deception 12




「―――この前、啓介に怒られたよ。」
「え?涼介が?啓介にか?」

涼介の通う大学近くの定食屋。
夕飯を終えた後お茶を飲んで一息ついたところで、涼介から意外な台詞。
史浩は湯呑を持ったまま、呆けた顔をしてしまった。
期待を裏切らない男だと、目の前の親友の反応を眺めつつ、涼介は続ける。

と田中のバトルのことだよ。がうっかり喋ってしまったらしい。」
「ああ、あの売り言葉に買い言葉みたいなやり取りか。」

そんな単純なものではないのだが、特に反論はせずに涼介は茶を一口飲んだ。

「朝、帰ってくるなり『何考えてるんだ』と部屋に怒鳴り込んできた。」
「お前にそんな態度取るなんて珍しいな。」
「そうだな。ちょっと懐かしかったよ。」

そう言って微笑んでいる辺り、啓介の態度はこの男には全くこたえていないらしい。

「あいつはが負けると思っているのか?」
「そうじゃない。そう言うことを賭けの対象にしたことが許せないんだろう。」
「うん、まあ・・・それは分かる。」

史浩は湯呑をテーブルに置き、腕組みする。
史浩だってこんなことは不本意だ。
だからこそ「売り言葉に・・・」などと表現している。
今からでも取り消せるものなら取り消したいが、それはきっとこの男が許さないだろう。
何であんな田中の言葉に乗ったのだろう?
から田中を遠ざける手段は他にいくらもだったはずだ。
涼介なら、あの男を赤城に出入り禁止にすることなんて朝飯前だろうし、に近づけないようにする方法も―――ないことも、ない。
多少手荒なことになるかもしれないが。

を追いつめて、速くする?
それこそ、随分と手荒な手段だ。
涼介の考えていることはよく分からない。

「だけど、啓介もそんなことで怒るなんて、随分を気に入ってるんだなあ。」
「まあ、可愛いからな。」
「・・・・・・。」

おおよそ、その顔に似合わない言葉を、しれっとした顔で言う涼介に、史浩は思わず思考が止まる。
動きも止まる。
が、一瞬後に再開し、その辺りは特に追及しないようにしようと、微妙に話をずらした。

はこっちに来てからびっくりする位、上手くなったよな。この前タイム計ってみたんだけど、区間によっては安田と同じくらいだったぞ。」

安田と言うのは、一軍のメンバーの一人。
涼介や啓介が出るまでもないようなバトルでは、この安田が走ることが多い。
部分的にとは言え、そんな人間と地元の赤城で張り合う位というのなら、それなりのレベルだろう。
ウキウキと話す史浩。
それに釘を刺すような涼介の声。

「そのタイムは本人には教えていないだろうな。」
「・・・お前が言うなって言うから、タイムの話は全然していないよ。」

これもよく分からない。
自分がどれ位速くなっているか、少しは分かった方が励みになるのではないだろうか。
実際、は不安になっている。
自分が本当に速くなっているのか。
あの男に勝てるくらいに。
しかし、涼介は彼女にタイムを計らせない。

「今のあいつにまだ『それ』は必要ない。俺の言うとおりに走っていればいい。」
「・・・・・・。」

その台詞が、単なる独占欲から来ているように聞こえてしまうのは、史浩自身に何か邪な気持ちが潜んでいるからだろうか。
とりあえずこれについても追及することはせず、伝票を持って席を立った。

「じゃあ、俺はこのまま赤城に向かうよ。涼介、今日は来れないって・・・明日は来れるのか?」
「ああ、たぶん行けると思う。」
「そうか・・・。にちゃんと自分の考えてることとか説明してやれよ?いたずらに不安にさせるばっかりじゃ可哀そうだ。」
「史浩もあいつには優しいな。」
「・・・俺は誰にでも優しいよ。」

彼女を女扱いしちゃいけないと思えば思うほど、逆に意識しすぎておかしくなってしまう。
それは史浩も自覚している。
意地悪い笑みを浮かべる涼介から逃げるようにして店を出た。




史浩があまりに心配そうな顔をするからだろうか。
涼介は家で大学のレポートを仕上げた後もベッドに入る気になれなかった。
時計を見ると夜中の2時過ぎ。
啓介は比較的早めに切り上げたらしく、すでに自室に戻っていた。

―――あいつはまだ走ってるかな。

どうせこのままベッドに入っても無駄に時間を過ごすだけだろう。
涼介は車の鍵を手に取った。




バトルまであと1週間。
あと1週間しかない。
もっと出来ることがあるんじゃないか。
課題だけじゃ足りないんじゃないか。
そもそも課題も、ちゃんとクリア出来ていない。

みんな速くなってると言ってくれるけど、本当にそうだろうか?
ただの気休めじゃないのだろうか?
こんな時こそ焦っちゃいけないんだと、は自分で自分に言い聞かせようとするけれど、不安の方が圧倒的に大きくて、自分の上に圧し掛かってきて、打ち勝つことが出来ない。

最後の方はつまらないミスが多くなった。
今日はもうこれ以上走っても駄目かもしれない。
誰もいない駐車場に車を止める。
水を飲み、ため息をひとつついたら、不意に涙が零れた。
慌てて袖口で拭う。
けれど、箍が外れたように、ポロポロと止まらなくなってしまった。
今までこんな風に泣いたことなんかなくて、自分でも何が何だか分からない。
泣いている場合じゃないのに。
そんな風に思うと、また涙が出た。

泣きやむのを諦めかけたとき、道を上って来る車の音。
あんな音をさせてここを上って来る車なんて、は一台しか知らない。
はごしごしと涙を拭った。
でも顔は熱くて、きっと見つかれば泣いていたことなんて一発でばれてしまうだろう。
失望させたくない―――そんなことを思う。
大沼の方に逃げようと思ったけれど、一歩遅く、FCのヘッドライトの明かりがすぐそこまで来てしまっていた。

はステアリングに額を押し付け、顔を隠す。
挨拶はすべきだけど―――今すぐは車を出られない。
涼介の車はの車の後ろを通り過ぎ、少し離れた所に止まった。
まだ走り足りない、とでも言いたげなFCのエンジン音。
はこの音が好きだ。
目を閉じて聞いていると、だんだん気持が落ち着いて来る。
あとちょっとしたら―――大丈夫。挨拶に行ける。
そう思いながらどれ位の時間が経ったのだろう。
の携帯が鳴った。
発信元は、ほんの数メートル離れた場所。

「・・・はい。」

自分の声がびっくりするくらい涙声になっていて、思わず口を押さえる。
泣いていたのがばれただろうか。

、ちょっと付き合わないか。」
「え、あ、はい・・・。」
「じゃあ、ついて来いよ。」

それだけ言って通話が切れる。
隣りでアクセルをふかす音。
駐車場を出て行くFCを、は慌てて追いかけた。


涼介の車が1コーナーを抜ける。
からあまり離れ過ぎないようにと気にかけながら、綺麗なラインで走る。
も一生懸命それをなぞるように走る。
いくら全開でないとは言え、車の挙動ってこんなに安定しているものなんだろうか。
後ろから追いかけていると、本当に、見とれてしまう。
ドキドキする。
後ろ姿を見つめながら必死に走るのが楽しい。
いつの間にか自分が泣いていたことなんて忘れていた。

この人でもバトルで本気になったりするのだろうか。
そんなときって―――どんな風に走るんだろう。

この人のバトルの相手になれないのが、ちょっと悔しい。
いつかは―――って、それは無理なんだろうか。
せめて一緒に走って楽しいって思われるようになれれば・・・今は自分ばかりが楽しいから。
―――やっぱり、走るのは楽しい。
この数分の間で、今度のバトルのことが些細なことに感じてしまっている自分に、は我ながら単純だなあと、ちょっと笑ってしまった。

下りのゴール地点近く。
涼介のFCがハザードを出して止まったので、もすぐ後ろに止める。
たぶんまだ目は赤くなっているだろうと思ったけれど、は迷わず車を降りた。
涼介も車から降り、車のドアに手をかけたままの方を見る。

「あの―――ありがとう、ございます。」

なぜかその言葉しか思い浮かばなかった。
何に対してのお礼なのか、自分でもよく分からない。
でも、とにかくその言葉を伝えたかった。
涼介は少し驚いたような顔。
そして、くすぐったそうな笑みを口元に浮かべる。
けれどは下を向いたままだったので、その涼介の表情を見ることはできなかった。

「―――これは、女扱いしていることになるのかな。」

その言葉がどんな意味なのかと、顔を上げる前に、は涼介の腕にふわりと包まれた。
突然のその温もりに、ただただ目を大きく見開くばかりで声も出なければ身動きを取ることも出来ない。
瞬く間に自分の周りに広がる涼介の熱。
触れている部分から伝わってくる涼介の鼓動。
この人も心臓はどくどく言うんだな、と馬鹿なことを思うと同時に一気に恥ずかしさが湧き上がってきて、さっき涙が出た時とは違う熱さがの全身に回り始めた。

腕の中でがもぞもぞと逃げようと動き始める。
その彼女の行為にやや不満を覚えたが。それも彼女らしいと笑い、更に抱きしめる腕に力を込める。

自分のタイムを知れば、きっと安心してしまうだろうと思った。
直接運転を見てもらったり、その車に乗ったりしなかったとしても、半年もの間同じ峠で一緒に走っていれば、なら田中の走りの癖等は大体把握しているだろう。
赤城でのタイムも凡そ見当がつく。
それと比較した時、のタイムはそれほど不安になるようなものではないと気付くだろう。
そんなことで気が緩んだりしないと言うかもしれないし、気が緩まないように「努力」するかもしれない。
けれど、やはり心のどこかに「隙」は出来る。

―――それが表面上の理由だ。
しかし本当にそれだけの理由でタイムを計らせなかったり必要以上に多くの課題をやらせているのかと聞かれると―――正直、少し違う。

涼介の出す課題を、1か月で全て完璧にこなすことなんて、はなから無理なのだ。
1年、いや2年あっても普通の人間には「完璧」には難しい。
そんな事が出来るなら、プロになれるだろう。

あれだけ「いやだ」とか「やらない」とかはっきり拒否の言葉を口に出来るが、何も言わずにそれを受け入れ、無理なりにある程度の精度で仕上げていく。
その一生懸命な様子を見て、つい、更に難しいことを要求したくなる。
要は、いじめたくなるのだ。

泣かせたかったわけじゃなかったんだが―――な。

心の中でそう呟きながらも、その涙を見たのが自分でよかったとも思う。

「あ、あの・・・。」

なかなか涼介の腕から抜け出せず、が少し戸惑った声を上げる。

、お前、下の名前は何て言うんだ?」

当たり前のことだけど、こうやって抱きしめると改めて女の子なんだなと思う。
細くて、やわらかくて、放したくなくなる。

愛おしくなって、つい、抱きしめた。
これは、従妹の緒美に対しても抱くことのある感情だ。
そして、触れたら、更に愛おしくなった。
これは―――他の誰かにも抱いたことがあるものだろうか。

「え・・・と・・・、、です。」

この状況は―――かなり理性を試されるな、

まだ夜の明けていない、薄暗い峠には二人きりで、顎を持ち上げて覗き込んだの眼は、まだ涙で少し潤んでいる。

「―――。」

でも、その瞳は年不相応な位に無邪気で、今涼介が何を考えたかなんて想像も出来ないとでも言いたげだ。
涼介は僅かな罪悪感とともに、彼女の髪に唇を寄せた。

「あまり、自分を追いつめるなよ。」

我ながら取って付けたような言い草だと、心の中で苦笑しながら、もっともらしい言葉を口にする。
追いつめたのは他の誰でもなく、自分自身にも関わらず。

「大丈夫だから。」

恥ずかしそうに目を伏せながらも、小さくほほ笑む
涼介は、今度のバトルが少し、怖くなった。