほら、下手な奴ってどんなライン取るか分かんねーから、変なトコで抜けねぇしさ。」

嘘である。
啓介がそう言った後「悪趣味」とか「最低」とか罵りながらも結局同じことを繰り返すが可笑しくて仕方ないのだ。
も逃げようと必死になったり、抜かれた後は追い抜こうと躍起になったり、実は密かに楽しいのだが、明らかにからかわれているのが何とも悔しい。

「今日は早ぇじゃん。」

駐車場まで戻ってきたは、眠そうに眼をこする。
パーカーのポケットに手を突っこんだまま声を掛けてきた啓介に、ぺこりと頭を下げた。

「課題、何とか一個形になって来たんで、ちょっと涼介さんに見てもらおうと思って。」
「そうなのか?でも今日ちょっと遅くなるかもよ?さっき家に帰って来たばっかだし。」
「遅くなるって言うのは聞いてたんですけど、その前に少し走っておこうと思って。」
「じゃあ付き合ってやるよ。この煙草一本吸い終わったら。」

そう言いながら煙草を取り出し火をつける啓介を見て、は自分の車へ猛然とダッシュした。

「ムカつく奴だなー。」

鬼の居ぬ間に・・・とばかりに、ホイールをスピンさせ駐車場を飛び出す様子に、啓介は煙草を咥えながらそんな台詞を吐く。
まったくアベコベな表情を浮かべながら。

「史浩、あいつに先輩を敬うってことを教えてやった方がいいんじゃねぇの。」

近づいてきた「先輩」の史浩は苦笑い。
お前はどうなんだ、お前は。

「今涼介から連絡があって、もうじき来れるらしいぞ。」
「何だよ、随分はえーじゃん。」
「今日はも早くから来てるからな。」
「んだよ、そういうこと?アニキもやけにあいつを構うよなー。」
「何だ、やきもちか?」
「そんなワケねーだろ。」

口を尖らせ史浩をじろりと見る。
ブラコンぶりは健在だな、そう思って笑っていると、チームのメンバーの車が何台か入ってきた。
そして啓介と史浩の姿を見つけ、皆二人のもとへやってくる。

「今、とすれ違いましたよ。何かから逃げてるのかと思うくらい、鬼気迫るものがありましたけど。」
「・・・・・・。」

啓介に睨まれた男は、一体何で睨まれたのか分からず、思わず史浩の方を見る。
が、史浩も口を押さえて笑いを堪えるのが精いっぱいだった。

「でも、たった10日位しか経ってないですけど、速くなってきたんじゃないですか?」
「最初が遅すぎただけだろ。」

メンバーは皆結構を気に入っている。
人懐こい性格ではないし、あまり車から降りて話をしたりしないから、可愛がられているという感じでもないが、皆何となく彼女を気にかけている。
見た目が小さいこともあって、ライバルというよりは「弟」の成長を見守る心境に近い。
を口でボロクソに言うのは、啓介とケンタ位である。
松本も身内のせいもあって優しい台詞は口にしないが。
けれど、それらは彼女への愛情を含んでいることは、傍からでも分かる。

「あと一か月なんですよね、あいつのデビュー戦まで。」

「デビュー戦」とは、田中とのバトルのことだ。
一か月で田中を負かすと言うのは、すでに公になっている。
涼介から皆に発表があったとき、啓介こそ「初っ端から大物だなぁ」と茶化すように言ったが、そんな彼も含め、皆無謀ではないと思っている。
その根拠の8割は、涼介への信頼にあるのだが。

「―――田中って奴、車はスカイラインでしたっけ?」

この前の交流戦に行ったうちの一人が、少し自信なさそうに史浩に問いかける。
一体どうしたんだ?と史浩の方も訝りながら「そうだけど?」と返す。

「右後ろにHKSのでかいステッカーが貼ってある?」
「ああ、確かそうだったと思うけど・・・。」
「へえ・・・じゃあ、やっぱり本人だったのかな。偵察にでも来てるんですかね。さっき途中でその車見ましたよ。」
「田中の?―――こんな暗がりでよく分かったな。」
「はあ、たまたま・・・その車からそれっぽい男が降りてくるのが見えたんで。」
「ふぅん・・・。」

別に田中がの様子を見に来ること自体、おかしなことじゃない。
おかしくない―――けど、史浩は何故か嫌な予感がした。
心配症の史浩の胸騒ぎなどあまり当てにならない。
それは本人も自覚しているが、どうも落ち着かない。

「―――どうしたんだよ、史浩?」
「ちょっと様子を見に行って来る。」
「ふーん?じゃあ俺も―――」
「啓介は来るな。」

思わず強い口調になってしまった自分に、史浩自身も驚いた。
俺は何を言っているんだろう?
何を心配しているんだろう?

いつもと少し違う様子に、啓介も思わず動きが止まる。
史浩は慌てていつものように笑って見せた。

「ちょっと見てくるだけだよ、すぐ戻る。」
「・・・まあ、いいけど。」

啓介も軽い気持ちで言っただけだ。
別にそんなに一緒に行きたいと思って言い出したわけじゃない。
ちょっと驚いたが、そんなに深く考えずあっさりと引き下がった。
史浩は、自分の車に飛び乗りたい衝動を懸命に抑え、いつも通りのんびりと歩くように努める。

―――いったい俺は何が気になってるんだ?

車関係で年に何回か会うくらいで、田中とは個人的な付き合いは全くなく、正直彼のことを何も知らない。
いい奴なのか、悪い奴なのか、も。



コース終盤、流し気味に車を走らせていたは、ふいに外からの視線を感じた。
何となく、懐かしいような感覚。
さらにスピードを緩めて周りを見渡すと、前方の奥まったスペースに田中の車が止めてあるのが見えた。
反射的にそのスペースに車を滑り込ませる。

レッドサンズに入る前日、今まで通っていた峠に行ったのだが、たまたまその日は田中がいなかった。
彼の連絡先も知らないので―――敢えて知ろうとしなかったと言うのが本当のところだが―――その日来ていた人に、自分が赤城に行くことを伝えた。
その後も一度は本人にある程度ちゃんと話をしておきたいと思っていたのだが、結局毎晩走り通しで疲れ切ってしまい、田中たちの峠の方へ顔を出す余力がなかったのだ。

「―――よお。」

が車から降りると、カサッという草音とともに、田中の声が背後から聞こえて来た。

「・・・久しぶりです。」
「まだ10日位しか経ってないから、久し振りってことはないんだけどなぁ。」

相変わらず帽子を深々と被って、低い声で挨拶をするに苦笑する。
これで本当に騙せていると思っているんだろうか?
僅かな苛立ち。
しかし、彼女をわざと「男」に仕立て上げたのは田中自身だ。
最初、の方には、女であることを主張するつもりもなかっただろうが、それと同時に、特に男の振りをしようなどという考えもなかったはずだ。
田中はそれを知っていて、わざと男を相手にしているかのように話しかけた。
の方もそれに乗じて来る。
なぜそんなことをしたのかと言えば―――単に面白そうだったからである。
そういう余興があってもいいと思った。
暫くすると、その目的は変わってきてしまったが。

「頑張ってるみたいじゃないか。」
「・・・あの、俺、ちゃんと話をしたいと思ってたんですけど・・・。」

田中はチラリと周囲をうかがう。
週末ということもあり、多少ギャラリーの姿もある。
新しくレッドサンズに入ったにちらちらと視線を向けてくる人間も目についた。

「―――じゃあ、ちょっと向こう行こうか。」

話とか聞かれると鬱陶しいし。
そう言って、先の方に見える小道を指差した。



乾いた草の音と小石の音が、足元から聞こえてくる。
山の間の小道にはもちろん外灯等はないが、今日は月の光が明るくて、前を歩く田中の姿は難なく追うことができる。
木々の間から車のヘッドライトの光も届かない場所まで来て、田中は足を止めた。
も、彼から3歩くらい離れて止まる。

「―――あの、バトル、受けてくれてありがとうございます。」

田中からの返事はない。
は沈黙が何となく怖く感じて、言葉をつづけた。

「あと、ちゃんと挨拶とか行けなくて・・・すいません。」

まだ返事はない。
やはり怒っているのだろうか。
は必死に次の言葉を探す。
足もとに何かヒントが落ちているわけではないのだが、思わず自分の足元をじっと見てしまう。

「―――別に謝ることじゃないだろ。チームのメンバーだったわけじゃないし。」
「でも、お世話になりましたから。」

過去形の表現に、田中は不意に先ほど以上の苛立ちを覚える。
もう自分はにとって過去の存在なのか。

「―――俺を負かすって?」
「・・・はい。」
「一か月で?生意気だな。」
「・・・分かってます。」

暗がりでよく見えないとは言え、が委縮しているのは空気で分かる。
「分かって」いても「無理」だとは思っていないらしい。
自分の腕にそれだけの自信があるのか?
涼介の指導にそれだけの手ごたえを感じているのか?

どちらにしろ―――生意気だ。


「何を賭ける?」

じゃり・・・と音がして、田中の影が少し大きくなった。
は無意識に一定の距離を取ろうと、後ずさる。

「勝ったら何でもやってやるよ。何がいい?」
「―――え・・・別に何も・・・。」
「前にスポンサーになってやるなんて話もしたよな。」
「それはもう・・・。」
「それは、もう必要なくなったか?」

近づけば近づくほど遠ざかろうとする
田中は大股で前に踏み込み、の腕を掴んだ。

「俺から欲しいものなんて、何もないか。」
「―――っ!田中さん?」

その腕を掴む強い力に、は思わず高い声を出してしまう。
慌てて口を噤む彼女に、田中は口元を歪ませた。

「―――んなの、ばれてるっての。」

え?
が声を上げようとする。
けどその前に、田中は彼女の腰を引きよせ、強引に唇を重ねた。

一瞬何が起きたか分からない。
腰に回された手が上の方へスライドし、胸の膨らみに触れられても体が動かなかった。

「―――んんっ!」

舌が絡められ、ようやく抵抗を試みようとするが、抱きすくめられて結局身動きは取れない。
視界が真っ暗になりかけたとき、ぐいと強く後ろに引っ張られる力。

「やめろ!」

は別の腕に抱きしめられる。
その力は田中同様に強かったけれど、包み込むような力。

「・・・史浩さん・・・」

は自分に回されたその腕をぎゅっと掴んだ。



目の前の光景を見て、史浩は一瞬目の前が真っ赤になった気がした。
後で冷静になって考えてみれば、ただのラブシーンだったかもしれないのだ。
田中とが実は恋人同士だったということだって、あり得ないことじゃない。
実際、あまり抵抗していないようにも見えた。
でも、体の方が勝手に動いて、を田中から引き剥がした。
自分の腕をぎゅっと掴む彼女を見て、更に頭に血が上った。

「―――なんだよ、史浩。お前もこいつが女だって知ってたのか?知らぬは本人ばかりなりって、まさにこのことだな。」
「ふざけるなよ、田中。いったい何の真似だ!」
「何って―――こんな暗がりにのこのこついて来る女に、男の怖さを教えてやろうと思って。」
「お前―――っ」
「素直じゃないな、田中。」

史浩の背後から、別の男の声。
その低い声は、いつもと変わらないようでいて―――僅かに怒りを滲ませているのが分かる。

「本人を目の前に、やはり自分のものにはならないと分かって強行手段か。」
「・・・涼介・・・。」
「変わった取り合わせの車が3台も止まっていたら、不審に思うさ。」

そう言って、まだ史浩の腕の中にいたの髪をサラリと撫で、自分の上着でその体を包んだ。

「なりふり構っていられないと言う焦りは理解できないこともないが、こういうのは―――感心しないな。」

涼介が睨むが、田中の方も逃げずに睨み返す。

「すかした言い方だな。」
「―――俺がすかした言い方しているうちに止めておけよ。」

ひやりとした空気が流れる。
事なかれ主義の傾向がある史浩は、こういうときは「まあまあ」と宥める役に回るものなのだが、今回は全くその気配を見せない。
むしろ涼介よりも彼の方が殴りかかりそうな雰囲気だ。

―――大事にされてるな。

田中は、この二人の様子を見て、冷静にそんなことを思う。
馬鹿らしさと腹立たしさが、ない交ぜになる。
そして最後の「余興」を口にした。

、さっき何も賭けるものがないって言ったよな。じゃあ俺が勝ったらお前はレッドサンズを抜けて戻ってくるって言うのはどうだ?」
「―――え?」
「一か月で結果の出せない奴なんか、お前だっていらないだろ?涼介。」
「―――なら、お前が負けたら、二度とこいつの前には現れるな。」
「おい、涼介!?」

それって、田中の要求を飲むということじゃないのか?
正気かと問いたげな史浩に向って、涼介はいつものように口の端を僅かに上げて笑った。
いつものように自信に満ちた―――

も、それでいいな。」
「―――はい。」

はっきりとしたの声。
今の今まで史浩の腕を掴んでいたのに、今は田中をじっと見ている。

「じゃあ、お手並み拝見と行こうか?」



田中が去り三人だけになって、史浩はようやくを放した。
先ほど肩にかけた涼介の上着が落ちそうになり、涼介はそれをかけ直して肩を抱く。

「大丈夫か。」
「―――はい・・・すいません。迷惑掛けてしまって・・・。」
「いや、俺こそすまない・・・。」

田中に面と向って「俺が守る」とか言っておきながら、このザマだ。
涼介は何かを殴りつけたい気持ちをぐっと抑える。

「お前も知っていたんだな、涼介。いつから知ってたんだ?」
「最初に会ったときから気づいてたさ。先入観のある奴は気付かないかもしれないけどな。普通に女だと思ったぜ。」

その言葉に、は少なからずショックを受ける。
自分はいったい何をしていたんだろう。
田中のいう通り「知らぬは本人ばかり」とは正にそのとおりで、自分一人がばれていないと思っていた。
悔しい。
何かを堪えるように、歯を食いしばる。

「―――女として扱われたくなかったんだろう?」

涼介はの髪に触れようとしたが、必死に何かを抑えている彼女の邪魔はしないように、その手を下す。

「男と対等にやり合おうとしたんだろう。そういうのは悪くないと思うぜ。」

「女扱いしないで」と言う女も、いないことはないが、それをこのような形で実践している奴はそうそういないだろう。
男ことばは板についていなくて、見た目も、どう見ても華奢な女なのに無謀だなと思っていたが。
でも、嫌いじゃない。

「暫くは知らないふりを通そうと思っていたが―――まあ、いい。女だからと言って俺のやり方に違いはない。」

さらりと、が一番気にしていたことを、涼介は言ってのける。
当然のように。

「―――俺、勝ちます。こんな所で負けてられません。」

ついこの間まで、あれだけバトルを嫌がっていた人間のものとは思えない台詞。
そのキッパリとした口調は頼もしくて、史浩は少しでも心配した自分が恥ずかしくなった。

「当然だな。」

隣りに立つ男も、迷いなく答える。


バトルまで―――あと、20日。