deception 32
啓介が下に行くと、珍しく父親がリビングで新聞を読んでいた。
「どうしたの、オヤジ。こんな時間にいるなんて珍しいじゃん。」
「・・・もうじき出かける。」
顔を上げず新聞をバサバサと捲る父。
もともと家族の交流などというものには無縁で無愛想なので、そんな態度も気にならずお腹を掻きながら洗面所へと向かう啓介。
すると、そこには先客の姿。
ワイシャツにダークグレーのスラックス。
そして鏡に向かって髪を梳く顔は、リビングにいた父親以上に不機嫌だ。
啓介は横からヒョイと歯ブラシを取り、コップに水を汲む。
「どうしたの、アニキ。そんなオシャレしちゃって。」
「・・・ちょっと出かけてくる。」
「ふーん、オヤジと?」
「いや、親父は様子を見に帰ってきただけだ。俺が逃げ出してないかどうか。」
「逃げ出す?アニキが?一体どこ行くんだよ?」
歯磨き粉で口の中を泡だらけにしながら、訝しげな目をして鏡越しに涼介を見る。
髪を整え終えた涼介は、眉を顰めたまま盛大なため息。
ここまであからさまに不機嫌さを表に出す兄も珍しい。
今日は朝から珍しいことだらけだ。
「―――お前、これから何か用事あるか?」
「いや、別にねぇけど?」
「じゃあちょっと駅前のTホテルまで送っていってくれ。」
「Tホテル?結婚式か何か?」
「それなら、まだいいんだがな。」
そしてまた深いため息。
ガラガラとうがいをする啓介の横で、手を洗う涼介。
ワイシャツのボタンを留めながら、「どうせ後で分かることだからな・・・」と呟く。
「人に会って来る。」
「・・・誰?」
「さあな。親父の知り合いの姪だという話だが。」
「それって・・・まさか、お見合いってヤツ?」
「・・・・・・。」
兄の不機嫌な顔がその回答だろう。
啓介は家中に響き渡るような声を上げた。
「マジでっ!?何だよそれ!!」
「・・・親父が勝手に決めてきたんだ。どうしても断れなかったらしい。」
「そんな断れない相手と見合いなんかして、気に入られちまったらどうするんだよ!?」
こんな男を見て気に入らないなんて、よっぽどマニアックな女だろう。
今日は前髪を上げていて、普段と違うその姿に弟の啓介でさえも惚れてしまいそうである。
「それはないだろう。」
「何で分かるんだよ!?」
「相手は高校生らしいぜ。こんなオヤジに興味は示さないさ。」
「高校生!?・・・って、緒美と見合いするようなモンじゃん!」
「正気の沙汰じゃないな。」
チラリ、とリビングの方へ視線を向ける涼介。
なるほど、オヤジらしさを出すために髪をオールバックにしたのかと気づく。
逆効果になるとも限らないが・・・。
「・・・でも、アニキ、緒美のこと気に入ってんじゃん。緒美もアニキにベッタリだし。高校生でも可能性なくはないだろ。」
「緒美と結婚なんてあり得ないな。あいつは可愛い妹だ。あいつだって俺のことを肉親だと思って慕って来るんだ。」
「・・・ま、いいけどさ。あいつは知ってんの?今日のこと。」
「教えていない。余計なことに気を揉ませる必要はないだろ。」
まあそうかもな。
冷たい水で顔を洗い、涼介に差し出されたタオルでゴシゴシと拭きながら心の中で呟く。
けれど、何となく納得いかない。
オヤジが断れないからって、アニキまで素直に従うことないじゃないか。
あいつが―――がいるのに。
そんな啓介の考えていることが分かったのか、涼介はネクタイを結びながら不機嫌そうな低い声で言う。
「知り合いと言うのが大学関連でな・・・俺も無下に断れないんだよ。」
「そんなこと言って、取り返しのつかないことになっても知らねーからな。」
「ご忠告、感謝するよ。」
「・・・じゃあ、ちょっと着替えてくる。」
この話がまとまったら、あいつの面倒は俺が見てやるよ。
そんな言葉も啓介の頭に浮かんだけれど、声に出すのは止めておいた。
「―――帰りは?」
「タクシーで帰るよ。」
涼介をホテル入口で降ろし、ロビーへと消えて行く姿をサイドウィンドウ越しに見送る。
さて、どこかで飯でも食って帰るか。
そう思って車を発進させようと思ったときに、目の端に何かが映った。
一瞬何が目にとまったのか自分でも理解できず眉を顰める啓介。
そして確かめるために、もう一度ロビーの方を見た。
「―――?」
奥から出てきたのは、と品のいい感じの夫婦らしき男女。
啓介の両親より少し年は上だろうか。
は二人と楽しそうに話しながらこちらへ近づいて来る。
刺繍の入った白いワンピースに、白いサンダル。
うっすら化粧をしているようにも見える。
その見慣れない雰囲気の彼女に啓介は思わず見入ってしまったが、慌てて車を動かした。
「それじゃあ、たまには家にも帰って来なさい。」
「うん。」
「修一君にもよろしくね。」
の両親が、タクシーに乗り込む。
手を振って、走り出す車を見送っていると、目の端に何かが映った。
一瞬何が目にとまったのか自分でも理解できず眉を顰める。
確かめようとするまでもなく、その人物―――啓介がの名前を呼んだ。
「何でここにいるんだよ!?」
「それはこっちの台詞ですよ!」
せっかく清楚な井出達でも、啓介の前だといつもと変わらない。
啓介は苦笑しながらをそこに留め、急いで車を駐車場に入れた。
さっき一緒にいた二人は、啓介も予想した通りの両親だった。
年に何回か、彼女の様子を見に出てきて、このホテルのレストランで食事をするのだと言う。
「啓介さんは、何の用だったんですか?」
「・・・お前、ホテルの中でアニキに会わなかった?」
「涼介さんに?いえ、会いませんでしたけど。」
ちょうど上手い具合にすれ違ったのか。
ほっとしていいのかどうか、啓介は複雑な気分だ。
「涼介さんが来てるんですか?結婚式とか?」
「いや・・・違う。」
はっきりしない啓介に、は訝しげな視線を向ける。
その視線を避けるようにホテルの奥を見やり、アニキのことを口にしたのは失敗だったな、と後悔した。
しかし今さら誤魔化しは利かないだろう。
第一、兄と違って啓介は嘘をつくのが苦手だ。
「・・・お前ってさ、何でも知っていたいって思う方?それとも知らない方が幸せだって思う方?」
「何ですかそれ。浮気か何かみたいですね。」
当たらずしも遠からず。
啓介は何とも答えられず「いいからどっち?」と少し苛立った声を出す。
「・・・ここまで来て何も教えられなかったら、気になって眠れなくなりそうです。」
少し迷いながらも自分をじっと見てそう答えるに、啓介は深く息を吸い込み「分かった」と小さく言う。
そしての腕を掴んだ。
「じゃ、行こうぜ。」
「どこへ?」
「アニキが見合いしてる店。」
「えっ!?」
啓介の言葉に、思わず腕を引こうとする。
それはそうだろう、自分の付き合っている男が別の女と見合いをしていると聞いて、うろたえないはずはない。
彼女の気持はよく分かるけれど、啓介は敢えて乱暴に言った。
「何でも知りたいんだろ?」
「そうだけど、何で見合いなんて・・・。」
「アニキが好き好んで来ると思う?」
「思わないけど・・・。」
「じゃあいいじゃん。どんな女か気にならねぇ?」
「・・・啓介さんが気になってるんじゃないですか?」
「それもある。」
ニヤリ、と笑い、今度はの腰に手を回してホテルの奥へと向かった。
母親と一緒にいた少女は、本当にまだ「結婚」というものからは無縁のような子だった。
多少化粧をしているせいか、緒美よりは大人びて見える。
けれど涼介からしてみれば子供にしか見えない。
一体何を急がせているのか。
涼介は余所向けの笑顔を作ってにこやかに挨拶しながら、隣りの母親を見る。
母親の方は、一目で涼介のことが気に入ったらしい。
自分の方が頬を少し赤くしながら嬉しそうに娘を紹介する。
本人の方は、涼介が現れた時一瞬見とれたようにぼーっとしてしまっていたが、母親の話が始まると目を伏せてしまった。
どうやら本人は乗り気ではないらしい。
そう思った涼介は、そんな彼女の反応を見てほっと胸を撫で下ろす。
「―――学校は楽しい?」
早々に母親と別れ二人だけになり、ホテルの中庭に出る。
先ほどまでは涼介が何を聞いてもまず母親が答えてしまって、本人はずっと口を噤んだままだった。
二人になれば少しは本音が出るかと思ったが、コクリと頷いただけでなかなか口を開こうとしない。
まいったな。
涼介がため息をつきかけた時、ようやく彼女の口が開く。
「―――あの、涼介、さん?」
「はい?」
「何で、このお話を受けたんですか?お見合なんかしなくても・・・いくらでもお嫁さん来そうなのに。」
涼介が顔を向けると、慌てて目を背けて顔を赤く染める。
そう言う様子は素直に涼介も可愛いなと思ってしまう。飽くまで妹か何かを見るような感覚ではあるけれど。
「きみは、どうして?まだ高校生で、結婚には早いんじゃないかと思うけど。」
「・・・それは、親が勝手に決めて来ちゃって・・・。」
「何できみのご両親が見合いなんて言い出したんだろう?」
「それは・・・。」
言い淀む少女。
涼介は近くにあったベンチに座るよう促した。そして自分もその隣りに腰を下ろす。
その時、ふと何かが視界の端の方に映った気がした。
眉を顰めてその影を追う。けれどそこには何もいない。
気のせいか―――と思うと同時に、何か嫌な予感もした。
「・・・私が、東京の大学に行きたいって言ったからだと思います。」
少女はポツリポツリと少しずつ話し始める。
両親は彼女にエスカレーター式の短大へ行って欲しいと思っていたのに、東京へ行きたいと言い出して大反対したらしい。
そんなときに運悪く、と言うべきかどうか、涼介の話を聞いていっそのこと見合いをさせて結婚させてしまおうと思ったのだとか。
涼介なら、今は群大だし将来は親の病院を継ぐことになる。
自分たちの側から遠く離れることもないし、ゆくゆくは大病院の院長夫人・・・などと考えたのだろう。
大人とは勝手なものだ。
身を屈めて深くため息をつく。
「きみは、このまま大学に行けなくていいの?」
「・・・え?」
「大学へは、何か勉強したいことがあって行きたいんだろう?それを簡単に諦めてしまってもいいの?」
「でも、両親を説得する自信がなくて。」
「自信がなくても、本当にやりたいことがあるなら、まず理解してもらおうとしなちゃ駄目じゃないかな。」
「そんな簡単に・・・」
「簡単じゃないさ。」
簡単じゃない。
親を説得することがどれだけ大変なことかは、涼介にだって分かっている。
涼介の両親は、涼介が東京の大学へ進学することを望んでいたが、本人は第一希望が群大でそこ以外は受けるつもりがなかった。
群大でも十分な医学を学ぶことができると言うのが一番の理由だったが、本当はそれ以外にも理由はある。
一つは弟。もう一つは車。
当時の啓介を一人にして、自分だけ東京へ出て行く気にはなれなかった。
―――もちろん、啓介本人にはこの話はしていないが。
車は、高校2年の頃に先輩に赤城へ連れて行ってもらったことがあり、それからずっと自分も走りたいと考えていた。
とはいえ、当時の自分はここまで車にのめり込むとは思っていなかったけれど。
「―――でも、好きなことをするには、ちゃんと説明しなきゃいけない。」
涼介は柔らかい笑みを少女に向ける。
柔らかい―――けれど、優しいだけじゃなく、奥に強い光が潜んでいるのを感じる。
お兄さんがいると、こんな感じなんだろうか。
その笑みを見ていると、少女自身も何だか親を説得できるような気がしてきた。
「もし何か困ったことがあったら連絡しておいで。相談には乗るから。」
「はい・・・ありがとうございます。」
少女も涼介を見上げてニコリと笑った。
今日初めて見せた彼女の笑顔。
緊張が解けて本心から微笑んでいる彼女を見て、涼介も少しだけ本当の笑みを漏らした。
しかし、次の瞬間彼女の表情が曇る。
「それじゃあ・・・あの・・・このお見合はお断りしちゃっても・・・?」
「ああ。それは構わないよ。」
「ごめんなさい・・・。」
申し訳なさそうに頭を下げる彼女。
「断ってもらえないと、私も困るんだ。」と涼介は苦笑する。
その台詞に彼女は「あ、そうか」と口を押さえて少し恥ずかしそうにした。
「彼女さん・・・いるんですね。そうですよね、涼介さん位カッコいい人なら。」
「私こそ、この話を断れなくて申し訳なかったと思ってる。」
「いえ、いいんです・・・。あの、こうやってお話出来てよかったです。」
少女は、ふと、涼介の付き合っている女性と言うのが気になった。
カッコよくて笑顔が素敵で、優しそうで・・・こんな人が好きになる女の人というのは、どんな人なんだろう?
二人は立ち上がり、再び中庭を散策し始める。
「あの、涼介さんの彼女って、どんな人なんですか?」
「―――そうだな・・・ちょっと抜けてる、かな。」
「天然ってことですか?癒し系・・・とか。」
「それはどうかな。結構言いたいことズケズケ言うし、気は強いよ。」
彼女のことを思い出しているのか、楽しそうに話す涼介。
さっきまでの笑顔もきれいだったけれど、今の表情はもっと楽しげで、優しくて、少女が思わず嫉妬してしまいそうになるくらいだ。
「―――会ってみる?」
「えっ?」
思いがけない言葉に、少女は歩みを止める。
涼介も足を止め、チラリと後ろを振り返った。
その瞬間、後ろの方からカサカサと不自然な葉音。
訳も分からず呆然としている少女をそのままに、涼介は大股でその音のする方へと近づいて行く。
「うわっ!どうしてばれたんだ!?」
「わざとらしく隠れたりして、不自然な動きしてたら余計目立つだろうが。」
涼介が木陰に向かって呆れ声で話している。
そして、そこから出てきたのは涼介と同じくらいの背丈で黄色い髪をした男と―――綺麗な女の子。
幼い感じの顔立ちは少女と年があまり変わらないようにも見えたけれど、白いワンピースの似合っている、何というか―――陽だまりのような、人。
少女は最初、涼介の彼女と聞いて大人っぽい美人を想像していたのだけれど、すぐ、彼女がその人だと分かった。
涼介が彼女に向ける目と、肩を抱いた手が、本当に優しそうだったから。
は、少女をじっと見る。
自分とは違って、本当のお嬢様と言った感じの清楚な可愛らしい女の子。
を見て、気まずそうな、恥ずかしそうな顔をして頬を染める。
さすがに会話の内容までは聞き取れなかったので、涼介と少女がどんな話をしていたのかは知らない。
けれど、姿を現してしまった今、これだけは言わなきゃいけないと思う。
「―――ごめんね。この人は上げられない。」
少女と別れた後、涼介とはホテルのラウンジにいた。
啓介は「この貸しはデカイからな!」などと兄に言いながら、早々に帰ってしまった。
奥の落ち着いたソファ席。
優雅にコーヒーカップを口に運ぶ涼介の前で、何となく気まずそうに俯く。
本当はがそこまで身を縮こませる必要はない。
寧ろ気まずいのは涼介の方なのだが、後ろからコッソリつけていた所が、どうも後ろめたさの原因らしい。
しかしが俯いているのは、それだけが理由ではなかった。
涼介のスーツ姿は何度か見たことはあるが、今日は髪型のせいもあってちょっと違った雰囲気なので顔をまともに見ることが出来ないのだ。
そんな乙女心には気づかずに、カップを置いて困ったような笑み。
「余計な心配させて悪かったな。ちょっと断れない相手だったんだ。」
「・・・それは、分かってます。私こそごめんなさい・・・その・・・後をつけたりして。」
「どうせ、啓介が言い出したんだろう?お前が謝ることじゃないよ。」
分かってる。
サラリと言った彼女の一言に自分が信頼されていることを感じ、胸が温かくなる。
「嬉しかったよ。彼女に行った台詞。」
「えっ!?あ、あれは、あの・・・っ」
漸く顔を上げたかと思ったら、涼介の言葉に真っ赤になって手をバタバタさせる。
その仕草は可愛らしくて子供みたいなのに、何故か先ほどの少女に抱くものとは全く違う感情を抱かせる。
熱くなった頬を冷まそうとするかのように水を飲む。
うっすらと唇に引かれたグロスが大きな窓から射す陽の光に、キラキラと輝く。
シンプルな形の、刺繍の入った白のワンピース。
そこから伸びる手や足は、いつも以上に華奢に見える。
その女の子らしい姿に、涼介は今さらながらこそばゆさを感じ、口元を押さえる。
「―――が見合い相手なら、即決なんだが。」
「な・・・っ、変なこと言わないで下さいっ。」
「別に変なことじゃないだろう?」
この人は自分が何を言っているのか分かっているんだろうか。
見合いって言うのはあるものを前提に行われるものなのに。
―――でも、この人がそれを分からないはずもない。
手の甲で頬に触れ、そのまま髪を撫でる動きが緩やかで、優しくて、はその手にすべてを委ねたくなる。
「これから、どこか行こうか。せっかくそんなお洒落してるんだから。」
「あ、はい。」
「それともこのまま部屋に行こうか?」
「・・・えっ!?」
冗談だ。
再び真っ赤になるを前に、涼介は自分の照れくささを隠すように目を細めた。