deception 7
少し軽めのエキゾースト音が、塀の向こうから響いてくる。
「お、来たな。」
啓介は洗車用のスポンジをバケツに入れ、ホースの水で手に付いた泡を流す。
「じゃあ、ちと見て来るから、ちゃんと洗っとけよ、ケンタ。」
「はーい。」
土曜昼下がりの高橋家のガレージ。
の住んでいるアパートにはまともな洗車スペースがないと言うので、啓介たちの家で洗うことになった。
飽くまで賭けをしたのは啓介だったのだが、負けたケンタが悪い、とケンタも呼び出される羽目に。
そして結局ついでだからと自分たちの車も洗っている。
「うわ・・・でかい家・・・。」
「高橋」と言う表札を確認し、は車の中からフロントガラス越しにその大きな屋敷を見上げた。
ガシャンと、その前の黒い門扉が開くと、先週峠で見た金髪の男。
「ガレージは奥だから、向こう回れ。」
「あ、はい。」
「塀伝いに行けば、すぐ分かっから。」
塀伝いって・・・塀、すごい長いし。
はのろのろと車を走らせる。
塀が途切れて左に曲がると、垣根の向こうにオレンジの車が見えた。
「あれ、えーと・・・ケンタさんも洗車ですか。」
「・・・お前の車は洗わねーからな!」
ケンタは挨拶代わりにホースの水をに向ける。
そして逃げるをなおも追いかけようとして、後ろから来た啓介に殴られた。
「ふざけてねぇで、さっさと洗っちまうぞ。」
「よろしくお願いします。」
「お前、ホントに俺らだけに洗わせる気かよ。」
「ホイールも念入りにお願いします。」
ペコリと小憎らしく頭を下げるに、今度は啓介が水をかけようとした。
「頑張ってるな。」
暫くして涼介が様子を見に現れた。
泡の付いたスポンジを手にしたまま、は会釈する。
結局も一緒に洗っていた。
自分のFCのホイールを前にしゃがみ込んでいる彼女を見て、涼介は思わず微笑する。
「何だ、もやらされてるのか。」
「啓介さんとケンタさんで脅すんです。」
「俺たちがいつ脅したよ!!」
二人の声がシンクロする。
「ガラの悪い奴ですまないな。」
「アニキまで本気にすんなよ!」
楽しそうじゃないか。
涼介はくすくすと笑う。
「は別にやらなくてもいいんだろう?こっちに来てコーヒーでも飲まないか。」
「何だよそれ、ずりぃ!」
「ずるいことはないだろう。はこの前バトルに勝ったんだぜ?なあ、ケンタ?」
チクリ、といじめるのを忘れない。
ケンタは「俺がやります!」と叫び、からスポンジを奪った。
涼介に手招きされ、はおずおずと彼の方へ近づいていく。
この人はちょっと苦手だ。
苦手―――と言うか、少し近づきがたい雰囲気がある。
そんな空気を感じ取り、涼介は無理やり自分に近づけるべく、の腕をぐいっと掴んだ。
「昼飯は用意しておくから。二人とも頑張れよ。」
「マジ?なに作んの?」
「の好みを聞いてからだな。」
「―――啓介さんは、何が好きなんですか?」
「アニキのカルボナーラ食いてぇ。」
「じゃあ、明太子スパゲティがいいです。」
「・・・てめぇ、、ぶっ殺す!」
よりによって明太子。
啓介はたらこのツブツブが苦手なのだ。
食べ物の恨みは恐ろしい。
啓介はあらん限りの力をその目にこめてを睨んだ。
「―――は細いな。ちゃんと食ってるのか?」
「え?た、食べてますよ。俺、太らない体質なんです。」
「そんなに細いと、ドライバーとしては結構キツいだろ。」
「・・・この前のバトルの次の日は筋肉痛でした。」
ジムカーナや峠に通い始めた時は、使っていない筋肉を使うのか、緊張して変なところに力が入るのか、よく筋肉痛になったものだが、ここ暫くは経験していなかった痛みである。
自身、ちょっと驚いた。
「バトルって、やっぱりすごい疲れるんですね。たったあれしか走ってないのに・・・。」
「でも楽しいだろう?」
「・・・はあ、まあ、確かに・・・。」
にやりと笑う涼介に、も反論できない。
自己ベストタイムを2秒以上短縮することが出来るなんて、思いも寄らなかった。
それに何より、あの、前の車のテールランプを追い続けている時の高揚感、抜くチャンスを窺っている時の興奮。
あんなにゾクゾクするものだとは、思わなかった。
二人は裏口の玄関―――と言ってもの住むアパートの玄関の3倍くらいはありそうな広さのそこで靴を脱ぎ、勧められてフカフカのスリッパに足を通す。
案内されたリビングには、高級そうな家具が並ぶ。
「今コーヒーを淹れて来るから、そこに座っててくれ。」
促されたソファーに腰掛けると、深く体が沈みこんで思わず「わあ」と声を上げてしまった。
「す、すいません・・・。」
「いや、埋もれないようにな。」
「はい・・・。」
赤くなるを見てくすくす笑いながら、涼介はキッチンの方へと消えて行った。
ふうと一息つき、は広いリビングを見渡す。
二週間前には、高橋涼介のことを「誰ですか、それ。」と言っていたというのに、今はその人の家のリビングにいる。
変な気分だ。
―――でかいテレビ。これ、何インチだろ?
壁際にあったテレビに目が留まり、視線をそのまま下に落とすとビデオデッキの前に何本かのテープ。
ちょっと気になり、はソファから立ち上がってそのテープを手に取った。
テープには何も書いてなく、近くにあったケースの中を覗いてみるとメモ書きがひらりと落ちてきた。
先週の土曜の日付と、の地元の峠の名前。
そして×中村
―――って、私?
「見てみるか?」
「わあっっ!!」
後ろから急に声をかけられて、さっきソファに沈み込んだ時に上げた声の何倍もの大きさの声を出してしまった。
そんなに驚かなくてもいいだろうと呆れたような涼介の声。
「この前、お前たちのバトルを後ろから撮ったんだ。」
「・・・あの時なんで後ろから来るんだろうと思ったら、そんなことしてたんですか・・・。」
「無断で悪かったな。」
「いえ、それはいいんですけど・・・あの、見て、いいんですか?」
「それはもちろん。」
にっこりと笑ってデッキにテープを差し込む。
ガシャガシャと音がして暫くすると大画面にの車の後姿が映し出された。
「もう少し離れて見た方がいいぜ。」
「・・・はい・・・。」
返事はしたものの上の空。
かぶりつきで映像に見入るに、涼介はため息をつきつつソファに腰を下ろした。
自分の納得いかないところで「あぁ」とか「う・・・」とか声を出し、ビデオに入っている涼介と啓介の容赦ない突っ込みの声に身を縮みこませる。
後ろからそんな彼女の様子を眺めていると、小動物か何かのようで楽しい。
涼介はコーヒーを飲み、を観察していた。
「―――1つ1つのコーナーにばかり気を取られていて、全体が見えていないよな。」
後ろから聞こえてきた涼介の声に、の肩がピクリと反応する。
「低速コーナーは比較的得意で、高速コーナーは怖いから苦手。その中間は処理の仕方がよく分からないから、もっと苦手。」
グサグサと背中に矢が刺さる。
「コース幅も全然使い切れていない。―――と言うか、あの旋回速度じゃ使い切る必要性もないな。」
つまりコーナリングが遅い、と、とどめの一撃。
「お前、田中や他の奴の車に乗せてもらったりしたことはあるか?」
「・・・いえ、ありません。」
「攻略法やドライビングについて話をしたりは?誰かに教わったりは?」
「・・・ない、です。」
「峠以外ではあるのか?」
「あんまり・・・。」
「あんまり」じゃなく「殆ど」ない。
出来るだけ女だとバレないようにする為に、峠では他の人の車に乗ったりはしない。
―――でも本当に速くなりたいなら、そんなこと気にせず同乗を頼むべきなんだろう。
峠での会話は、殆ど車のパーツのことばかりで、ドライビングについて突っ込んだ話はない。
ジムカーナでも、何となく黙々と走ってしまっている。
もちろんプロに指導を仰いだことはなく、全くの自己流だった。
「速くなりたくないのか?」
「なりたいです。」
「でも行動は矛盾していないか?」
後ろを振り返る。
腕を組んでを見ている涼介の顔には、笑みはない。
「一人で速くなれると思っているのか?誰の手も借りなくても走り込んでいれば、いつかは速くなれるか?もちろん走り込みは必要だけどな。」
「そう言うわけじゃないですけど・・・」
「でも、お前のやっていることは、そういうことじゃないのか?」
何でこんなに言われるんだろう。
自分の走行が見るに耐えなかったからか。
率直なアドバイスは有り難いし嬉しい―――けど、あまりに容赦ない言葉には思わず涙が出そうになる。
テレビの方を向き、拳をぐっと強く握って何とかそれを堪えた。
「―――田中のタイムなら、一ヶ月あれば抜ける。」
背後から涼介の声。
全く迷いのない、確信に満ちた声。
は一瞬その言葉の意味が分からなかった。
再び恐る恐る振り返る。
「―――え?」
「俺の下で走ればな。」
「それって―――チームに入るってことですか?」
「俺は慈善事業をしているわけじゃないから、見返りなしに自分の技術を売ることはしないさ。」
「俺が・・・入っていいってことですか?入れるんですか?」
「一応、誘っているつもりだが?」
涼介は思わず苦笑する。
「チームって・・・俺、よく分からないんですけど・・・。」
「そんな難しいもんじゃない。」
「決まりとか色々あるんですか。」
「細々したルールは多少あるが、お前なら別に足かせにはならないだろう。要は結果を残す。それだけだ。」
「結果・・・。」
「そう、ジムカーナでもな。」
「えっ、そっちも!?」
「当然だろう。チームのステッカーの付いた車で走るんだぜ?俺のチームの奴が競技でくだらない結果を残すなんてありえない。」
しれっと言い放つ涼介に、んなムチャクチャな・・・と心の中で突っ込む。
「―――だが、お前にもそれなりの見返りはあると思うぜ?」
涼介は立ち上がり、にコーヒーの入ったカップを渡す。
「遊びだからと、今のまま田中たちと楽しくやるか――――それとも、俺たちの所に来るか。」
悩むまでもない。
本当は悩むまでもないのだ。
自分が男だったなら。
女だと知ったら、この人は今の言葉を撤回するだろうか?
真っ直ぐに自分の目を見てくる男。
声が出ない。
性別のこともあるが―――何より、あの幼なじみが同じチームにいるのだ。
入った途端やめさせられるとも限らない。
「―――そんな顔するな。」
どんな顔をしていたのか、涼介は困ったような笑みを浮かべ、の頭をぽんぽんと撫でた。
「別に今すぐ決めろとは言わない。・・・色々あるだろうしな。」
「・・・はい。」
「とりあえず、それを飲んだら昼飯の用意でもするか。も手伝ってくれるか?」
「あ、はい。たらこスパゲティですよね。あれ?イクラでしたっけ。」
「・・・カルボナーラにしてやってくれ。」