deception 9




日曜の昼、涼介と啓介が家で昼食を取っていると、兄の方の携帯が鳴った。
クロスで口を拭いながらそのディスプレイに表示された名前を確認し、ふと口元を緩ませる。
啓介は、女か何かだろうかと思いながらも、ご飯を口に運ぶ手を休めず、テーブルについたまま電話に出る兄の様子を眺めていた。

「いや、大丈夫だ。―――そうか、いつ来られる?」

声がずいぶんとやさしい。
間違いなく彼女か何かだろうと思って、電話が終わった後も啓介は何も聞かずに黙々と食べていた。

が入ることに決まったぜ。」
?って、あいつかよ?入るって何に?」
「うちのチームに、だ。」
「はあ!?いつそんな話になったんだ!?」
「この前、家に来た時に。」

レンゲに山盛りにしたチャーハンが、皿にボロリとこぼれた。
このテーブルについてケンタも一緒にご飯を食べていたとき、二人ともそんな話題は全く出していなかった。
もしかして兄がそういうことを考えているんじゃないか、と思わなくもなかったが、もうすでに勧誘済みだったとは。
兄の手の早さには感心するばかりである。

「あいつ、松本の知り合いらしいぜ。」
「うちのチームの?まじかよ?」
「幼なじみだそうだ。」
「・・・すげー・・・世間って狭いんだな。」
「そうだな、俺も驚いたよ。」

台詞と表情が全く一致していない。
涼介は優雅に卵スープを口に運んだ。

「―――あいつ、うちに来るんだ。へぇ・・・。」

啓介は何故かにやけてしまう。
それを誤魔化すようにスープを豪快に飲む。
啓介ものことは何となく気に入っていた。
ズケズケ言って来るところとか、そのくせどこか抜けているところとか。
もしチームに入るという話がなくても、またあの峠に行っての車にちょっかい出してやろうと考えていたくらいだ。

「最初は二軍からだが。」
「そうなのか?」
「一軍に上がるのは、ケンタとどっちが先かな。」

意地悪く笑う涼介。
この前の交流戦の後、ケンタは本当に二軍に降格してしまった。
そんな彼に啓介も「お前、下手すぎ!」と容赦なく言い放つが、その日以来毎日のように走りを見てやっている。
後輩の面倒見はいい。

「ケンタかぁ、あいつはこのこと知ったら騒ぎそうだな。」

何せ自分が降格する原因を作った人物がチームメイトになるのである。
この前一緒に洗車をしたときの様子を見た限りでは、ケンタも結構のことを気に入っていたようではあったが。
果たしてどんな反応を示すのか―――ちょっと見ものである。

「今夜少しだけだが来れるそうだ。史浩にももちろん頼んでおくが、お前も面倒を見てやってくれ。」
「アニキは来ねぇの?」
「なるべく行けるようにはする。」

そう言うときは、大概来られないものだ。

「わかった。」

啓介はチャーハンを平らげ、近くにあった置時計に目をやった。
当然のことながら夜まではまだまだ時間がある。

―――早く夜になんねぇかな。

久々に楽しくなるであろう夜のことを思うと、またニヤけてしまった。




夜が更け、赤城の山頂にロードスターが現れると、そこにいたレッドサンズの人間は一瞬史浩かと思い、その直後にナンバーに違うことに気がついて訝しげな視線を向けた。
この前の交流戦に行った何人かは、その車の主に気づき、「どうしてここに?」と更に不審そうな顔をする。
そして、助手席から降りてきた男を見て、皆一様に驚いた。

「あれ!?松本さんじゃないですか!」

チームのメカニックは数人いるが、松本は殆ど涼介の専属で別格扱いだ。
チームの誰もが慕い尊敬する。
そんな彼のもとへ一人が駆け寄ると、他の人間も同じように走り寄ってくる。
そして運転席から降りてきたを、好奇の目でジロジロと見た。

「こいつ、俺の知り合いなんだが今度レッドサンズに入ることになったんだ。ちょっとセッティングとか見てやろうと思ってさ。」
「―――です。よろしくお願いします。」

そう言って頭を下げる姿は、この前のバトルでの彼女を見た者からすると、随分と大人しく感じる。
戸惑いながらも皆次々に自己紹介を始めた。

男の振りをする自分を松本に見られるのは、これが初めてである。
そのせいでは何とも調子が出ない。

「史浩さんはまだか?」
「今日はまだ来てないですよ。」

噂をすれば影。
暫くすると啓介のFDとケンタ、少し遅れて史浩の車が駐車場に滑り込んできた。
は喉がカラカラになり、手にしていたミネラルウォーターをごくごくと飲む。
3台とも、この前とは違う車に見えてしまうのは、やっぱり峠の雰囲気がの今までいた所と違うせいだろうか。
その車から降りてきた啓介も、この前とは少し違って見える。

「よお、来たな。」

ニヤリと、ちょっと意地悪いような、こそばゆいような笑み。
その顔を見て、はちょっとだけ緊張の糸が解れた。

「どうも・・・よろしくお願いします。」
「なに、しおらしい挨拶してんだよ、気持ち悪ぃ。」

の被っていたキャップを取り上げ、それでパフッと頭をはたく。

「最初のうちは猫かぶっとこうと思って。」
「って、本音出すの早ぇよ。」

じゃあどうすればいいのだ。
キャップを無造作に被せ直してきた来た啓介を、ジトリと上目遣いに見る。

「もう何本か走ったのか?」
「いえまだ・・・来たばかりで。」
「じゃあケンタ、お前先導してやれよ。」

呼ばれたケンタがの前に立って、ふふん、と鼻を鳴らした。

「俺について来れっかな?」
「―――って、先導車が後ろの車置いてってどうすんだよ、ばーか。」
「いてっ!ひでぇ啓介さん。」

啓介に叩かれた頭を押さえるケンタ。
いつもの二人の調子に、やれやれと史浩がため息をつき腕組みする。
―――と、ポケットの中の携帯が鳴った。

「―――お、涼介か?はもう来てるぞ。」




「―――悪いが、やっぱり今日は行けそうにない。にはさっき話していた課題を伝えておいてくれ。―――ああ、頼む。」

用件だけを簡単に伝えて、涼介は携帯の通話を切る。

「入って早々課題とは、さすが群馬最速のチームは違うな。」

前から聞こえてくる茶化すような台詞。
涼介はそれ自体には何も返答せず、携帯をテーブルに置いた。

高崎インターから程近いファミレス。
涼介と向かい合って座っていた男―――田中は、自分たちのテーブルにコーヒーを置いて去っていくウェイトレスの後ろ姿を少しの間眺めていた。
そしてまるで何かを思い出したように、コーヒーカップを手に取る。

「邪魔をして悪いな。」
「いや、構わないさ。」

遅かれ早かれ来るとは思っていた―――思った以上に早かったが。
続く台詞は心の中でのみ呟き、涼介もコーヒーを口にした。

「で、何の用だ?」

わざとらしく聞くと、田中は睨みつけながらも堂々とした口調で答える。

「勝手にを連れていったから、その文句を言いに。」
「―――正直だな。」

当然のことながらは田中の所有物ではない。
特に田中のチームに入っているというわけでもないので、彼に断りを入れる必要もない。
あまりに身勝手な言葉に呆れると同時に、その素直さに半ば羨ましさを感じた。

「久しぶりに暇つぶしの相手が出来たってのに、持って行くなよ。」
「確かに誘ったのは俺だが、こっちに来たのはあいつの意思だぜ。」
「お前が誘わなきゃ行かなかった。」
「あそこにいても、あいつの為にはならない。」
「―――言ってくれるじゃないか。」

田中は口の端を持ち上げ、じろりと涼介を見据えた。
涼介の方も目を細めてコーヒーを飲みつつ、田中から視線を外さない。

「あいつは真剣に速くなりたいと思っている。だから俺はその手助けをしてやる。その代りあいつにもチームのメンバーとして色々働いてもらう。」
「オフィシャルも満足に出来ないってのにか?」
「そんなものは、もっと遅い奴にやらせておけばいい。」

わざと鼻で笑って言った自分に対する、涼介の反応に、田中は思った以上に彼のへの評価が高いことを知る。
確かに彼女は遅くはない。
ふざけての車を後ろから追いかけたとき、時折そのセンスに感心することもあった。
が、田中にはどこの峠にもいる「ちょと上手い奴」くらいのレベルにしか見えない。
そこまで言う涼介が、正直理解できなかった。
本当にそのドライビングだけを気に入っているのか?
実は他にも理由があるんじゃないのか?
しかし、それはまだ聞けない。田中はなおも食い下がる。

「あいつのメインはジムカーナだ。峠は所詮練習場くらいにしか思ってないぜ?いくら色々教えてやっても結局無駄になるんじゃないか?」
「それは『無駄』とは言わないだろう。ジムカーナでも速くなれば、俺の理論が正しいことが証明される。ちょっと誤解しているようだが、俺は別に『峠の走り屋』としてチームの連中を閉じ込めておく気は更々ないぜ。弟の啓介も目指すところはクローズドの方だ。」

が峠をただの練習場―――とは思っていないだろう。
田中も本当はそれが分かっているはずなのだが、わざと涼介を諦めさせようとしてそう言っているのだろう。
そこまでして取り返したいのか?
実は他にも理由があるんじゃないのか?
涼介は最初わざと惚けたままでいようと思ったが、不毛な言い合いはあまり好まなかったので「知らないふり」をすることをやめた。

「―――俺が気に入ったのは、のドライビングだ。それ以外はない。」

とはいえ、万が一田中が「それ」を知らないとも限らない。
はっきりと言うことは避けた。
だが、その後の田中の表情を見れば一目瞭然であるが。
曖昧な涼介の発言に田中の方も慎重になる。

「それ以外って何だよ?」
「さあ何かな。思い当たらないならいい。とにかく他にはない。」
「・・・生意気な所か。」

あまりに慎重すぎる田中の様子に、涼介も半ば意地になり、自分からはその単語を口にしないことに決めた。

「メカ音痴な所とか?」
「・・・フん。」
「駆け足の時の後ろ姿が間抜けな所とか。」
「今度気にして見てみることにするよ。」

次々と田中が「を気に入っている理由」を挙げていく。
―――傍から聞いていると、どれも欠点にしか思えないようなものばかりだが。
しかし最後には田中のほうが根負けした。

「―――女なのに男のフリをしてる所、とか。」

涼介の勝利である。

「―――お前以外に、誰が知っている?」
「俺と、あと松本と言うメカニックだ。そいつは昔からの知り合いだから知っていて当然だな。そいつが、俺がを女だと気づいているってことは知らない。」

史浩もたぶん気づいているのだろうと思ったが、ここで何人もの名前を挙げても仕方がないと思い、最低限にとどめておいた。
鈍感な啓介やケンタは恐らく気づいていないだろう。

「そんなことが気に入る理由にはなり得ないが、だがその心意気は嫌いじゃないぜ。出来るだけ協力してやろうと思ってる。」
「他に悪い虫がつかないようにか?」
「・・・それが、お前が気付かないふりをしていた理由か。」

そうではないかと薄々感じていたが、田中本人からその言葉を聞いて呆れる。

「そんな理由で取り返しに来たのか?」
「みすみすオオカミの群れに羊を放り込めるかよ。」
「うちのチームも随分と信用がないな。」

涼介は苦笑を禁じえない。
田中だって「オオカミ」だろう。大差ないではないか。
そう思ったが口には出さない。

「お前のチームの奴だけとは限らないだろ。レッドサンズに新しく入ったってだけで赤城ん中じゃ十分注目されるだろ。それで女だってばれてみろ。」
「大した想像力だ。」

肩を竦めて見せるが、まあ確かに確率はゼロじゃない。
男だったとしても意味もなく因縁をつけてくる輩はいる。
涼介は正面で自分をじっと見て苛立たしげにコーヒーを飲む男を見る。

「―――俺が守る。」

涼介が、きっぱりと言い放つ。
声のトーンが低くなる。
リーダーとしての責任。
それもある。
それも?では他に何かあるのか?
涼介は心の中で自問自答しかけたが、田中がその隙を与えなかった。

「相変わらずの自信家だな。そこまでする価値があいつにあるのか?」
「・・・どうしても、あいつを貶めたいようだな。少なくとも今のあいつにはそれだけの価値はあると思っている。そうじゃないきゃ誘わない。
田中、俺が言うまでもないが、あいつはお前のモノじゃない。駄々をこねるなよ。本当に取り返したいと思っているなら、回りくどいことしていないで自力で直接何とかしろ。」

そう言われると予測していたのか、涼介のきつい口調にむっとすることもなく、冷静な顔つきで「言われなくてもそうするさ」とカップをテーブルに置いた。

「俺のモノじゃないことは認める。けど最初に見つけたのは俺だ。」
「諦めが悪いな。」
「放っとけ。」
「それだけの価値があるのか、反対に俺の方が聞きたいよ。」
「そんなの、分からなくていい。」

田中は伝票をつかみ、席を立った。