deception 18
涼介が家に戻ると、奥のリビングが騒がしかった。
来客用の駐車スペースに、濃紺のNAロードスターとオレンジのS−14が止まっていたから、その声の主の見当は付いている。
子供の頃はともかく、涼介も啓介もあまり家に人を招くことがない。
しかし最近は啓介がよくレッドサンズのメンバーを連れてくるようになった。
その中には大概ある人物が含まれる。
裏口の玄関にあった、小さいスニーカーの持ち主。
その姿をリビングで見つけるたび、涼介の中に形容しがたい感情が湧き上がる。
彼女が自分の家にいることへの、甘いもの。
彼女を招いたのが自分ではないことへの、苦いもの。
そして弟への―――暗いもの。
「あ、アニキ。おかえり。」
啓介はいつもと変わらず、部屋の入口に立った涼介に太陽のような明るい笑みを向けてくる。
テーブルを挟み、向かいに座っているが「お邪魔してます」と小さく頭を下げる。
その隣りのケンタも「こんちは」と元気に挨拶して来た。
そしてソファには、史浩までいる。
「今日は一体何のイベントがあるんだ?」
気まずそうに「よう」と手を上げる史浩を見るからに、どちらかというと彼は無理やりに近い形で家に連れて来られたのだろう。
テーブルの上には何冊ものテキストやノート。
そう言えば前期試験がもうじきだったか、と涼介は気付く。
史浩は家庭教師役か。
今日は涼介が出かけると知っていたから、代わりの人物を連れて来たのか。
予想通りの返答が啓介から返ってくる。
「来週からテストだろ?とケンタの大学もやっぱ来週からって言うから、一緒に勉強しようと思ってさ。」
「助けてくれよ涼介〜。俺一人で三人の面倒は見れないよ。」
「安易にそんな役を引き受けるお前が悪いんじゃないか。」
呆れたような笑みを浮かべながらも、涼介は三人のもとへと行き、テーブルに広げられていたテキストのうちの一冊を取り上げる。
それはのドイツ語のテキストだったらしい。
が涼介の様子を窺うように見上げる。
「はドイツ語で―――啓介はフランス語、ケンタは英語か。史浩は確か二外は中国語じゃなかったか?」
「そうなんだよ、英語はともかくドイツ語とフランス語は無理だ!」
「んな、どっちも英語の延長線みたいなもんじゃん。」
「お前がそれを言うな、啓介。」
持っていたテキストで頭をパコンと叩くと、啓介は肩を竦めてテーブルに顔を突っ伏す。
「あー、たりぃ。何で外国語を二つもやんなきゃいけねぇんだよ。」
「そんなことを言ってても試験はなくらならいぞ。着替えたら見てやるから、分からないところを整理しておけ。」
「え、涼介さんてフランス語選択なんですか?俺、どうしよう・・・ドイツ語・・・。」
「いや、大学ではドイツ語選択だ。も見てやるから心配するな。」
ほっとした顔をするを見て、涼介は思わずその頭に手をのせる。
自室に戻ろうとリビングを出る時に、「アニキはフランス語も話せんだよ。」と啓介が言っているのが聞こえた。
「そう言えば、って群大なんだよな。学部はどこなんだよ。」
早々にテスト勉強に飽きてしまった啓介が、涼介に一生懸命ドイツ語を教わってるの邪魔をし始める。
は一瞬迷ったが、素直に自分の学部を教えた。
「―――工学部です。」
「はっ!?こうがくぶ!?こうがくぶって、あの工業の『工』に学問の『学』の工学部かよ!?」
「マジでっ!?」
「・・・悪いですか。」
啓介とケンタの反応に、は不満げに口を尖らせる。
その横にいた史浩も、声には出さなかったが、ちょっと意外な学部の名前が出てきて内心驚く。
「ストップウォッチもまともに使えねーのに、工学部!?それ、うそだろ!」
「別にストップウォッチ使えなくても、工学部には入れますよ!情報工学だし・・。数学とかなら教えられますよ、啓介さんにも。」
「ありえねぇ・・・数式を解くなんて想像つかねぇ・・・。」
「そうか?こいつの走りを見てたら、そんな意外な学部じゃないと思うけどな。」
一人、涼介だけ何のことはないようにテキストに視線を落したまま、そんなことを言う。
啓介とケンタは、の走りを思い出すが、どこがどう工学部と結びつくのか分からずに首を傾げる。
「うーん、そう言われればそうかもしれないなぁ。」と史浩だけはちょっと納得したようだ。
「どちらかというと、は理論派だろう。お前のように感覚で走れるタイプじゃない。」
「りろんは〜!?がっ!?」
「別に俺、そんな理論なんて持ってないですけど・・・。でも啓介さんにそう言われるとムカつきますね。」
じとりとが睨むけれど、そんなのまったく堪えずに「そりゃ、お前が理論派に見えるかよ!」と尚も続ける。
その隣りのケンタも激しく同意するように、うんうんと力強く頷いた。
「でもデータ取ったりして分析してたりするもんなぁ。」
史浩の言葉に、啓介は「そんなことしてたっけか。」などと言って口をへの字に曲げた。
確かにそう言われれば、タイヤの温度とか計ってメモしているところは見たことがある。
それでもやはりが涼介と同じタイプには思えなくて、首を傾げる。
「まあ、それが逆に仇になっているところもあるんだけどな。自分の理論に囚われ過ぎるとつまらない走りになりがちだ。」
「たまには啓介みたいに何も考えずコーナーに突っ込むことも大切ってことだな。」
「・・・俺がバカみてーじゃねぇか。」
今度は啓介が史浩をジロリと睨む。
史浩はたまに迂闊な発言をする。
啓介の視線から逃げるように、ケンタの持ってきたテキストで顔を隠した。
「啓介さんは学部どこなんですか?」
「俺?経済。」
「啓介さんが日本経済とか語っちゃうんですか?」
「んだよ、それ。仕返しのつもりか?」
「―――わっ!やめて下さいっ!」
啓介にぐしゃぐしゃと髪をかき回され、は涼介の後ろに避難する。
こういうときどこに逃げれば一番安全なのか、も分かっているようだ。
乱れたの髪を手で梳く涼介の様子を眺めながら、史浩はついつい突っ込みを入れたくなる。
それは男にはやらないことじゃないのか。
―――いや、それを言うなら啓介の行為も、普通男に対してはやらないことではないか?
何だかよく分からなくなって、史浩は一回落ち着こうと、冷めたコーヒーを飲んだ。
「この中で一番学部がしっくり来るのは、やっぱアニキだよな。」
「医学部なんて、すごいっスよね!」
「さあ―――子供の頃から医者になるように言われてたからな。それ以外選択の余地がなかっただけだ。」
いつもの笑みに僅かに皮肉を滲ませる。
ケンタは「でもカッコいいっす!」と羨望の視線を送る。
啓介は、親の期待通りに常に優秀な成績で、医学部に入り、これから間違いなく医者になる兄に、ちょっと複雑な表情を浮かべる。
そんな兄を誇らしげに思うと同時に、親の夢を全部押しつけてしまったのではないかという、後ろめたさ。
史浩は「病院の後継ぎって言うのも大変だよなぁ」と呑気な声で言う。
長い付き合いの史浩は色々知っているからこそ、こんな風に当たり障りないことしか言えないのだ。
は涼介を見て、何か言いたげに小さく口を開きかけて、またすぐ閉じた。
涼介が、飲み込んだ言葉を促すようにを見ると、ちょっと目を伏せる。
「―――コーヒーが冷めちまったな。淹れ直して来よう。」
「あ、俺も手伝います!」
涼介が立ち上がると、もカップをかき集めて立ち上がる。
ケンタも慌ててついて行こうとしたが、「二人いれば十分だからケンタは勉強続けていろ。」と涼介に止められて元の位置に納まった。
涼介が豆やフィルターを取り出す横で、は使ったカップを洗い始める。
この役割分担は徐々に定着しつつあった。
豆を挽く音と、泡を流す水の音が耳に心地よい。
涼介が子供の頃から、医者になるように周りから言われていたことは事実。
両親よりも、むしろその両親を取り囲む親せきやらが、涼介に会うたびに「将来はお父さんの後を継いでお医者さんになるのか」とか「この病院はいつか君のものになるんだね。」と言っていた。
親の方はなるべく押し付けないようにと気をつけてはいたようだけれど、やはり無言のプレッシャーのようなものはずっと感じていた。
初めはそれを苦にすることはなかった。
それこそ刷り込まれたかのように、将来は医者になるのだと思っていた。
けれど、反抗期はある。
表面上は何も変わっていないように見せかけていたけれど、「医者」や「病院」という言葉に嫌悪を覚える時期もあった。
自分は一体何のために生れて来たんだ?
ただこの病院を継ぐためだけに生れて来たのか?
自由な啓介に嫉妬を覚えたこともある。
もちろん弟には弟の悩みがあり、親に全く期待されていないのではないか、自分には愛情があまり向けられていないのではないかと思う時期はあった。
それは分かっているが、それでもやはり、そんな理屈では抑えられない感情というものは存在するものだ。
「―――は、さっき何を言いかけたんだ?」
フィルターからポタポタと落ちるコーヒーを二人で眺める。
涼介は腕を組み、テーブルに寄りかかりながら。
はその隣りにある椅子に座り、その背もたれに手を掛けて。
涼介の問いに、は戸惑った顔をする。
また、口を開きかけるが、すぐに声が出ない。
「・・・なんか、何を言っても軽薄になりそうなんで・・・。」
「言ってみろよ。」
涼介はキッチンの入口に目を遣り、の髪をさらりと撫でる。
今、ここにいる自分は、を男として扱えていない自覚がある。
自分はもっと器用な人間かと思っていたけれど―――どうも、調子が狂う。
「何て言うか・・・どうしてお医者さんになろうと思ったのかなと思って・・・。」
「それはさっき話しただろう?」
「そうなんですけど・・・涼介さんは『選択』したと思ったんです・・・何となく。」
やっぱり上手く言えないです、と背もたれに掛けていた手に額を付ける。
「すいません、俺、こういう話って苦手なんです・・・。俺は父親はサラリーマンで、母親は平日パートで働いてるような家庭だから、何かの後を継ぐってことはないし、大学もどこに行けって言われたことなくて。だから、想像しか出来なくて・・・。子供の頃から何かになることを求められて生きるのって大変だろうなって思うんですけど、大変の一言で片づけられないと思うし・・・。」
ポットに最後の一滴が落ちる。
ゆらゆらと揺れる琥珀色の液体を見つめながら、涼介は中学生の頃の出来事を思い出していた。
ではないけれど、上手く言葉では表現できないような出来事。
涼介が中学から帰って来ると、叔父が家で待っていて、一緒に病院へ行こうと言い出した。
小さい子供の頃に何度か行ったことはあったけれど、父の病院に行くなんてことは滅多になかった。
叔父がそんなことを言うのも珍しい。
特に用事もないのに、両親の職場に行くのは嫌だと言っても、その時は何故か叔父は譲らず、結局根負けして一緒に車で病院に行ったのだ。
しかし涼介の予想に反して、院長室に連れて行かれるわけでもなく、両親の仕事をする様子を見せられるわけではなかった。
受付の椅子に座らされ、ジュースを渡されただけ。
「―――昔、中学生くらいの頃、父の病院に連れられて行ったことがあるんだ。」
プルタブを開けることはせず、それを手で弄びながら暫くの間そこに座っていた。
受付の女性が名前を呼ぶ声。
患者同士の会話。
松葉杖をついて歩く人に声をかける看護師。
別に目新しい光景ではない。
「頻繁ではなかったが、今までにだって何度も行ったことはあったんだけど―――その時、何故だか不意に『医者になろう』と思った。」
言葉では説明のつくものではない。
その当時の光景に、涼介にそう思わせる何があったのか、よく分からない。
ただ―――その時から後を継ぐことに迷いがなくなった。
自ら、医者になることを選んだ。
「―――俺も、こういう話は苦手みたいだ。」
何度か分析を試みたことはある。
そのたびに、尤もらしい理由を付けてみたが、どれも十分ではないような気がして―――それこそ、自分に対して軽薄な感じがして、諦める。
今もやはり上手く説明が出来ない。
涼介は苦笑う。
「きっと、そう言うことって言葉にすることじゃないのかもしれないですね。」
琥珀色の液体から涼介へと視線を移し、は小さく微笑う。
つられて、涼介の笑みも柔らかいものに変化していく。
「そうだな。」
でも、には話したくなった。
自分でも上手く説明できないものなのに―――少しでも、に共有してほしいと思った。
そんな欲求が湧き上がった理由なんて、今さら自分に問いかける必要があるのだろうか?
次のの冗談めかした台詞が続かなければ、涼介は彼女を抱きしめるだけでは物足りなくなっていたかもしれない。
「でもやっぱり、お医者さんになった涼介さんって、ちょっと怖そうですけど。」
「・・・どういう意味だ?しかも、『でもやっぱり』って、前にもそんなことを思ったことがあるのか?」
「えっ!いえ、そう言うわけじゃ・・・」
「この前、わざと痛くしそうとか言ってたもんな!」
「わっ!啓介さん!?いつからそこにっ」
「ふうん、はそんなことを言ったのか。」
「言わないでって言ったじゃないですかっ!」
最後の一言では自爆する。
キッチン入口の壁に寄りかかり、にやにやと意地悪く笑う啓介。
そんな彼を恨めしげに睨みながら、背後の涼介の顔が怖くて振り向けない。
の後ろでコポコポとコーヒーをカップに注ぐ音。
暫くの沈黙の後、「そうか、は俺をそう言う風に見ているんだな。」と涼介の声。
わざと無機質な声色を使ってみたが、その後ろで冷や汗を流しているの様子が背中から伝わってきて、笑いが堪えられない。
「じゃあ、にはわざと痛くしてやるよ。」
カップの入ったトレーをに渡し、にっこりと笑う。
「えっと・・・あの・・・」と言い淀むは、その言葉が少し下品な他の意味を含んでいたことに気づいた様子はない。
予想どおりの反応に安堵と不満を抱きながら、涼介は弟の方に視線を向ける。
―――もしかしたら啓介の方が気付いたかもしれない。
その一瞬の表情を見て、不意に不安が過った。