deception 14




バトル当日。
峠に向かう途中に寄ったコンビニで、が棚から水のペットボトルを取り出すと、その彼女の手からひょいとボトルが奪われた。
振り返ろうとすると、もう一方の腕が伸びてきて、棚からもう1本ペットボトルを引き抜いた。

「―――修ちゃん。」
「他にいるものは?」
「ううん。ない。」

が首を横に振ると、松本はそのままレジに向かう。

「―――ほら。」
「ありがとう。」

店の外に出て、松本がさっきのペットボトルを1本に渡す。
松本にはやたら素直だよな、とそんな二人の様子を近くで啓介とケンタが眺める。
松本も彼女に対しては他の人とはちょっと違う。
怖い親父と言った雰囲気だ。
いつも穏やかな顔をしているが怒らせると結構怖いんじゃないか?
今までもチーム内ではそう噂されていたが、に対する彼の態度に、きっと怒らせてはいけないタイプだと全員見解が一致しつつある。

「車の方は万全だから、思い切り行ける。」
「―――うん、ありがと。」

今までももちろん松本には絶対的信頼を置いていたが、このチームに入って直接の走りを見てセッティングしてもらうようになり、改めて幼なじみの凄さを実感している。
彼女の走りのクセに合わせて、走りやすいように完璧に仕上げてくる。
同じ車なのに、こんなに変わるものなのかと驚くばかりだ。

「今日はずいぶん無口じゃねぇか。緊張してんのか?」

車に乗り込もうとしたとき、隣りに車を止めていた啓介が煙草を咥えながらを見て笑った。
こんな時に緊張しないわけがない。
すでに手の平は汗で湿っている。
でも素直に認めるのは悔しいので、「そんなことありません」と啓介を小さく睨んだ。

「何か、他人のバトルでやる前からこんなにヒヤヒヤするのは初めてだぜ。」
「・・・何で『ドキドキ』とか『わくわく』じゃなくて『ヒヤヒヤ』なんですか。」
「ん?それ、言わなきゃ分かんねぇ?」

意地悪い笑みをする啓介を、今度は思い切り睨んで車に乗り込んだ。
セルを回そうとすると、隣りからFDのエンジンが始動する音。
その向こう側からは、また別のエンジン音。
何台ものチューニングカーのエンジンの音がの耳に飛び込んでくる。
今さらながら、これだけの人たちと一緒のチームで走っているということが、不思議に思えた。
今までずっと通っていた峠に、バトルをしに行くというのも信じられない。
一か月前には想像もしなかったことだた。

峠でこんなに笑ったり、泣いたりすることがあるなんて、思ってもみなかった。
―――ここに、いたいと思う。
だから、今日は絶対に勝たなきゃいけない。



峠は、この前の交流戦以上の緊張感に包まれていた。
ナンバー1の田中がバトルすること、今まで同じ峠を走っていたがその相手であること、しかもそれがレッドサンズのメンバーであること、それらに対する各人の様々な思いが、自然と空気を張りつめさせているらしい。

「よう―――元気そうだな。」

見慣れたロードスターからが姿を現す。
何台もの隊列の前方に位置していた彼女の車には、赤いステッカー。
この前赤城で会った時も貼ってあったのだろうか。あの日はそこまで目が行かなかった。
年に数度現れる連中の中に、あのがいるという事実は、何となく田中を物悲しい気分にさせる。
憤りとか怒りとか言うよりも、寂しさ―――みたいな感情の方が先にたつ。

「今日は、よろしくお願いします。」

小さく頭を下げ、しおらしい挨拶。
田中は「調子が狂うな。」と苦笑い。

「今日は随分と大所帯だな。」
「これくらい大勢で押しかけた方が、お前も燃えるだろう?」
「もっと内輪でやった方がよかったんじゃないのか?」

どういう意味だと問うまでもない。
しかしは無表情なまま田中を見上げるだけで、寧ろ斜め後ろに立っていた史浩の表情の方が険しい。
別に今日は強制参加ではないが、自然と多く集まった。
普段の交流戦の何倍も豪華なメンバーである。
レッドサンズのメンバーでなくても、普段赤城を走っていて今日の噂を聞きつけた人間も何人かギャラリーに来ている。
良くも悪くも、チームの内外でのデビュー戦が気になる人間は多いらしい。

、約束は覚えてるよな?」
「―――覚えてます。」

の横で、啓介が舌打ちする。
こいつも知っているのか。
その様子を見て、田中はそんなことを思う。

「でも俺、負けませんから。」

田中を見据え、落ち着いた声。
ハッタリには聞こえないのそれは、田中の笑みを誘った。

「―――生意気だな。」

田中がの方へと一歩足を踏み出す。
それと同時に、の隣りにいた史浩が彼女を庇うように前に出た。
この前までは単に気のいい奴とばかり思っていたけれど、その表情を見ると、なるほど涼介が長い間ずっと信頼し続けている理由はそれだけではないのかもしれない。

「くだらねぇ話してないで、さっさと始めようぜ。」

少し苛立った啓介の声で、周りの人間が一斉に動き始めた。
も促されて自分の車に乗り込もうとしたが、ふと、後ろを振り返る。
こちらを見て、そこに立ったままだった田中の姿。
は一瞬戸惑ったが、決心したように口を開く。

「あの、俺―――」
「愛の告白は後で聞くよ。とにかくこのバトルは、俺も本気で行くからな。」

そう言っての言葉を遮り片手を上げて笑った田中は、今までの彼のままのようでは少しほっとしたように息をついた。
そして、後ろで「やっぱあいつ、ホモじゃねぇの!」と冗談ぽく憎まれ口を叩く啓介に思わず噴き出した。
何だか今日は緊張感があるのかないのか分からない。

カウントは啓介が取ることになり、涼介と史浩はゴール地点に先に行くことに。
スタート地点に車を並べ終えると涼介が近付いてきたので、は窓を開けた。

「このバトルについては、今さら何もアドバイスすることはないけどな。」

そう言ってドアに手をかけ、涼介は身を屈める。
そして耳元で「」と自分の名前を呼ぶその声に、ただでさえドキドキしているのにはさらに鼓動を跳ね上がらせた。
この前はその腕に安心感を覚えたけれど、やっぱり苦手というか―――緊張する。

「退屈なバトルはするなよ?」
「―――それって・・・」

どういうことですか?と聞き返す前に、涼介は「下で待ってる。」と言って車から離れてしまった。
を見透かしたような台詞。
昨夜にこの峠を走ってから、どうしようかと考えていたこと。
退屈じゃないバトル。
でも、それで大丈夫なんだろうか。勝てるんだろうか。
涼介がそうアドバイスするということは―――それでも勝算は高いと思っていいんだろうか?
そんなことを考えていると「カウント行くぞ!」と啓介の声。
は勢いよくエンジンを回した。




「―――なあ、本当にこのバトル、大丈夫なんだよな?」

史浩の車の中。
走り出して暫くの沈黙の後、史浩が口を開いた。
不安そうなその口調に、涼介はわざと冷たく返す。

「どんなバトルでも『絶対』はないさ。」
「おい、涼介〜。」

予想通りの史浩の泣き声に、涼介は思わず笑いを漏らす。
実際には、この余裕が何よりもの証拠なのだろうが、それだけでは不安を払拭できないのだろう。
あんなに本人の前では勇ましいのに、仕方のない奴だな。
心の中で呟く。

「あいつが最初に前に出れば、余程馬鹿な事をしない限り、まず間違いなく勝つだろうな。」
「えっ!そうなのか!?でも、田中は一応ここでは最速なんだぞ?」
「最速って言っても、それはこの峠内での、相対的な話だろう。はっきり言って、ここはそれほどレベルは高くない。」
「だけど―――」
「何だよ史浩、そんなにに負けて欲しいのか?」
「そんなわけないだろう!そんなわけないけど・・・。」

田中に対する辛辣な評価も、史浩は素直に頷くことが出来ず口籠る。

「―――あいつがこの一ヵ月で、どれだけの時間走っていると思う?」

たぶん、涼介がどんな言葉を並べたところで隣りの心配症な男を安心させることは出来ないだろう。

「しかも慢然とではなく常に目的を意識して、だ。たぶん、田中の半年分―――いや、最近では1年分にも相当するかもな。」
「そんなに、なる、かな・・・。」
「たぶんがスタートで前に出たら、最初は直線も比較的長いからあいつの車ならパワーでついて行けるだろうが、コーナーの3つ目辺りから徐々に差がついて来るだろう。ブレーキングはお世辞にも上手いとは言えないからな。」
「・・・随分な言いようだな、涼介。」
「正直に言っているだけだ。」

史浩は少し余裕を取り戻し、苦笑する。

「じゃあ、とりあえず先行すればいいんだな?」
「まあそうだが―――たぶん、は後ろに引くだろう。」
「何でだ!?車のパワーの差かっ?」
「それはあまり問題にならないんだが―――俺のアドバイスを素直に聞いたとすれば、田中を先に行かせるだろう。」
「何でそんなアドバイスしたんだよっ!ここは確実に勝ちに行くべきじゃないのか!?」
「しかし、それじゃあ確実過ぎて―――本人もつまらないだろうからな。」

この世の終わりみたいな顔をする史浩が可笑しくて、涼介は思わず声を出して笑ってしまった。
そして、笑い事じゃないだろうと怒られた。

は昨日の夜にここを走って、たぶん、今俺が話したような展開を容易に予想出来てる。直接田中に教えてもらったりはしていなくても、その後ろについて走ることはこの半年の間に腐る程あっただろう。昨日もタイムは計らせていないが、余程怠慢な奴じゃない限り実際にそんなものを計らなくても大体見当がつく。油断さえしなければ勝てることはもう分かってるはずだ。」
「それじゃあ、つまらなくてもいいじゃないか。何もそんなリスクを増やさなくても・・・」
「まあ、もちろんただ普通のバトルなら、そんなくだらないアドバイスはしないんだが。これは、と田中のバトルだから―――な。」

そう言って、窓の外の方を向く。
涼介の言葉の意味が、分かるようで分からない。
けれど、涼介の方にこれ以上は話を続ける気がないらしいと分かると、史浩も諦めた。
もう上ではスタートしているだろうか。
一体この後どうなっていくのだろうか。史浩は涼介に気づかれないように小さくため息をついた。



スタート地点では、既に2台の車は消えていた。
カウント直後、啓介は走り去る2台を振り返る。
の車はこの前のようにブレーキング競争で負ける、というよりその前の直線からわざと田中に先に行かせているように見えた。

「―――何やってんだ、あいつ。」

苛立ちとともに舌打ちが出る。
バトルが2回目というには、もちろん後ろから抜くなんて言う経験を持ち合わせていない。
ましてや相手はパワーのあるERスカイライン。
前を走るプレッシャーはあるかもしれないが、それでも先に行った方が確実なのではないか?
スタート前、兄がアドバイスしたように見えたが、一体何を言ったのだろうか。

「―――くそっ!」

足元の小石を蹴り飛ばし、煙草に火を付けた。
そこに、ケンタが走り寄る。そしてさらに啓介を苛立たせるようなことを言った。

「啓介さん、・・・さっきあいつが言ってた約束って何なんですかね?」
「あぁン?」

素朴な疑問を口にしただけなのに、滅多に見ないような怖い顔で睨まれ、ケンタは訳の分からないまま身を縮みこませる。
そんな彼の様子を見てちょっと反省しつつも、どうしても苛立ちは隠せない。

「別に、お前は知らなくていいよ。」
「―――大方、負けたらレッドサンズをやめろとか戻って来いとか、そんなところでしょう?」

その声の主は、啓介の背後に立っていた。
腕組みして呆れたような顔で、の消えていった1コーナーの方を見ている。
「ええっ!?」と大声を出すケンタは無視して、啓介は松本を振り返った。

「お前も知ってたのかよ?」
「いえ、知りませんでしたが―――こんな所で交わす約束なんて、そんなものでしょう。」
「・・・黙ってて悪かったな。松本はあいつの身内みたいなモンなのに。」
「別に謝ることじゃないですよ。知っていたところで、どうにか出来るわけじゃない。約束を交わす時に立ち会えたならまだしも。」
「俺も、一体どういう経緯でそんなことになったのか知らねぇんだよ。アニキもそれに関わってるってのが、なんか納得いかねぇんだけど。」

涼介と史浩は、あの夜の「賭け」のことはチームの誰にも言わないでおこうと決めていた。
特に松本に知られてはいけない。
賭けをするに至った理由を知ったら、この一見温厚そうな男は何をしでかすか分からないというのが二人の一致した意見だったからだ。

「約束をしようが何をしようが、あいつはあいつです。実力以上の走りが出来るわけじゃない。」
「冷静だな。」
「この一か月、ずっとあいつを見てきましたから―――大丈夫ですよ。」

啓介だって、ずっと見守ってきた。
の実力を信じていないわけじゃない。
けれど、バトルなんて何が起こるかなんてギリギリまで分からないのだ。
この落ち着きは10年以上の付き合いから来るのか。啓介は松本が少し羨ましい。

この前と啓介がオフィシャルをして立っていた4コーナーから、二人はテールトゥノーズで通過したと無線が入った。
当然のように、が後ろのまま。