deception 35




「おい、!お前、1回交流戦で勝ったからっていい気になるなよ!」
「なってませんよ」

週が明けてから、ケンタはに会うたびにそう釘を刺す。
県内遠征が始まって最初のバトル。
涼介が出るほどでもないと言うことで、下りはに任された。
それはチームの名前を背負って走るわけで、負けは許されないと言うプレッシャーはもちろんあったが、以前田中とバトルした時ほどのものは感じなかった。
俺のアドバイス通り走れば確実に勝てると言う涼介の言葉を信じて、前日に何本か走った時に手ごたえを感じて。
完璧な圧勝で、バトル前に何となくチーム内に流れていたピリピリした空気を一掃した。

自身も、いい気になってはいないけれど、ほっとしたのは事実だ。
初戦はまず涼介と啓介だろうと言う空気が流れていた中、リーダーの一言で自分が走ることになって、これで負けてしまっては涼介の顔に泥を塗るどころの話ではない。

「次の場所はどこだっけ?」
「秋名だよ、秋名!忘れんなよ」
「少しは手応えのある奴がいればいいけどなぁ」

そう言って笑いながら、一服を終えたメンバーたちが各々自分の車へと戻って行く。
もこの県内遠征の話が出てから何度か秋名には走りに行っている。
相変わらず夜に行くことは禁止されているので、専ら昼に少し走るだけだが。
流す程度でしか走れなかったが、それでも結構楽しいコースで、彼女は気に入っていた。
たまに白のワンエイティとかに追いかけられたような気がしたけれど、もしかして、彼が地元の走り屋なのだろうか。

「――俺も走ってきます」

秋名のコースを思い出し、何となくうずうずして来たは、近くにいた史浩にそう告げて、いそいそとロードスターへと戻って行った。

「あいつもすっかりレッドサンズの一員っぽくなったなぁ」

車に乗り込むや否や、コースへと飛び出していく
そのロードスターのテールランプを眺めながら、史浩は独り言のように呟く。
それが、すぐ傍でメンバーの1人と話をしていた松本の耳に届いて、彼は思わず苦笑した。

「――どうなることかと思いましたけど、何とかやってますね」
「お、松本から見ても、あいつは及第点か?」
「それは、まだまだでしょう」
「厳しいなぁ。今やナンバー3だってのに」
「ナンバー2に差をつけられ過ぎです」

冬の地道な努力が実り、春にチームの活動が再開された時にタイム計測が行われると、彼女は下りでは啓介に次ぐタイムを出すようになっていた。
とは言え啓介のタイムには遠く及ばず、逆に4番手のメンバーとは僅差。
危ういナンバー3である。
しかし史浩からしてみれば、十分すぎる結果だった。
自分と同じ車で、派手なチューニングをせずに、この赤城であれだけの速さで走れると言うのは、驚き以外の何物でもない。

「まだまだタイヤを使い切れていません」

松本の台詞が、何だか自分に対して向けられているようで耳が痛い史浩。

「秋名か……あいつにとって、あそこはどうなんだろうな」
「相性は悪くないと思いますけどね」
「もうセッティングとか考えているのか?」

史浩の台詞に、松本は肯定するように笑う。
しかし、この和やかな雰囲気は、そう長くは続かなかった。




「明日の秋名、お前も行けるのか?」

土曜日の夜、皆が帰った後もが一人残って走っていると、明け方近くになって涼介が現れた。
「ちゃんと体は休めなきゃ駄目だぜ」といつものように微笑いながら言われ、は大人しくコクンと頷いたけれど、きっと涼介だって今まで自分の家で色々勉強とかチームの仕事をしていて全然休んでなんかいないんじゃないか、なんて心の中で思う。
「くまが出来てるんじゃないか?」と目の少し下を指で撫でられて、頬をきゅっと抓られた。
「止めて下さいっ」と慌てて抗議して逃げるけれど、涼介の方は「もう誰もいないんだから、気にすることないだろ?」なんて笑う。
まあ、少し休憩しろよ、とのロードスターに寄りかかり、缶コーヒーを彼女に差し出しながら涼介が言ったのが、冒頭の台詞。
交流戦自体は来週だが、一応明日は地元のチームへの挨拶を兼ねて一軍の行ける面子だけ集めて秋名へ行くことになっていた。
は、もちろんとばかりに大きく頷く。

「やっと夜に走れるんで」
「そうか。じゃあ俺も少し顔を出すかな」

そう言うと言うことは、行かないつもりだったのだろうか?
が首を傾げながら顔を上げると、涼介が「明日は史浩たちだけに任せようかと思ったんだが」と微笑う。

「啓介にも、リーダーが行かなきゃ示しがつかないと言われてしまったしな。お前がちゃんとシミュレーション通り走れるか、見てやるよ」
「う……はい……」

ニヤリ、と笑う涼介に、はジュースを飲むふりをして俯く。
確かに実際走ったことがあるのは昼間の数回だけだが、涼介から借りたビデオを見ていつもイメージトレーニングはしている。
この前の初戦でもそのイメージトレーニングの成果はあったと思っている。
真剣にやるとすごく疲れるけれど、あの神経の研ぎ澄まされる感覚は、も結構嫌いではない。

「あの……秋名には、速くて有名な人とかいるんですか?」
「いや、今まであまり聞いたことがないな。少なくともここ数年では聞いたことがない。小さい所だしな」
「そうなんですか」
「けど、まだ油断は出来ないぜ?峠って言うのは、何が起こるか分からないからな」

チラとが顔を上げれば、涼介の少し楽しそうな顔。
自分の予測を裏切る何かを期待する。
そんな時の彼は本当に楽しそうで、ほんの少し、少年のようだ。
何か、あるだろうか?
も少しそんなことを期待して、持っていた缶を両手できゅっと握った。




翌日の夜は赤城に一旦集合して、皆で移動した。
皆で、とは言っても後から合流する組もあったりして、最初は10台に満たない程度だ。
他の峠へ出向いてのバトルは――と言っても、レッドサンズでは基本的にすべてバトルは他の峠に出向くのだが――こうやって皆で移動することが多い。
がこれらに参加し始めたのはつい最近のことで、まだ数回しか経験がないこともあってか、どうも妙に緊張する。
前の峠で練習していた時は殆ど個人行動だったし、走行会やジムカーナに向かうのだって一人だから、こうやって大勢で移動すると言う経験がなかったのだ。
前後に知り合いの車が走っていると言うのは、何と言うか、くすぐったい様な感覚がある。

――皆、うるさい車だよな。

こんなふうに心の中で悪態をつくことで、そんな緊張感やむず痒さを、誤魔化したりする。
ほんの短い区間だけれど、高速を走っていた時、追い越し車線でみるみるヘッドライトが近付いて来る車が、バックミラーに映った。
は別に気にせず一瞬ミラーに視線を移しただけでそのまま走っていたけれど、その車がピタリと横に並んだ。
え、何だよ、と不審に思って見れば、啓介の黄色いFD。
大学の用事で少し遅れると言っていたが、どうやら間に合ったらしい。
あからさまに怪訝な視線を向けるに、啓介は手で「ついて来い」と合図する。

「いやですよ」

口ぱくで拒否するも、「いいから来い」と啓介も譲らない。
は後ろの方でゆっくり走っていたと言うのに。
もう一度「いやだ」と口ぱくで主張したが「うるせー、来い」とまた手でクイと合図する啓介。
相変わらず隣りにピッタリと並んだまま。
正直、横にベッタリ付かれるのは気分が良くない。
は一度ジトリと睨んだ後、啓介に頷いて見せた。

「……目立ちたくないんだけどなぁ」

ぶつぶつ言っても、満足そうに微笑って先を行く啓介には聞こえるはずもない。
はぁと深いため息をついた後、も追い越し車線へと移った。
が付いて来るのを確認して、スピードを上げる啓介。
そして当然のように、先頭を走っていた涼介の後ろに入ろうとする。
彼がウィンカーを出すまでもなく、涼介の後ろを走っていた車がすっとスペースを空けた。

「ええっ、私も?」

車内で独り言ちる
しかしここ以外に入るスペースはない。
自分の分も後ろにのいてくれるチームのメンバーに申し訳なく思いながら、は諦めてそこにおさまった。
あんまり外では目立っちゃいけないって……もうこの人は忘れてるのかな。
FDのお尻を睨みながら、往生際悪くそんなことを呟く

高速を降りても暫く落ち着かない気分だったが、峠の入口に差し掛かると別の緊張が彼女を襲い始めた。
真っ暗な道は、やはり昼とは全く違う場所のように感じる。
前を走る啓介のテールランプを追いかけながら、はゴクリと唾を飲んだ。
日曜の夜だが、あまり走っている車は多くないようだ。
ギャラリーの姿も見えない。
赤城はいつもギャラリーが多くて、週末の時間帯によっては走行台数も多いために順番待ちが発生してしまうくらいなので、何となく違和感を抱く。
――でも、こんなことに違和感を感じるなんて、俺って赤城に慣れちゃったんだな……。
ふとそんな自分に気づき、苦笑する

暫く行き、上りきった所にある給水塔前には、何台かの車が止まっていた。
やっぱり走り屋はいるんだな、などと思いながらその車を眺めていると、は白のワンエイティを発見した。

「あ……」

思わず声を発するのと同時に、啓介の車のブレーキランプが点く。
たぶん、あの車は以前昼間に秋名湖畔で話し掛けて来た男たちの乗っていたものだ。
そしてたまに走りに来た時にも何回か見た車。
あの時は特に変装らしい変装もしなくて――いつもそれ程しているわけではないが――何も考えず普通に話をしてしまったが、女とはばれていないだろうか。
あまり車から降りたくない、けれど降りない訳にもいかないだろう。
はダッシュボードに入れてあった帽子を取り出し、目深に被った。

車を降りて更に帽子のツバを下げるに、既に外に出ていた涼介が一瞬だけ笑みを漏らし、肩をポンと叩く。
そしてすぐに啓介へと向き直る。

「間に合ったんだな」
「何とかな。……俺が行っていいんだろ」
「ああ」

啓介は小さく頷くと、地元のメンバーが集まっている方へと向かう。
ちょっとだけ顔を上げてが周りの様子を窺うと、チームのメンバーには皆笑顔などなくてピリピリとした緊迫感。
反対側のガードレール傍にいた地元の人たちも、突然の訪問者に神経を尖らせているように見えた。
ざっと見渡した時、中央付近にあのガソリンスタンドで会った少年とワンエイティのオーナーらしき男の姿があり、慌てて顔を俯かせる
史浩に対応した男も、確かガソリンスタンドの店員ではなかっただろうか?

「俺たちは赤城山から来た赤城レッドサンズのメンバーだけど――」

啓介が、ここで一番速いチームはどこかと聞くと、S−13の前にいた男が答える。
そこからは史浩の出番だ、温和な笑みを浮かべつつ来週の交流戦について説明し始めた。
涼介やのもとに戻って来た啓介が、もう一度そのS−13の男の方を振り返る。

「あの旧式のシルビア、アニキはどう思う?」
「さあな、見ただけでは何とも言えない。ま、走ってみれば分かるだろ」

今いち面白くなさそうに腕組みをしたまま、涼介もその車を一瞥。
色はともかく、よくある車だ。
外見だけではどんなチューニングがしてあるかどうかなんて分からない。
も涼介の真似をして腕組みしつつ、小さく首を傾げる。
そしてその後ろに止められている白のワンエイティに視線を移した。

「何だよ、お前はあっちの方が気になるのか?」

そんな彼女に目ざとく気付いた啓介は、ニヤと意地悪く笑いながら彼女を肘で突く。
止めて下さいよ、と睨みながら、否定する

「そうじゃないですけど……あの車は今までにもここで何度か会ってるので」
「え、マジかよ?それを早く言えって」

一瞬顔を引き攣らせ、啓介はすぐさまを自分の背後に追いやる。
今さら遅い気もするけど、と、がちょっと顔を上げると、僅かに眉根を寄せた涼介と目が合った。

「――まさか、口を利いたこともあるのか?」
「え、あ……はい、1回だけ」

そうか、とため息をつく涼介のもとに、話の終わった史浩がやって来る。

「話はついた。今日は一緒に練習させて貰う」
「そうか」

先ほど以上にどことなく険しい表情の兄弟に、史浩は「どうした?」と怪訝な表情。
涼介は「何でもない」と言って彼を安心させるように笑い、何か言いたげな弟の肩を叩いて車に乗るよう促した。
も皆に少し遅れながら、自分の車へと乗り込もうとする。
が、それを引きとめる涼介の声。

「――

ピリ、と緊張した声色。
驚いて振り返れば、その声と同じように、緊張を滲ませた表情の涼介。

「絶対に一人で外に出るなよ。分かったな?」
「あ……はい」

ならいい、と一瞬だけ笑顔を作り、涼介はすぐにFCへと乗り込んで行く。
こう言うとき、自分はこの性別で余計な面倒を掛けてしまっていることを思い知って、悔しくなる。
けれど今はせっかく夜にこの秋名を走れるチャンスを逃してはいけない。
はきゅっと唇を引き結び、ロードスターのシートへと滑り込んだ。

それから暫く、涼介の後についたり、啓介に追いかけられたりして何本か走った。
最初はビデオの映像とのギャップを修正したり、昼と夜の感覚のずれを直したりと戸惑いながらの走行だったが、何往復かするうちに大分慣れて来た。
地元の車は、確かに速いとは言い難い。
もしかしたら自分たちを前に力を隠しているのかもしれないが、ラインも荒が目立つし、後ろから走っているとその走行の不安定さにこちらがハラハラしてしまう位だ。

給水塔のスペースまで、流すように走って上っていると、道路脇のスペースに2台の車。
そしてその車の前にはあの二人が立っているのが見えて、も迷わず空いているスペースへと車を滑り込ませた。

「よう、どうだよ、調子は?」
「はあ……まあまあです」

車から降りると、早速啓介が笑いながら声を掛けて来る。
その表情は、兄と二人きりだったせいか先ほどよりも穏やかに見えた。
兄の涼介の方も、を見て僅かに表情を綻ばせる。

「アニキのトレーニングの効果てき面じゃねぇか?初めてのコースでも大分マトモに走れるようになって来たじゃねーか」
「厳密には全くの初めてじゃないですけど……そうですかね」

わしゃわしゃとの髪をかき回す啓介。
止めて下さいよ!とは逃げるけれど、こうやって褒められると、やはり素直に嬉しい。
そんな彼女の表情を読み取って、涼介も微笑う。
ほんの少しの嫉妬と共に。

「ま、たぶん、来週もお前が出るまでもねぇだろうな」
「え?そうなんですか?」
「来週は二軍でも行けるだろうと話していた所だ」
「じゃあ、二人も来週は来ないんですか?」
「それがさぁ、アニキのやつ、タイム出しの為に俺には走れって言うんだぜ?」
「いいじゃないですか、嫌なんですか?」
「そうじゃねぇけどさ……バトルなのにタイムの為だけに走るって、つまんねーじゃんか」
「はあ……」
「啓介、そんなことをに理解して貰おうと思っても無駄だぜ。こいつならタイム出しのためでも何でもちゃんと走るからな」
「ちぇ。俺だってちゃんと走るよ!」

じゃあ「タイム出し」の練習でもして来るぜ!
そう不貞腐れて、自分の車へと戻って行く啓介。
相変わらずしょうがない奴だ、と笑いながらそのFDが去って行くのを見送った後、涼介はの方へと向き直った。

「俺はこれで引き揚げるが、お前はどうする?たぶん啓介に付き合ってると朝まで走ることになるぜ?」
「う、うーん、明日は朝からバイトがあるんで、朝まではキツいです……」
「そうか。なら誰か他の奴に頼んでやろうか。一人で帰るとかは、無しだ」
「……何だか、俺、子供みたいですね」

拗ねている、と言うよりは、皆に申し訳ないとでも思っているのだろう。
口を尖らせるに、涼介は笑みを漏らしつつその頭をポンと撫でる。

「じゃあ、俺と帰るか?」
「……はい。あの、来週も、フリー走行は俺走っていいんですよね?」
「ああ」

名残惜しそうに、でも素直に車へと戻る
まだ全然走り足りないだろう。
けれど、まだこの峠に来る連中がどんな奴らか分からない今、彼女を放っておくわけにもいかない。

「それじゃあ行くか」

ドアに手を掛けて、自分の声に頷くを確認し、涼介はシートにおさまる。
そして、早速往復して来た黄色のFDを横目で追いつつ、その姿が見えなくなるとスピードを上げた。
この時はまさか弟があんな表情で家に戻って来るとは予想だにしていなかった。