deception 20




コンビニの広い駐車場。
が端の方に止めて携帯でメールを打っていると、隣りに車が止まった。
誰の車か顔を上げて確かめるまでもない。
メールを送信し、は車から飛び出す。

「最近よくメール打ってんじゃん。女でも出来たのか?」

先に店へ向って歩いていた啓介がを振り返り、からかうような口調で聞いて来る。

「違いますよ。男の人だし・・・。」
「へーぇ。アニキ?」
「何でそこで涼介さんが出てくるんですか。」

入口のドアが開き、チャイムが鳴る。
二人は真っ直ぐ奥へと向い、いつも買っているミネラルウォーターを取り出す。

最近、よく京一からメールが来るようになった。
調子はどうかとか、そんな他愛ないメールが週に1、2回。
大体、夜赤城にいる時に送られて来るので、それに返信を打っている姿を目にすることが多い。
それまであまり携帯自体を弄っている所を見ることがなかったので、それが大したことのない頻度でも目についてしまうらしい。

「―――何、お前また腹減ってんの?」

麺類の置かれているコーナーで立ち止まったに、啓介の容赦ない突っ込み。

「お前いつも食いもん見てねぇか?」
「そんなことないです!・・・ただ、あんまり見たことない蕎麦があったから何だろうと思っただけです。」

人が食べ物のことばかり考えてるみたいに言わないで下さい、と口を尖らせながらがレジにペットボトルをドンと置く。
え?違うのか?とわざとらしくビックリした顔つきをしながら、啓介もレジにミネラルウォーターのペットボトルを置き、小銭もジャラジャラと一緒に出した。

「旨い蕎麦が食いてぇなー。今度食いに行こうぜ。ちょっと遠いけどすげぇ旨い所知ってっから。」
「・・・啓介さんの方が絶対食い意地張ってると思うんですよね。」
「ん?何だって?」

会計を済ませたペットボトルを2本とも取り上げ、の首に片一方を押し付ける。
ひゃぁっ!と思わず悲鳴を上げたは、それを誤魔化すように啓介に体当たりした。
そんなの衝撃などには全く動じず、啓介は店の外に出ると、星の全く見えない真っ暗な空を見上げる。

「何か、雨降りそうだな。」
「それは野生の勘ですか?」
「ん?まだ何か言ってんの?」

の襟口を掴み、今度は背中にペットボトルを入れようとする。
間一髪のところでその手から逃れ、ペットボトルも奪い返した。
避難の目つきで見上げるが、やっぱり啓介はどこ吹く風。

「雨降ったら、ケンタさんが喜んで来そうですね。」
「ケンタぁ?」
「雨が得意だって、この前言ってましたよ。」
「あいつの『得意』ほど、当てになんねーものはねぇけどな。」

苦笑いを浮かべ、買ったばかりの水をゴクゴクと飲む啓介。
しかしそんなケンタもついこの間、無事に一軍へ上がることができた。
ずっと延び延びになっていたの歓迎会と、ケンタの一軍昇格祝いを来週にでも開こうという話が持ち上がっている。

「お前、来週来れんの?ま、主役がいなきゃ始まらねぇけどさ。」
「金曜の夜ですよね?たぶん大丈夫です。」
「あれ?そう言えばお前って未成年?」
「そうですけど。」
「じゃあ酒飲めねーんじゃん。なら運転手しろよ。帰りに家まで送って。」
「・・・俺、主役なんですよね。」

そうだっけ?などと言って、啓介は車に乗り込む。
がため息を吐きながら車のドアを開けた時、雨が一粒額に当たった気がした。




雨粒が当たったのはコンビニでの一粒だけで、峠に着いても暫く降る様子がなかったのでと啓介は何本か走った。
相変わらず、啓介がを後ろから追い回すような「悪趣味な」走り方をすることが多いが、最近は下りだと途中ところどころで啓介も気の抜けないポイントが出てきた。
もちろんにはそのことは話していないが。

一休み、と山頂の駐車場に降り立つと、今度はでも何となく空気が湿っていることに気づく。
平日ということもあるのだろうが、天気が不安定なせいもあってか今日は殆ど車が走っていなかった。
先に休憩していた啓介のもとへ、そろそろ帰った方がいいだろうかと相談しに走り出した途端、パタパタと大きな雨粒が落ち始める。
「あ、やばいかな。」と自分の車に戻りかけたけれど、一気に雨足が激しくなって、の足が止まってしまった。

「ばか、乗れ!」

乱暴な言葉と共にぐいと腕を引っ張られ、啓介のFDの助手席に押し込まれる。
車の屋根を打ち付ける雨音。
すぐに運転席におさまった啓介も、その少し前に避難したも、上から下までずぶ濡れだ。

「うわっ!すいません・・・びしょびしょ・・・。」
「そんなの気にすんな。」

ただでさえ真っ暗だったのに、フロントガラスにはバケツをひっくり返したような雨が叩きつけられて、視界が全く閉ざされてしまった。
ヘッドライトの光の線は薄ぼんやり見えていたが、暫く籠城を決め込んだのか、啓介はその明りも消す。
FDのエンジン音よりも雨の音が勝つことがあるのか、などと半ば感心しながら、はいつ止むとも知れないような雨音を聞く。

「・・・これ、止むんですかね。」
「さぁな。朝までには止むんじゃねぇ?」

もちろん止まない雨はないのだろうけれど、その勢いは衰えることがなくて、この車から出られるのは果てしなく先のように思える。
二人でぼんやりと何も見えないフロントガラスを眺める。
車の中は暖かいけれど、それでも湿った服が体温を奪っていく。
は濡れた腕を小さく擦った。
それを見た啓介が、の前の方を指差す。

「ダッシュボードに窓拭き用のタオルならあるぜ。」
「・・・このパリパリのヤツですか。って、何でこんなにパリパリなんですか。」
「ったく、贅沢言うんじゃねえよ。」

啓介がシートを思い切り後ろに下げる。
何をするんだろう?と腕を擦りながら見ていると、窮屈そうに―――実際に窮屈なのだが―――その場で上着を脱ぎ始めた。
あー、腕攣りそう、と言って、脱いだ上着をに放り投げる。
一気に、啓介の体温と煙草の匂いに包まれた。

「外側は濡れてっけど内側は濡れてねぇから、掛けてれば?」
「あ・・・ありがとうございます。」

ちょっと躊躇いながらも、その上着をもぞもぞと自分に掛ける。
まるでブランケットか何かのように大きくて、の上半身を包んだ。

「つーか、お前もその上着脱げば?それビショビショじゃねぇか。来てると余計風邪ひくぜ?」
「え・・・あ、はい・・・。」

確かにの綿シャツはびしょ濡れで、啓介の言うことは尤もだったけれど、流石に素直に言うことを聞くわけにもいかない。
中のTシャツも少し濡れているし、脱げば体の線が分かってしまう。
いくら暗い車の中で、がそんなに女らしい体型でなかったとしても、これだけ近くで見れば確実に女だと言うことがばれるだろう。
何とか、啓介の上着を掛けたままで脱げないだろうかと挑戦してみる。
それを隣りで見ていた啓介が、呆れた顔。

「何、まどろっこしいことしてんだよ!」

から、自分の上着を引き剥がす。
そのあまりの勢いには抵抗する間もなかった。
ちょうど自分の上着の袖から腕を抜こうとしていたところ。
この体勢の彼女を見て女だと気付かなかったら、ちょっと目がおかしい。
は声を出すこともできず、そのままの恰好で硬直してしまった。

啓介の方は、一瞬、大きく目を開いたまま表情が固まる。
けれど、まるで何でもないことのように、また上着をの頭に放った。

「―――んな脱ぎ方してたら、逆に女だって言ってるようなモンだっつーの。」
「・・・え。」
「ほんっと、お前って抜けてるよな!気付かない振りしてる方が大変だよ。」

まるで、さもずっと知っていたような口ぶり。
けれど啓介もつい今までその確信は抱けずにいた。
大げさに吐くため息。
本当は、少しだけ、が男であって欲しかった。
そう思っていた自分に気づく。
男であれば―――少なくとも、女であることが確定しなければ、掻き乱されることはなかったから。

「―――啓介さんも知ってたんですか。」
「啓介さん『も』って、どういうことだよ。『も』って。」
「いえ・・・他にも、その、知っている人がいるんで。」
「まあ、少なくともチームの奴は殆ど気づいているんじゃねぇの?でも別にそんなことはどうでもいいから、『お前女だろ』とか聞かないだけで。」
「そうなんですか?」
「だって、お前どう見ても女じゃん!そりゃ、最初は騙されたけどさ、ちょっと一緒にいればおかしいって気づくよな。」

あからさまに元気をなくす
涼介の時で経験済みとは言え―――いや、経験済みだからこそショックは大きい。
やっぱり結局は女だってばれているのか。
何のために男のふりなんかしてたんだろう。
―――何でだっけ?

「・・・最初は、騙されたんですか?」
「最初はな。あの田中って野郎が『男』って言ってたってのもあるけど、なんつーか、『女なワケねぇ』って思い込んじまったんだよな。」

出会いが峠で、兄も興味を持つような走り屋だったから、というだけじゃない。
あんな風に、初対面の自分に接する女はいなかったから。
あんな風に―――自分の中に入り込んでくる女は、いなかったから。

「いつ気づいたんですか?」

いつばれたか、なんて本当は重要じゃない。
そんなことはも分かっているのだけれど、どうしても聞いてしまう。
啓介はフロントガラスを睨んだまま唸る。

「別に決定的な瞬間があったわけじゃねぇよ。でも―――あからさまにアニキが女扱いしてんじゃん。最近。」
「えっ!?そうですか?」
「してるって!峠じゃしてねぇけどさ、お前が家に来たときとか、全然態度違うよ。」
「そう・・・ですか?」

まさか涼介が原因になりうるとは思ってもみなかったは、戸惑いを隠せず言葉に詰まる。
あの涼介がそんな迂闊なことをするのだろうか。
啓介たちの家に行った時のことを思い出そうとする。
そう言われればそうなのかもしれない。
けれどよく分からない。
もフロントガラスを睨む。

もちろん、涼介が「うっかり」そんなことをするはずはない。
史浩以外のチームの人間がその場にいるときは、そんな態度は取らない。
ケンタがいる時は、あまり気にしていないようだが。
どうして兄が他から分かるようにを女扱いするか―――おおよその予想はついている。

雨は一瞬弱くなったと思うと、またその分を取り返すかのように激しく降る。
にわか雨、というような短時間では過ぎ去りそうもない。
啓介はエンジンを切る。
全身に伝わっていた震動が消え、バタバタバタとガラスや車体に打ち付ける雨音だけが響く。
窓ガラスがうっすらと曇る。
不意に沈黙が怖くなって、は啓介の上着をぎゅっと掴んだ。

「―――なに、怖い?」

の不安を感じ取ったのか、啓介はそう言って小さく笑う。
その声は、柔らかいような、怖いような、男の、声。
は一瞬、どうしたらいいのか分からなくなる。
今さら男のふりをするのも滑稽な気がするけれど、急に女には戻れない。
いや、そもそも男のふりって、どんな風にするんだっけ?
女って、いつもと何が違う?

相変わらず打ち付ける雨の音は二人の会話を妨げるほど大きいのに、何故か自分の呼吸をする音が相手に聞こえてしまいそうで、は息を潜めてしまう。
恐い―――わけじゃない。
けど、どこかいつもと違う気がして―――心臓の音が煩い。

「閉じ込められた車の中に男と二人きりで、しかも外には誰もいないから、助けも呼べない。」
「・・・変なこと言わないで下さい。」
「別に変なことじゃねぇだろ。本当のことじゃん。」

普段よりトーンを抑えた声。
すぐに宙に消えてしまう小さな笑い。

「フルバケじゃ、身動き取れないじゃないですか。」
「お、結構冷静だな。でもさ、このまま麓のホテルまで行くこともできるよなー。」
「この雨の中?」
「別に赤城なんて、真っ暗闇でも下りれるっつーの。」

冗談―――冗談を言っているんだよな。
自分の考えが甘いから、それを諌めるために変なこと言ってるんだ。
は俯き、そう自分で自分に言い聞かせる。
そんな彼女を見透かすような啓介の声。こう言うときは鋭い。

「今、本気なわけないと思ってんだろ。」
「・・・いくらこんな状況だからって、啓介さんが俺のこと相手にするわけないし・・・。」
「お前、ホントにそんなこと思ってんの?相手にするとかしねぇとか、女とヤるのに関係ねーだろ!」

本当に、このまま山を下りてしまおうかと思ってしまう。
イライラする。
少しだけ、あの田中という男の気持ちが分かった気がした。

けれど、あいつと同じ道を辿る気はない。
だからここで何か無理やり事を起こす気はない。
そろそろ止めておかなければ―――後戻りできなくなる。
一瞬、雨が弱くなる。

「あ―――俺、戻ります。」

そのタイミングを逃さず、はドアを開けようとする。
狭いシートから抜けだそうと掛けた手を、啓介が掴んだ。
の冷たくなった腕に、啓介の手の熱が広がっていく。

「こんな雨の中逃げ出すくらい、俺とやるの嫌なわけ?」
「そういうわけじゃ・・・ないですけど・・・。」
「じゃあ、する?」

そんなことを言って、の顔を下から覗き込みながらも、啓介は少し後悔に襲われる。
普通に、まだ雨が降っているから中にいろとだけ言えばいいのに。
でもこうやって、困ったように俯いて「男」の自分を少しでも意識している「女」のを目の前にすると、意地悪がしたくなる。
雨がさらに弱まってくる。

「―――冗談だよ。」

降り始めはいきなりだったけれど、止むときは未練がましい。
啓介が放したの細い腕は、少し赤くなってしまった。
再び襲われる後悔と―――僅かな、愉悦。

「止んできたな。」
「そう、ですね・・・。」

二人で車の中から空を見上げる。
真っ暗で、雲の流れも何も見えないのだけれど。
自分の上着を握って、呆けたように空を眺めるを見て、啓介は呆れたような、ほっとしたような溜息を吐いた。

「帰ろうぜ!パンツまで濡れちまって気持ちわりぃよっ!」
「確かに・・・」
「なに、お前もパンツ濡れてんの?」
「『気持ち悪い』って所に同意したんですよっ!!」

借りた上着を放り投げるつもりが、自分の上着も一緒に啓介に投げてしまい、慌てて取り返す。
そうはさせるかとその上着を啓介が引っ張ると、それを掴んでいたまで引っ張られ、よろめいて啓介の膝に手を付いた。

「ばーか。」

ぐしゃぐしゃと濡れた髪をかき回すと、雨とシャンプーの匂いがした。